価値観の地殻変動

先日、TVで「ドール」のお店を取材した番組があった。ドールとは関節が動く着せ替え人形の一種で、いわゆる「オタク」系の人たちをターゲットにした製品だ。

フィギュアに似ているがフィギュアがアニメなどに登場するキャラクターであるのに対してドールはあくまでも名もない人間の人形だ。その特徴は「かわいさ」を徹底的に追及した容姿にあり、いずれも美少女、美少年ばかりだ。

愛好者は世代や男女を問わずに幅広い層にわたっている。秋葉原のその店に足を運んでいたのも、地方から出張で東京に来た50過ぎの男性や初任給で買って以来はまってしまった若者、アイドルから乗り換えたという若い女性、さらにはドールを通じてSNSでつながった熟年カップルなどさまざまだ。身長が70cm程度のものだと価格も一体8万円程するが、40体以上持っているという愛好者もいた。

その愛情はペットに対するものに似ているが、生き物ではないのでロスの心配がない。アニメなどの2次元のアイドルに比べれば、手元において髪をといだり自分の好きなポーズ取らせるなどより親密な関係を築くことができる。ドールがいたおかげで何とか厳しい現実に耐え抜き生きてこられたと語る女性もいた。

購入する際にはドールを「買う」と言うのは禁句で「お迎えする」と言わなければならない。まさにオタクならではリスペクトだが、容姿の好みを極限まで追及したドールの美しさは怪しくも洗練され、その魅力は愛好者でなくとも理解できる。

もともと人間関係に苦手意識があり、お互いに干渉を避けて「オタク」と呼び合ったのがオタクの語源だが、当時、彼らがハマっていたのがマンガやアイドルなどのサブカルチャーだった。そして、それらがテーマにしていたのが子供が成長してオトナになる際に捨てなければならない価値観だった。オタクたちは周りから白い目で見られながらもそうした価値観をオトナになっても持ち続けたのである。

人類は政治的には自由を求めて民主主義を築いてきたが、文化的には従来の価値観が根強く残り、それに反するものを抑圧し続けた。だが、インターネットやSNSの普及により、それまで特殊な、時には異常だとされてきた嗜好や性癖が実は世代や地域を超え共通する人類の根本的な一面であると認識されるようになってきた。

世の中は長年、社会的地位とかステイタスといわれるような固定的な価値観に支配されてきた。だが、それらは一部の人の都合によって作られてきたもので、決して普遍的なものではない。今やそうした固定観念は壊れつつある。オタクが先鞭をつけた価値観の地殻変動が時代を大きく変えようとしているのだ。

多様化する才能

世の中には抜きんでた才能の持ち主がいる。彼らは普通の人が困難なことを苦も無くやってしまうように見える。それを才能という一言で片づけているわけだが、実際にはそこには様々な能力が含まれており単純ではない。

サッカーでは天才と呼ばれる選手が大勢いるが、その才能にはキックの精度や強さ、身のこなし、スピードなどの身体能力、さらには状況判断力や創造性といった頭脳面の要素も含まれている。

また、才能というと努力しなくてもできるという意味に捉えられがちだが、それが通用するのはレベルが低いうちだけだ。才能あふれる選手は例外なく血のにじむような努力をしている。努力も才能の一つなのだ。

そうしたスポーツ選手のずば抜けた才能は世界中の人々を楽しませてくれる。ただ背後には彼らに活躍の場を与えている巨大なスポーツビジネスがある。そちらの側から見れば、選手の才能は金を生む商品なのだ。

スポーツ業界に限らず企業や政府なども優れた才能を求めている。そのため才能を発掘する仕組みが必要となる。受験はその一つで、学力という才能で国民をランク付けして各大学に振り分け、その後、就職の際の採否の基準として用いている。

こうして多くの場合、世の中で才能を生かせるかどうかは、それを求める側の眼鏡にかなうかどうかにかかっている。たとえ優れた才能を持っていても、社会にニーズにマッチしなければそれが生かされることはない。限られた才能で勝負するしかなく、そこで勝ち残れなければドロップアウトの烙印を押されてしまうのだ。

ところが、最近はSNSの発達で誰もが自分のやっていることを広く世界に向けて発信することができるようになった。インスタグラムなどで上げられる作品を見ていると、素晴らしい才能の持ち主が世界中にあふれていて驚かされる。中にはプロ顔負けのとてつもない才能に出合うこともある。

