価値観の地殻変動

先日、TVで「ドール」のお店を取材した番組があった。ドールとは関節が動く着せ替え人形の一種で、いわゆる「オタク」系の人たちをターゲットにした製品だ。

フィギュアに似ているがフィギュアがアニメなどに登場するキャラクターであるのに対してドールはあくまでも名もない人間の人形だ。その特徴は「かわいさ」を徹底的に追及した容姿にあり、いずれも美少女、美少年ばかりだ。

愛好者は世代や男女を問わずに幅広い層にわたっている。秋葉原のその店に足を運んでいたのも、地方から出張で東京に来た50過ぎの男性や初任給で買って以来はまってしまった若者、アイドルから乗り換えたという若い女性、さらにはドールを通じてSNSでつながった熟年カップルなどさまざまだ。身長が70cm程度のものだと価格も一体8万円程するが、40体以上持っているという愛好者もいた。

その愛情はペットに対するものに似ているが、生き物ではないのでロスの心配がない。アニメなどの2次元のアイドルに比べれば、手元において髪をといだり自分の好きなポーズ取らせるなどより親密な関係を築くことができる。ドールがいたおかげで何とか厳しい現実に耐え抜き生きてこられたと語る女性もいた。

購入する際にはドールを「買う」と言うのは禁句で「お迎えする」と言わなければならない。まさにオタクならではリスペクトだが、容姿の好みを極限まで追及したドールの美しさは怪しくも洗練され、その魅力は愛好者でなくとも理解できる。

もともと人間関係に苦手意識があり、お互いに干渉を避けて「オタク」と呼び合ったのがオタクの語源だが、当時、彼らがハマっていたのがマンガやアイドルなどのサブカルチャーだった。そして、それらがテーマにしていたのが子供が成長してオトナになる際に捨てなければならない価値観だった。オタクたちは周りから白い目で見られながらもそうした価値観をオトナになっても持ち続けたのである。

人類は政治的には自由を求めて民主主義を築いてきたが、文化的には従来の価値観が根強く残り、それに反するものを抑圧し続けた。だが、インターネットやSNSの普及により、それまで特殊な、時には異常だとされてきた嗜好や性癖が実は世代や地域を超え共通する人類の根本的な一面であると認識されるようになってきた。

世の中は長年、社会的地位とかステイタスといわれるような固定的な価値観に支配されてきた。だが、それらは一部の人の都合によって作られてきたもので、決して普遍的なものではない。今やそうした固定観念は壊れつつある。オタクが先鞭をつけた価値観の地殻変動が時代を大きく変えようとしているのだ。

多様化する才能

世の中には抜きんでた才能の持ち主がいる。彼らは普通の人が困難なことを苦も無くやってしまうように見える。それを才能という一言で片づけているわけだが、実際にはそこには様々な能力が含まれており単純ではない。

サッカーでは天才と呼ばれる選手が大勢いるが、その才能にはキックの精度や強さ、身のこなし、スピードなどの身体能力、さらには状況判断力や創造性といった頭脳面の要素も含まれている。

また、才能というと努力しなくてもできるという意味に捉えられがちだが、それが通用するのはレベルが低いうちだけだ。才能あふれる選手は例外なく血のにじむような努力をしている。努力も才能の一つなのだ。

そうしたスポーツ選手のずば抜けた才能は世界中の人々を楽しませてくれる。ただ背後には彼らに活躍の場を与えている巨大なスポーツビジネスがある。そちらの側から見れば、選手の才能は金を生む商品なのだ。

スポーツ業界に限らず企業や政府なども優れた才能を求めている。そのため才能を発掘する仕組みが必要となる。受験はその一つで、学力という才能で国民をランク付けして各大学に振り分け、その後、就職の際の採否の基準として用いている。

こうして多くの場合、世の中で才能を生かせるかどうかは、それを求める側の眼鏡にかなうかどうかにかかっている。たとえ優れた才能を持っていても、社会にニーズにマッチしなければそれが生かされることはない。限られた才能で勝負するしかなく、そこで勝ち残れなければドロップアウトの烙印を押されてしまうのだ。

