所有してわかる絵画の魅力

一昨年の5月、コロナ禍で日本中が恐怖に覆われていた頃、ある画廊を訪れるために人気の途絶えた銀座に出かけた。異様な緊張感の中、一人で鑑賞しているとある1枚の絵に目が留まった。森に咲き誇る赤い花を抑えた色調で描いたその絵に何か宗教的ともいえる静寂を感じた。僕はその絵を買った。

それまで絵を買うなどとは想像したこともなかったが、自分で所有すると急に愛着が湧いてくる。骨董を手に入れたときと似ているかもしれない。作家が時間と労力を注ぎ込んだ絵が手元にあると思うだけで畏敬の念が湧いてくる。自分が買ったのは、その絵の良さがわかったからだという自負もある。そして、それを確かめるためにまた観たくなるのだ。

その後、その作家さんから案内をいただき他の画廊にも足を運ぶうち、また新たな絵を購入し、いろいろな作家さんたちと直接話をする機会にも恵まれた。そこで改めて思い知らされたのは、彼らは何よりも絵を描くことが好きだということだ。その一筆一筆には彼らの閃きや発見の喜びが結晶している。絵に惹きつけられ目が離せなくなるのは、作家が絵を描く喜びをわれわれも共有しているからに違いない。

ところで、僕は絵は描けないが写真は撮る。写真と絵は似ているようで別のものだ。シャッターを押せば誰でも撮れるので写真は絵に比べて低く観られがちだが、決して写真が絵に劣るわけではないと僕は思っている。優れた写真では構図はもちろんのことその一瞬にあらゆるものが凝縮している。それがもし人物写真ならそこにその人の人生さえ写ることがあるのだ。ただし、写真の真価はあくまで被写体の生の瞬間を捉えることにあり、基本的に撮影後に手を加えることはない。

一方、絵画の場合には画家の意識の積み重ねがある。デッサンで対象を捉えるだけでなく色彩や構図と格闘しながら絵画的な意匠を積み重ねていくことができる。そうして完成した絵には画家の創造力が重層的に凝縮している。

美術館で見る有名画家の絵にも、そうした意識の積み重ねは当然隠されているはずだ。だが、展覧会場でそれを解き明かすには時間が足りない。つまり、いつも消化不良なのだ。しかし、手元にある絵は何度でも観られるし観たくなる。構図の捉え方が変わればまた違って見えて来るし、細部のこだわりに唖然として全体を見直すこともある。絵とは本来そうやってゆっくり観るものなのだ。

画家の作品の多くは購入されることなく眠っている。絵を自宅で楽しむ人が増えれば、画家も助かり日本人の生活レベルももっと上がると思うのだが。

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