彼らの多くは別に金もうけのためにやっているわけではない。それが楽しくてやっているのだ。従来なら自己満足と言われたかもしれないが、今では世界中から共感の声が届く。才能を追求するために努力を惜しまないという点では彼らはプロと変わらない。忘れてはならないのはそれがその人を大きく成長させるということだ。

今や社会が個人の才能を評価するだけではなく、誰が才能を発揮してもそれを受け止めてくれる人がいる時代になりつつある。多様性にあふれた世界はまさにこうして築かれていくのではないだろうか。

所有してわかる絵画の魅力

一昨年の5月、コロナ禍で日本中が恐怖に覆われていた頃、ある画廊を訪れるために人気の途絶えた銀座に出かけた。異様な緊張感の中、一人で鑑賞しているとある1枚の絵に目が留まった。森に咲き誇る赤い花を抑えた色調で描いたその絵に何か宗教的ともいえる静寂を感じた。僕はその絵を買った。

それまで絵を買うなどとは想像したこともなかったが、自分で所有すると急に愛着が湧いてくる。骨董を手に入れたときと似ているかもしれない。作家が時間と労力を注ぎ込んだ絵が手元にあると思うだけで畏敬の念が湧いてくる。自分が買ったのは、その絵の良さがわかったからだという自負もある。そして、それを確かめるためにまた観たくなるのだ。

その後、その作家さんから案内をいただき他の画廊にも足を運ぶうち、また新たな絵を購入し、いろいろな作家さんたちと直接話をする機会にも恵まれた。そこで改めて思い知らされたのは、彼らは何よりも絵を描くことが好きだということだ。その一筆一筆には彼らの閃きや発見の喜びが結晶している。絵に惹きつけられ目が離せなくなるのは、作家が絵を描く喜びをわれわれも共有しているからに違いない。

ところで、僕は絵は描けないが写真は撮る。写真と絵は似ているようで別のものだ。シャッターを押せば誰でも撮れるので写真は絵に比べて低く観られがちだが、決して写真が絵に劣るわけではないと僕は思っている。優れた写真では構図はもちろんのことその一瞬にあらゆるものが凝縮している。それがもし人物写真ならそこにその人の人生さえ写ることがあるのだ。ただし、写真の真価はあくまで被写体の生の瞬間を捉えることにあり、基本的に撮影後に手を加えることはない。

一方、絵画の場合には画家の意識の積み重ねがある。デッサンで対象を捉えるだけでなく色彩や構図と格闘しながら絵画的な意匠を積み重ねていくことができる。そうして完成した絵には画家の創造力が重層的に凝縮している。

美術館で見る有名画家の絵にも、そうした意識の積み重ねは当然隠されているはずだ。だが、展覧会場でそれを解き明かすには時間が足りない。つまり、いつも消化不良なのだ。しかし、手元にある絵は何度でも観られるし観たくなる。構図の捉え方が変わればまた違って見えて来るし、細部のこだわりに唖然として全体を見直すこともある。絵とは本来そうやってゆっくり観るものなのだ。

画家の作品の多くは購入されることなく眠っている。絵を自宅で楽しむ人が増えれば、画家も助かり日本人の生活レベルももっと上がると思うのだが。

武器としての脱力

以前にピアノにおける脱力について何度か書いたことがある。脱力はしようとしてできるものではなく、脱力できる弾き方を見つけて初めて可能となったのだった。

だが、その後、一気に上達したかというとそうは問屋が卸さなかった。脱力しても弾けない所がいくらでも出てきたのだ。脱力だけではダメなのか。思わずため息が出た。だが、しばらくしてそうではないことに気がついた。脱力をしても弾けないのではない。そうした箇所では脱力できていないのである。つまり僕が見つけた弾き方は易しいところでは通用したが、少し難しくなると途端に力が入ってしまっていたのである。

ピアノ本来の魅力を生かすためには脱力は必須だ。従って作曲家はピアノの機能を徹底的に研究した上で、脱力して弾ける曲を作っている。いくら難しいところでも、正しい弾き方をすれば必ず脱力して弾けるはずなのだ。だが、どうやれば脱力できるかまでは譜面には書かれていない。あれこれ試して見つけていくしかないのだ。