ところが、最近はSNSの発達で誰もが自分のやっていることを広く世界に向けて発信することができるようになった。インスタグラムなどで上げられる作品を見ていると、素晴らしい才能の持ち主が世界中にあふれていて驚かされる。中にはプロ顔負けのとてつもない才能に出合うこともある。

彼らの多くは別に金もうけのためにやっているわけではない。それが楽しくてやっているのだ。従来なら自己満足と言われたかもしれないが、今では世界中から共感の声が届く。才能を追求するために努力を惜しまないという点では彼らはプロと変わらない。忘れてはならないのはそれがその人を大きく成長させるということだ。

今や社会が個人の才能を評価するだけではなく、誰が才能を発揮してもそれを受け止めてくれる人がいる時代になりつつある。多様性にあふれた世界はまさにこうして築かれていくのではないだろうか。

所有してわかる絵画の魅力

一昨年の5月、コロナ禍で日本中が恐怖に覆われていた頃、ある画廊を訪れるために人気の途絶えた銀座に出かけた。異様な緊張感の中、一人で鑑賞しているとある1枚の絵に目が留まった。森に咲き誇る赤い花を抑えた色調で描いたその絵に何か宗教的ともいえる静寂を感じた。僕はその絵を買った。

それまで絵を買うなどとは想像したこともなかったが、自分で所有すると急に愛着が湧いてくる。骨董を手に入れたときと似ているかもしれない。作家が時間と労力を注ぎ込んだ絵が手元にあると思うだけで畏敬の念が湧いてくる。自分が買ったのは、その絵の良さがわかったからだという自負もある。そして、それを確かめるためにまた観たくなるのだ。

その後、その作家さんから案内をいただき他の画廊にも足を運ぶうち、また新たな絵を購入し、いろいろな作家さんたちと直接話をする機会にも恵まれた。そこで改めて思い知らされたのは、彼らは何よりも絵を描くことが好きだということだ。その一筆一筆には彼らの閃きや発見の喜びが結晶している。絵に惹きつけられ目が離せなくなるのは、作家が絵を描く喜びをわれわれも共有しているからに違いない。

ところで、僕は絵は描けないが写真は撮る。写真と絵は似ているようで別のものだ。シャッターを押せば誰でも撮れるので写真は絵に比べて低く観られがちだが、決して写真が絵に劣るわけではないと僕は思っている。優れた写真では構図はもちろんのことその一瞬にあらゆるものが凝縮している。それがもし人物写真ならそこにその人の人生さえ写ることがあるのだ。ただし、写真の真価はあくまで被写体の生の瞬間を捉えることにあり、基本的に撮影後に手を加えることはない。

一方、絵画の場合には画家の意識の積み重ねがある。デッサンで対象を捉えるだけでなく色彩や構図と格闘しながら絵画的な意匠を積み重ねていくことができる。そうして完成した絵には画家の創造力が重層的に凝縮している。

美術館で見る有名画家の絵にも、そうした意識の積み重ねは当然隠されているはずだ。だが、展覧会場でそれを解き明かすには時間が足りない。つまり、いつも消化不良なのだ。しかし、手元にある絵は何度でも観られるし観たくなる。構図の捉え方が変わればまた違って見えて来るし、細部のこだわりに唖然として全体を見直すこともある。絵とは本来そうやってゆっくり観るものなのだ。

画家の作品の多くは購入されることなく眠っている。絵を自宅で楽しむ人が増えれば、画家も助かり日本人の生活レベルももっと上がると思うのだが。

残された時間

 人生100年時代と言われるが、その時間にもやはり限りがある。歳をとるに連れ自分に残された時間がどれだけあるのかは切実な問題として急速に迫ってくる。

 こんなことならもっと若いうちから真剣に考えておくべきだったと思うこともあるが、若くして人生のカウントダウンをするのもなんだかつまらない。残り時間を気にせず生きていけるのは若さの特権なのだ。逆に時間を切実に感じて生きていけるのは歳を取ったものの特権だ。人生にはその年齢によってやるべきことがある。

 そうした中、最近、中学の同級生のAさんがベートーヴェンの交響曲の全曲演奏を目指して自らオーケストラを立ち上げた。もともと2つの市民オーケストラでヴァイオリンを弾いていたが、このままでは自分の音楽ができないと感じ、思い切って何人かの同士とともに知り合いに声をかけメンバーを集めたのだ。

 1年ほど前、コロナ禍の真っ只中に最初の演奏会の案内を受け取った時には正直言って驚いた。もともとエネルギーの塊のような女性だが、オーケストラをやっていくのは並大抵のことではない。自分の演奏だけでも大変なのにオーケストラ全体の面倒を見なければならない。メンバー同士の人間関係の問題もあるだろう。

 さらにこのオーケストラには指揮者がいないと聞いて唖然とした。各パート間のつなぎはどうなるのだ。メンバー間の音楽の解釈の違いは?普通に考えれば無謀な話だ。だが、パート間の連携においては互いに意志の疎通を徹底的に図ることで克服し、音楽の解釈についてもスコアを深く読み込み皆で何度も話し合って合意を作り上げて行ったと言う。結果的に指揮者の不在が逆にメンバーの結束を固めたという。

 その効果は演奏にはっきり現れていた。先日開かれた第3回の演奏会では明らかにメンバーの有機的な結びつきが強まっていた。そして、オーケストラ全員から自分たちの音楽をやっているという自負と喜びが溢れ、それが感動の波となって押し寄せて来る。英雄交響曲のコーダを弾き終えた時の彼女の表情には、「やり切った」という達成感が溢れていた。これこそまさに彼女の目指したものだったのだ。

 その彼女の口から、「時間がない」という言葉が何度も聞かれた。今のパワーをいつまで維持できるか不安があるのだろう。だが、それは一方でもっと上達したい、そしてさらにベートヴェンの理想に近づきたいという強い思いがあるからなのだ。

 残りの人生で何をやりたいか。その問いはこれまで自分が何のために生きてきたかを改めて問いかける。その凝縮した時間をいかに過ごしどのような答えを出していけるのか。それは人生最後のそして最大の挑戦なのだ。

成功の軛

 昔読んだ小林秀雄の文章に、「成功とは世間に成功させてもらうこと」という一節があった。成功した人の多くは自分の実力でそれを勝ち取ったと思っているが、実は世の中がそのタイミングで彼の才能を必要としていたからで、さもなければ成功はおぼつかない。人生、あまり成功に拘っていると道を誤りかねない。

 世の中には成功を目指す人で溢れている。事業で成功し大金持ちになりたいと思っている人もいればオリンピックの金メダルを目指す人もいる。一方で世間も成功者をもてはやす。東大に合格した人には畏敬の念を抱き、ベンチャー企業の旗手はメディアも競って取り上げる。成功者はまさにヒーローなのだ。

 ヒーローにサクセスストーリーはつきものだ。その歩みは必ずしも順風満帆ではない。子供の頃は他人と違うことでコンプレックスに悩むが、ある時、才能を生かすチャンスに巡り合いガムシャラに努力する。すると周りにはサポートする人も現れ彼は成功をつかんでいくのだ。だが、実際には同じような体験をしても成功する人はごくわずかだ。こうした美談は多分にメディアが作り上げた虚構なのである。

 僕自身は、人生の早い段階で成功路線を諦めたような気がする。周りに優秀な人がたくさんいて、まともに勝負しても勝てそうもなかった。そして何より彼らとはやりたいことが違っていた。そこで、自分の中で才能を感じるものをできるだけ引き出ししてみようと発想を切り替えたのだ。

 とはいえ、何らかの形で自分の存在を世間に示したいという想いはあった。だが、自分の生き方と世間の要望はなかなか相入れない。それをどう受け入れれば良いのかわからぬまま、自分の居場所を見つけよう悶々と彷徨い続けてきたのである。

 ところが、最近、ふとそうした重苦しさから解放されていることに気がついた。歳のせいかもしれない。人生で残された貴重な時間を本当にやりたいことに使うべきだといういう想いが日に日に強くなっているのだ。

 それにしてもメディアにしばしば登場する成功者に魅力を感じることはほとんどない。特に成功に舞い上がっている人ほどみっともないものはない。肝心なのは成功した人の人間的な魅力であって成功したことではないのだ。

 結局のところ自分を高めるための努力を続けるしかない。そんなことは小林の言葉がとっくに教えてくれていたではないか。成功の軛から逃れるのにずいぶん遠回りをしてしまった。だが、今からでも遅くはない。少し肩が軽くなったところで、改めて自分の持てるものを活かすというテーマに正面から向き合ってみよう。