そこで、これまで力づくで突破しようとしていた難しい箇所でも脱力できる弾き方を必ず見つけ出すという信念で臨むことにした。すると最初は絶望的に感じたところでも徐々に力が抜けるものだ。音色も表現力も目に見えて変わり、ピアノ本来の理にかなった弾き方が徐々に身につき始めていると実感している。また、こうして身につけた弾き方は簡単には忘れず、別の曲でも生かされていく。やっと長年の夢だった実力がつく練習になってきたのだ。

こうした脱力の重要性はスポーツや楽器演奏の世界では常識だろうが、 最近、全く別のことで効果を発揮した。僕には学生の頃から考え続けている物理学におけるある問題があり、今でも専門家の友人と定期的に議論を行っている。ところがいくら集中して考えても堂々巡りするばかりで最近は行き詰まりを感じていた。そこで、先日、ふと脱力を意識して考えてみようと思いついたのだ。

呼吸を整え自分の考えのどこに無理があるのか心の中を探ってみる。すると物理の世界では常識と思われているあることが実はあまり根拠がないことに気がついた。それに縛られていたのだ。そこで発想を変えてその常識を思い切って取り払ってみることにした。するとそれまで頭の中でもつれていた思考が整理され、霧が晴れるように前が見えてきたのである。それはまさにピアノでやっていることと同じだった。

ストレスで肩こりを感じる時などは誰もが脱力したいと思う。だが、脱力の効用はそれだけではない。脱力を目指して努力することで、理にかなったやり方に到達できるかもしれないのだ。しかもそれはピアノやスポーツだけの話ではない。俳句や文章のような精神的な表現においても強力な武器となりそうだ。

残された時間

 人生100年時代と言われるが、その時間にもやはり限りがある。歳をとるに連れ自分に残された時間がどれだけあるのかは切実な問題として急速に迫ってくる。

 こんなことならもっと若いうちから真剣に考えておくべきだったと思うこともあるが、若くして人生のカウントダウンをするのもなんだかつまらない。残り時間を気にせず生きていけるのは若さの特権なのだ。逆に時間を切実に感じて生きていけるのは歳を取ったものの特権だ。人生にはその年齢によってやるべきことがある。

 そうした中、最近、中学の同級生のAさんがベートーヴェンの交響曲の全曲演奏を目指して自らオーケストラを立ち上げた。もともと2つの市民オーケストラでヴァイオリンを弾いていたが、このままでは自分の音楽ができないと感じ、思い切って何人かの同士とともに知り合いに声をかけメンバーを集めたのだ。

 1年ほど前、コロナ禍の真っ只中に最初の演奏会の案内を受け取った時には正直言って驚いた。もともとエネルギーの塊のような女性だが、オーケストラをやっていくのは並大抵のことではない。自分の演奏だけでも大変なのにオーケストラ全体の面倒を見なければならない。メンバー同士の人間関係の問題もあるだろう。

 さらにこのオーケストラには指揮者がいないと聞いて唖然とした。各パート間のつなぎはどうなるのだ。メンバー間の音楽の解釈の違いは?普通に考えれば無謀な話だ。だが、パート間の連携においては互いに意志の疎通を徹底的に図ることで克服し、音楽の解釈についてもスコアを深く読み込み皆で何度も話し合って合意を作り上げて行ったと言う。結果的に指揮者の不在が逆にメンバーの結束を固めたという。

 その効果は演奏にはっきり現れていた。先日開かれた第3回の演奏会では明らかにメンバーの有機的な結びつきが強まっていた。そして、オーケストラ全員から自分たちの音楽をやっているという自負と喜びが溢れ、それが感動の波となって押し寄せて来る。英雄交響曲のコーダを弾き終えた時の彼女の表情には、「やり切った」という達成感が溢れていた。これこそまさに彼女の目指したものだったのだ。

 その彼女の口から、「時間がない」という言葉が何度も聞かれた。今のパワーをいつまで維持できるか不安があるのだろう。だが、それは一方でもっと上達したい、そしてさらにベートヴェンの理想に近づきたいという強い思いがあるからなのだ。

 残りの人生で何をやりたいか。その問いはこれまで自分が何のために生きてきたかを改めて問いかける。その凝縮した時間をいかに過ごしどのような答えを出していけるのか。それは人生最後のそして最大の挑戦なのだ。