メダルの功罪

 コロナ禍でのオリンピックが始まった。開催には賛否両論あったが、東京オリンピックを目指して来た大勢のアスリートとその関係者がコロナ禍を乗り越え世界各地から一堂に会したのを見ると胸が熱くなった。

 開会式も控えめで観客の声援もない会場はまさに戦時下のオリンピックの様相を呈しているが、そうした中でメダル争いをめぐる興奮だけはいつもとかわらない。メダルは選手のモチベーションを高め、観戦する者にも熱狂的な興奮を呼び起こす。オリンピック独特の雰囲気はメダルによって生み出されていると言っても過言ではない。だが、オリンピックの季節が来るたびに、日本選手のメダル獲得に一喜一憂する一方で、メダルへのあまりにも強いこだわりに時として複雑な思いを覚えてきた。

 目標としてきたメダルを逃した選手が、「これまでやってきたことが全て無駄になった」と号泣する姿をしばしば目にする。期待されながらもメダルを逃した選手への心ない誹謗中傷もある。せっかく金メダルをとっても、その後、目標を見失い、精神的に病んでしまう選手もいる。そうした悲劇を目にするたびに、メダルとはそれほどのものだろうかと思わずにはいられない。

 こうしたメダルへの過剰なこだわりはメディアの責任が大きい。メダルを取るか取らないかでメディアの扱いは全く異なり、そのため世間の関心もメダリストばかりに向くことになる。その結果、メダルの重さが選手の実力を超えて一人歩きし、選手に異常なプレッシャーとしてのしかかることになる。

 もともと選手はその競技が好きでその道を志したはずである。そうした選手が最も充実感を覚えるのは自らの上達の瞬間に違いない。とはいえ一生懸命練習しても必ず上達するとは限らない。スランプもあれば怪我もある。そうした困難を乗り越えて選手たちが身につけた高い技術と強い精神力に比べれば、メダルの価値などせいぜいおまけ程度のものではないだろうか。

 メダルを有力視されていた選手が惜しくもメダルを逃した後、やり切ったというすがすがしい笑顔で勝者を称えるシーンを見ることがある。本人は悔しいに違いない。だが、そうした態度にこそその人の人間としての価値が現れるのだ。

 今回、選手たちは試合後のインタビューでメダル云々よりもまずオリンピックの舞台に立てたことに対する感謝を述べていて好感が持てる。できればさらに一緒に戦ったライバルたちへのレスペクトも積極的に表明してほしい。それによってメダルは本来の栄誉としての価値を取り戻すことができるのではないだろうか。

始動!セカンドハウスプロジェクト

 昨年2月に母が亡くなったが、その思いに耽る間もなく世界はコロナ禍に突入して行った。死という紛れもない現実とそれに続く何か非日常的な感染症の世界。僕は自分の中で次第に何かが動き始めるのを感じていた。

 しばらく前から予兆はあった。母の衰えや娘たちの成長により自分の残りの人生をどのように生きるか考える機会が増していた。写真の撮影に改めて本腰を入れ始めたのもそのせいだろう。ただ、それらは従来やってきたことの見直しの域を出なかった。何かを大きく変えるより、あくまでもこれまで取り組んできたことの質を高めるべきだという思いが強かった。

 ところが、母の死により否が応でも自分に残された時間を意識させられた。何か始めるなら今しかない。動けば何か見えてくるに違いない。こうしてたどり着いたのがセカンドハウスプロジェクトだった。

 背景には長女が3年前から建築設計の仕事を始めたことがある。僕自身も昔から建築には興味があった。彼女に設計を依頼すれば、建築を通じて互いの理解も深まり、普通では思いつかない面白い発想が浮かぶかも知れない。

 なにしろ、今の葛飾のマンションは狭くて人も呼べない。セカンドハウスができれば、友人を招き得意の料理を振舞うこともできるだろう。ギャラリーを設けて自分の写真だけでなく知り合いの画家の絵も展示してはどうか。ピアノを置いて内輪の音楽会も開ける。物書きに集中できる空間も作ろう。妄想はどんどん膨らんで行った。

 ただ、子供も独立した今、それほど費用はかけられない。では、新築ではなく千葉の里山の古民家でも格安で手に入れてリノベーションしてはどうだろうか。自然溢れる生活は長年の夢でもあった。そう思って探し始めたが、すぐに壁にぶつかった。そこでやりたいことを冷静に考えてみるとアクセスが悪すぎるのだ。結局、松戸や市川など自宅から自転車でも行ける範囲に絞られ、里山は諦めざるを得なかった。

 だが、ネットで情報を集めその辺りを自転車で回り始めると嬉しい発見があった。住宅街に接して広大な農地が広がり、樹々が生茂る緑地が点在している。今住んでいる葛飾から江戸川1本挟んだだけで、実はこれほど豊かな自然があったのである。

 間取りや立地、価格がリノベーションに向いた物件を見つけるのは容易ではない。だが、娘と一緒に現地に足を運び、あれこれ検討するのは勉強にもなり実に面白い。さらに、自分がそこで何をやるのか、何ができるのか、これからの人生何がやりたいのか繰り返し問い直す。すでにプロジェクトは始まっているのだ。

資本主義は限界か

 毎年、年末年始には娯楽番組に混じって経済の特集番組が組まれる。特に最近は、資本主義の限界についての議論が盛んだ。

 20世紀の半ばまで、経済は生活に必要な「もの」中心に動いていた。毎日の食材、生活の利便性を高める家電や車などだ。しかし、20世紀後半になると世の中に生活必需品が一通り行き渡り、「もの」を売るのは次第に難しくなって行った。

 そこで1970年代になると、「もの」以外の新たな商品として金融商品が生み出された。ちょうどコンピューターの普及時期と重なり、金融は急速に発展していく。

 さらに20世期末にはインターネットが登場する。富を生み出す主役は情報などの無形資産に移り、GAFAのような巨大IT企業が世界の経済を支配するようになる。

 ただ、無形資産だけでは人は生きていけない。生活には様々な製品やサービスが必要だ。だが、次第に無形資産が圧倒的な利益をもたらし、「もの」の経済を凌ぐようになった。そうした状況においてはたして資本主義は豊かな社会を実現してくれるだろうか。近年、急速に拡大する貧富の格差は資本主義の限界を示しているのではないか。そう考える経済学者も少なくない。

 国家が巨大IT企業になんらかの規制をかけ、その利益を広く国民に分配するべきだという主張もある。だが、巨大IT企業と言えども常に厳しい国際競争にさらされ、彼らの競争力は今や国家の競争力に直結している。

 そして、忘れてはならないのが中国の存在だ。中国はITにおいても世界の先端を走っている。中国の独走を許すわけにはいかない西側諸国は、自国のIT産業の競争力を削ぐような手は打ちにくい。資本主義を追い詰め世界中で格差を拡大させている最大の要因の一つは、間違いなく巨大化する中国の存在なのだ。

 最近では西側諸国も自国の競争力をなんとか維持するために格差を容認しているように見える。一部の富裕層が国内の弱者層から搾取するまさに国内植民地主義ともいえる状態だ。世界のいたる所で資本主義は機能不全に陥っているのである。

 こうした状況において、単に格差解消を叫ぶだけでは効果は期待できない。格差をなくすことで競争力が高まる仕組みが必要だ。実は格差が広がり低賃金労働者が増えれば、国家は彼らが持っているポテンシャルを生かすことができない。本来、国民全員が多様な能力を発揮する社会のほうが競争力が高まるはずなのだ。

 まずは資本主義の限界を論じるよりも、経営効率ばかり考えている企業がもっと社員の能力を引き出す方向に発想を転換すべきではないだろうか。

記憶の不思議な世界

 最近、テレビでは記憶力を競いあうクイズ番組が真っ盛りだ。視聴者はそれを見て「やっぱりT大出は頭が良いな」などと感心する。記憶力に優れた人が頭が良いというのは社会的な常識であり、誰もが自分の記憶力がもっとよかったらと思ったことがあるに違いない。

 コンピューターの登場以来、人間の記憶はあたかもデータのように脳のどこかのメモリーに蓄えられているかのようなイメージが定着している。だが、実は脳のどこを探してもそうした記憶の痕跡は見つからない。記憶のメカニズムはいまだに謎に包まれているのだ。