ウクライナ戦争が訴える民主主義の重み

 224日、ロシアのプーチン大統領はロシア軍のウクライナへの侵攻を命じた。

 この侵攻に直接繋がっているのが、2014年に起きたウクライナ騒乱、つまりマイダン革命だ。ウクライナの首都キーウで民主化を目指す大規模なデモが起き、当時の親ロシア派大統領、ヤヌコーヴィッチを失脚させたのだ。

 これに激怒したプーチンは即座にクリミヤ半島に侵攻してこれを併合し、さらにウクライナ東部では親露派武装勢力が蜂起しドンバス地方に自治区を作った。

 プーチンは今回の侵攻の理由としてNATOの拡大によりロシアの安全保障が脅かされていると主張している。だが、NATOがロシアに侵攻するわけがない。彼が恐れているのはロシアの周辺国が民主化し、その波がロシアにも押し寄せることなのだ。

 同じ事情が東アジアにもある。2019年、中国は香港において国家安全維持法を制定し民主活動を抑え込んだ。これも習近平が香港の民主化運動が中国本土に飛び火することを恐れたためだった。独裁者にとっては民主化ほど恐ろしいものはないのだ。

 上記のマイダン革命でウクライナはロシアではなく民主主義を選ぶということを明確に宣言した。それ以降、プーチンはウクライナの民主化という強迫観念に取り憑かれ、ウクライナを支配下に置くべく今回の進行に至る作戦を進めてきたのである。

 彼はもとより泥沼の戦争をやるつもりはなかっただろう。ロシアが誇る強大な軍事力を見せつければウクライナは震え上がり簡単に降伏すると考えていたに違いない。それがこれまでのプーチンのやり方だった。

 だが、マイダン革命以降、ウクライナ人は脱ロシアを目指し軍事力に加えて情報戦も強化し、電力網も整備して来るべき戦いに備えてきた。さらにロシア侵攻が始まると自国と民主主義を守るために不屈の精神を示している。

 一方で西側諸国も一斉に強力なロシア制裁に動いた。さらにサイバー空間においても世界中のハッカーや民間企業が協力しロシア包囲網を形成している。世界中が民主主義を守るためにこれまでにない結束を見せているのだ。

 だが、どうやってこの戦争を終わらせるかは見通せない。プーチンにとってはウクライナで今後も民主化が進むことは許しがたい。一方のウクライナは、民主化を潰すためにロシアがいつでも軍事介入できるような条件は絶対に受け入れられない。

 今、行われている戦争は単にウクライナとロシアの戦いではない。民主主義と専制主義の戦いなのだ。ウクライナの人々は多大な犠牲を払いながら、世界中の人々に向けて改めて民主主義の重みとそれを守る覚悟を訴えているのである。

成功の軛

 昔読んだ小林秀雄の文章に、「成功とは世間に成功させてもらうこと」という一節があった。成功した人の多くは自分の実力でそれを勝ち取ったと思っているが、実は世の中がそのタイミングで彼の才能を必要としていたからで、さもなければ成功はおぼつかない。人生、あまり成功に拘っていると道を誤りかねない。

 世の中には成功を目指す人で溢れている。事業で成功し大金持ちになりたいと思っている人もいればオリンピックの金メダルを目指す人もいる。一方で世間も成功者をもてはやす。東大に合格した人には畏敬の念を抱き、ベンチャー企業の旗手はメディアも競って取り上げる。成功者はまさにヒーローなのだ。

 ヒーローにサクセスストーリーはつきものだ。その歩みは必ずしも順風満帆ではない。子供の頃は他人と違うことでコンプレックスに悩むが、ある時、才能を生かすチャンスに巡り合いガムシャラに努力する。すると周りにはサポートする人も現れ彼は成功をつかんでいくのだ。だが、実際には同じような体験をしても成功する人はごくわずかだ。こうした美談は多分にメディアが作り上げた虚構なのである。

 僕自身は、人生の早い段階で成功路線を諦めたような気がする。周りに優秀な人がたくさんいて、まともに勝負しても勝てそうもなかった。そして何より彼らとはやりたいことが違っていた。そこで、自分の中で才能を感じるものをできるだけ引き出ししてみようと発想を切り替えたのだ。

 とはいえ、何らかの形で自分の存在を世間に示したいという想いはあった。だが、自分の生き方と世間の要望はなかなか相入れない。それをどう受け入れれば良いのかわからぬまま、自分の居場所を見つけよう悶々と彷徨い続けてきたのである。

 ところが、最近、ふとそうした重苦しさから解放されていることに気がついた。歳のせいかもしれない。人生で残された貴重な時間を本当にやりたいことに使うべきだといういう想いが日に日に強くなっているのだ。

 それにしてもメディアにしばしば登場する成功者に魅力を感じることはほとんどない。特に成功に舞い上がっている人ほどみっともないものはない。肝心なのは成功した人の人間的な魅力であって成功したことではないのだ。

 結局のところ自分を高めるための努力を続けるしかない。そんなことは小林の言葉がとっくに教えてくれていたではないか。成功の軛から逃れるのにずいぶん遠回りをしてしまった。だが、今からでも遅くはない。少し肩が軽くなったところで、改めて自分の持てるものを活かすというテーマに正面から向き合ってみよう。

IT社会とストレス 

 今回のコロナ禍が社会にもたらした大きな変化の一つが在宅勤務の普及だ。本来ならばITが進歩した現代社会においては、技術的には出勤の必要はすでになくなっていたはずである。すでに40年前にはアルビン・トフラーが、パソコンの普及により「第三の波」が押し寄せ、在宅での仕事が当たり前になると予言していたのだ。だが、最近まで通勤がなくなることはなかった。

 今回、企業の多くはコロナを機に止むを得ない形で在宅勤務を始めたが、やってみれば心配したほど効率は低下せず、それどころかオフィス賃料や通勤交通費などの経費を大幅に削減するチャンスであることに気がついたのだ。

 働く側にとっても通勤がなくなればありがたい。ただ、かつてのトフラーの予言では、在宅勤務になれば人々が余暇などに使う時間が増え生活の質が格段に上がるということだったが、実際にもたらされたものは少々異なっているようだ。

 昨年の4月、知り合いの娘さんがある有名企業に入社したのだが、コロナの影響で入社早々在宅勤務となった。当初彼女は、せっかく憧れの会社に入社したのに、どうなってしまうのだろうかと心配していた。ところが、在宅勤務が1年程続いた頃、彼女は、このままずっと在宅でもいいと言い出した。今さら出社して複雑な人間関係に煩わされるのが不安だと言うのだ。多くのサラリーマンが在宅勤務を望むのは、通勤の煩わしさだけでなく人間関係に対するストレスから解放されたいからなのだ。

 ただ、現代社会では悪者扱いされるストレスだが、実は人が現実に適応するために不可欠なものだ。もちろん程度問題で健康に害を及ぼす程になれば別だが、人は人間関係に限らずさまざまなストレスを感じつつ、それを乗り越えていくことで環境に適応し成長していく。ストレスがなければ満足感も達成感も得られないのだ。

 特に人間関係におけるストレスとその克服という過程は重要で、それ自体が人生だと言っても過言ではない。考えてみれば、会社や学校、サークルなどの様々な組織は、人間関係の中で責任やプレッシャーなどのストレスを感じつつ自己を形成していくために人間が考え出した場、仕組みなのではないだろうか。

 その人間関係がネットの普及で劇的に変わった。従来は人目というストレスにより抑制されていた中傷やヘイトスピーチが、匿名性という隠蓑を得て噴出している。

 「言論の自由」はあくまでも従来の人間関係が前提となっている。ITがもたらすさまざまな社会問題を考える際には、人と人が直に会うことにより生じていたストレスが持っていたプラスの効果についても十分考慮する必要がある。

共同富裕

 去る7月1日に中国共産党は結党100周年を迎えた。そこで習近平国家主席が新たに打ち出したのが「共同富裕」の実現である。急速な発展に伴い拡大した格差を是正し人民が等しく豊かになることを目指すという。

 格差の拡大は今や世界的な問題である。アメリカでもGAFAなどの巨大IT企業による富の独占が問題となり、法的な規制や徴税の強化が検討されている。だが、中国のやり方は少し違う。莫大な富を蓄えた企業に対して直接寄付をさせ、それを貧しい人々に分配しようというのだ。その金額は莫大で、すでに巨大IT企業のテンセントは8500億円、アリババも1兆7000億円の拠出を発表している。

 改革は教育においても進められている。受験戦争による教育費の増加が教育の機会均等を妨げ、さらには少子化の一因となっていることに危機感を抱いた政府は、営利目的の学習塾の禁止に踏み切ったのだ。さらに、ネットゲームが子供に及ぼす悪影響を減らすために18歳未満の子供が週にできる時間を3時間以内と定めた。