 今、自分の意識を探ってみる。すると先ほど飲んだコーヒーの味、朝見た抜けるような青空、あるいは去年の今頃のことが思い出される。それらは特に思い出そうとして思い出したものではない。記憶というのは決してクイズや試験に応えるためだけにあるわけではなく、われわれの意識を形成するベースとなっているのである。われわれの脳には膨大な記憶が眠っており、そのなかで何らかの理由で表面に現れたものが意識として認識されているのだ。

 記憶は創造の源でもある。芸術家が何かを発想する時、けっしてそれは無から生み出されるわけではない。脳裏に蓄えられた様々な記憶が芸術家の独創性により絶妙に絡み合うことで新たな発想が生み出されるのだ。

 記憶は常に変化している。しばらく前の自分の写真を見て、当時はこんなに若かったのかと驚くことがあるだろう。辛い思い出が時を経ることによりいつしか良い思い出に変わることも珍しくない。過去の記憶は新たな体験により常にリニューアルされているのだ。

 そうした記憶は正にその人の人生の証でもある。同じ体験をしても人によって印象が異なり記憶も違ってくる。記憶はその人の物の見方、感じ方、そして生き方を反映しているのだ。つまり、人格を形成しているのは記憶だと言っても過言ではない。 

 われわれの頭脳には人生で蓄えた膨大な記憶が眠っている。確かにその中には人の名前の情報もあり、時としてそれを思い出さなければならない場合もあるだろうが、記憶をそのためにだけ使うのはあまりにももったいない。

 同窓会で昔話に花を咲かせる時の楽しさは格別なものがある。だが、当時、楽しいことばかりあったわけではない。時とともに記憶が熟成し変化しているのだ。そうした記憶の不思議な世界をもっと楽しんでみてはどうだろうか。

自分との出会い

 先日、将棋の藤井聡太7段が史上最年少で8大タイトルの一つ棋聖位を獲得した。だが、コロナウイルスが流行り始めていた頃、その実力はすでに一流だと誰もが認めていたが、強豪ひしめくタイトル保持者からの奪取となるとそう簡単ではないと思われていた。今回の勝利の原因について藤井棋聖自身は、コロナによる対極自粛期間中に自分の将棋をじっくり見つめ直すことができたことが大きかったと述べている。

 それを聞いて自分でも思い当たるところがあった。2月に母が亡くなり頻繁に名古屋と東京を行き来する生活が終わると入れ替わるようにコロナによる自粛が始まった。予定していた行事はことごとく取りやめになり、人との交流もパタリと途絶えた。

 だが、そうしたある日、ふと自分の肩が軽くなっているのに気がついた。それまで特に不安や憂鬱を感じながら暮らしてきたつもりはないが、どうやら普段の生活の中にもさまざまなストレスが隠れていたようだ。コロナのような大きな環境の変化がなければ、ずっと気づかなかったことだろう。

 さらにしばらくすると、まるで深い湖の底にゆっくり横たわっているかのように自分の心が静かになっているのに気がついた。自分が感じていることを手にとるようにはっきりと意識することができる。

 それまで意識と心の間に挟まっていた何か目に見えない板のような障壁が急に取り払われ、自分の心に直接触れることができるようになったような感じだった。僕は何か非常に大切なものを見つけたような気がした。同時にそれまで心の中にあった漠然とした不安感も薄れているのに気がついた。

 人はいつも安心を求めている。何か少しでも心配なことがあればそれに備えようとする。いい大学に入ろうとするのもお金を貯めようとするのもそのためだ。それによって心の中から不安を取り除こうとする。だが、老いや死などのような不安はそうした保険をかけても解消しない。消そうとすればするほど不安は増すばかりだ。

 心が静かになって不安が薄らいだのは、そこに何ものにも替えがたいものを感じたからだ。人生で大切なことは、成果を出して人に認められることでも不安を解消することでもなく、自分の心と触れ合い感じることではないのか。生きるというのは実は自分との出会いではないのか。

 ソーシャルディスタンスがとやかく言われている昨今だが、自分との距離ならいくら縮めても構わないだろう。人生において、今、コロナ禍に見舞われるのも何かの運命だろう。これを機に自分と静かに向き合って行きたい。