 こうした政策は国民からは好感を持って迎えられている。先日、この9月から娘が小学校に通うことになった上海の知人に尋ねたところ、塾禁止は本当にありがたいと言う。あまりにも厳しい中国の受験事情は中国社会に重苦しい影を落としているのだ。また、大企業に対する寄付の要請に対しても賛成していた。貧しい人々の救済なくして将来の発展はないというのは中国における国民的なコンセンサスなのだ。

 一方、こうした政策に対して、日本では文化大革命時代の毛沢東を彷彿とさせると批判的している。毛沢東は貧しい国民の熱狂的な支持を味方につけることで自らへの批判を封じ政敵を葬り去った。習政権も汚職によって莫大な富を蓄えた政治家への国民の不満を背景に汚職撲滅を掲げ大物政治家を次々と粛清したことがある。

 中国に今の繁栄をもたらした巨大IT企業に巨額な寄付を課すことは成長の勢いをも削ぎかねない。それでもやるのは、金持ちを槍玉にあげ民衆の支持を得ることで権力強化を図るという共産党の永年の統治手法が今も根強く残っているからだろう。

 とはいえ、外からいくら批判しようと、中国は今後、共同富裕の実現を目指して着々と歩を進めていくに違いない。これは格差をはじめとする世界的な課題への挑戦であり、民主主義に対して社会主義の優位性を証明するための野心的な試みなのだ。

 アメリカはそうした中国に総合的な国力で圧倒されないよう、あらゆる対策を打っている。日本も安っぽい批判を繰り返すだけでなく、現状を冷静に分析し、共同富裕に勝る政策を示してほしいものだ。

メダルの功罪

 コロナ禍でのオリンピックが始まった。開催には賛否両論あったが、東京オリンピックを目指して来た大勢のアスリートとその関係者がコロナ禍を乗り越え世界各地から一堂に会したのを見ると胸が熱くなった。

 開会式も控えめで観客の声援もない会場はまさに戦時下のオリンピックの様相を呈しているが、そうした中でメダル争いをめぐる興奮だけはいつもとかわらない。メダルは選手のモチベーションを高め、観戦する者にも熱狂的な興奮を呼び起こす。オリンピック独特の雰囲気はメダルによって生み出されていると言っても過言ではない。だが、オリンピックの季節が来るたびに、日本選手のメダル獲得に一喜一憂する一方で、メダルへのあまりにも強いこだわりに時として複雑な思いを覚えてきた。

 目標としてきたメダルを逃した選手が、「これまでやってきたことが全て無駄になった」と号泣する姿をしばしば目にする。期待されながらもメダルを逃した選手への心ない誹謗中傷もある。せっかく金メダルをとっても、その後、目標を見失い、精神的に病んでしまう選手もいる。そうした悲劇を目にするたびに、メダルとはそれほどのものだろうかと思わずにはいられない。

 こうしたメダルへの過剰なこだわりはメディアの責任が大きい。メダルを取るか取らないかでメディアの扱いは全く異なり、そのため世間の関心もメダリストばかりに向くことになる。その結果、メダルの重さが選手の実力を超えて一人歩きし、選手に異常なプレッシャーとしてのしかかることになる。

 もともと選手はその競技が好きでその道を志したはずである。そうした選手が最も充実感を覚えるのは自らの上達の瞬間に違いない。とはいえ一生懸命練習しても必ず上達するとは限らない。スランプもあれば怪我もある。そうした困難を乗り越えて選手たちが身につけた高い技術と強い精神力に比べれば、メダルの価値などせいぜいおまけ程度のものではないだろうか。

 メダルを有力視されていた選手が惜しくもメダルを逃した後、やり切ったというすがすがしい笑顔で勝者を称えるシーンを見ることがある。本人は悔しいに違いない。だが、そうした態度にこそその人の人間としての価値が現れるのだ。

 今回、選手たちは試合後のインタビューでメダル云々よりもまずオリンピックの舞台に立てたことに対する感謝を述べていて好感が持てる。できればさらに一緒に戦ったライバルたちへのレスペクトも積極的に表明してほしい。それによってメダルは本来の栄誉としての価値を取り戻すことができるのではないだろうか。