残された時間

 人生100年時代と言われるが、その時間にもやはり限りがある。歳をとるに連れ自分に残された時間がどれだけあるのかは切実な問題として急速に迫ってくる。

 こんなことならもっと若いうちから真剣に考えておくべきだったと思うこともあるが、若くして人生のカウントダウンをするのもなんだかつまらない。残り時間を気にせず生きていけるのは若さの特権なのだ。逆に時間を切実に感じて生きていけるのは歳を取ったものの特権だ。人生にはその年齢によってやるべきことがある。

 そうした中、最近、中学の同級生のAさんがベートーヴェンの交響曲の全曲演奏を目指して自らオーケストラを立ち上げた。もともと2つの市民オーケストラでヴァイオリンを弾いていたが、このままでは自分の音楽ができないと感じ、思い切って何人かの同士とともに知り合いに声をかけメンバーを集めたのだ。

 1年ほど前、コロナ禍の真っ只中に最初の演奏会の案内を受け取った時には正直言って驚いた。もともとエネルギーの塊のような女性だが、オーケストラをやっていくのは並大抵のことではない。自分の演奏だけでも大変なのにオーケストラ全体の面倒を見なければならない。メンバー同士の人間関係の問題もあるだろう。

 さらにこのオーケストラには指揮者がいないと聞いて唖然とした。各パート間のつなぎはどうなるのだ。メンバー間の音楽の解釈の違いは?普通に考えれば無謀な話だ。だが、パート間の連携においては互いに意志の疎通を徹底的に図ることで克服し、音楽の解釈についてもスコアを深く読み込み皆で何度も話し合って合意を作り上げて行ったと言う。結果的に指揮者の不在が逆にメンバーの結束を固めたという。

 その効果は演奏にはっきり現れていた。先日開かれた第3回の演奏会では明らかにメンバーの有機的な結びつきが強まっていた。そして、オーケストラ全員から自分たちの音楽をやっているという自負と喜びが溢れ、それが感動の波となって押し寄せて来る。英雄交響曲のコーダを弾き終えた時の彼女の表情には、「やり切った」という達成感が溢れていた。これこそまさに彼女の目指したものだったのだ。

 その彼女の口から、「時間がない」という言葉が何度も聞かれた。今のパワーをいつまで維持できるか不安があるのだろう。だが、それは一方でもっと上達したい、そしてさらにベートヴェンの理想に近づきたいという強い思いがあるからなのだ。

 残りの人生で何をやりたいか。その問いはこれまで自分が何のために生きてきたかを改めて問いかける。その凝縮した時間をいかに過ごしどのような答えを出していけるのか。それは人生最後のそして最大の挑戦なのだ。

ウクライナ戦争が訴える民主主義の重み

 224日、ロシアのプーチン大統領はロシア軍のウクライナへの侵攻を命じた。

 この侵攻に直接繋がっているのが、2014年に起きたウクライナ騒乱、つまりマイダン革命だ。ウクライナの首都キーウで民主化を目指す大規模なデモが起き、当時の親ロシア派大統領、ヤヌコーヴィッチを失脚させたのだ。

 これに激怒したプーチンは即座にクリミヤ半島に侵攻してこれを併合し、さらにウクライナ東部では親露派武装勢力が蜂起しドンバス地方に自治区を作った。

 プーチンは今回の侵攻の理由としてNATOの拡大によりロシアの安全保障が脅かされていると主張している。だが、NATOがロシアに侵攻するわけがない。彼が恐れているのはロシアの周辺国が民主化し、その波がロシアにも押し寄せることなのだ。

 同じ事情が東アジアにもある。2019年、中国は香港において国家安全維持法を制定し民主活動を抑え込んだ。これも習近平が香港の民主化運動が中国本土に飛び火することを恐れたためだった。独裁者にとっては民主化ほど恐ろしいものはないのだ。

 上記のマイダン革命でウクライナはロシアではなく民主主義を選ぶということを明確に宣言した。それ以降、プーチンはウクライナの民主化という強迫観念に取り憑かれ、ウクライナを支配下に置くべく今回の進行に至る作戦を進めてきたのである。

 彼はもとより泥沼の戦争をやるつもりはなかっただろう。ロシアが誇る強大な軍事力を見せつければウクライナは震え上がり簡単に降伏すると考えていたに違いない。それがこれまでのプーチンのやり方だった。

 だが、マイダン革命以降、ウクライナ人は脱ロシアを目指し軍事力に加えて情報戦も強化し、電力網も整備して来るべき戦いに備えてきた。さらにロシア侵攻が始まると自国と民主主義を守るために不屈の精神を示している。

 一方で西側諸国も一斉に強力なロシア制裁に動いた。さらにサイバー空間においても世界中のハッカーや民間企業が協力しロシア包囲網を形成している。世界中が民主主義を守るためにこれまでにない結束を見せているのだ。

 だが、どうやってこの戦争を終わらせるかは見通せない。プーチンにとってはウクライナで今後も民主化が進むことは許しがたい。一方のウクライナは、民主化を潰すためにロシアがいつでも軍事介入できるような条件は絶対に受け入れられない。

 今、行われている戦争は単にウクライナとロシアの戦いではない。民主主義と専制主義の戦いなのだ。ウクライナの人々は多大な犠牲を払いながら、世界中の人々に向けて改めて民主主義の重みとそれを守る覚悟を訴えているのである。

成功の軛

 昔読んだ小林秀雄の文章に、「成功とは世間に成功させてもらうこと」という一節があった。成功した人の多くは自分の実力でそれを勝ち取ったと思っているが、実は世の中がそのタイミングで彼の才能を必要としていたからで、さもなければ成功はおぼつかない。人生、あまり成功に拘っていると道を誤りかねない。

 世の中には成功を目指す人で溢れている。事業で成功し大金持ちになりたいと思っている人もいればオリンピックの金メダルを目指す人もいる。一方で世間も成功者をもてはやす。東大に合格した人には畏敬の念を抱き、ベンチャー企業の旗手はメディアも競って取り上げる。成功者はまさにヒーローなのだ。

 ヒーローにサクセスストーリーはつきものだ。その歩みは必ずしも順風満帆ではない。子供の頃は他人と違うことでコンプレックスに悩むが、ある時、才能を生かすチャンスに巡り合いガムシャラに努力する。すると周りにはサポートする人も現れ彼は成功をつかんでいくのだ。だが、実際には同じような体験をしても成功する人はごくわずかだ。こうした美談は多分にメディアが作り上げた虚構なのである。

 僕自身は、人生の早い段階で成功路線を諦めたような気がする。周りに優秀な人がたくさんいて、まともに勝負しても勝てそうもなかった。そして何より彼らとはやりたいことが違っていた。そこで、自分の中で才能を感じるものをできるだけ引き出ししてみようと発想を切り替えたのだ。

 とはいえ、何らかの形で自分の存在を世間に示したいという想いはあった。だが、自分の生き方と世間の要望はなかなか相入れない。それをどう受け入れれば良いのかわからぬまま、自分の居場所を見つけよう悶々と彷徨い続けてきたのである。

 ところが、最近、ふとそうした重苦しさから解放されていることに気がついた。歳のせいかもしれない。人生で残された貴重な時間を本当にやりたいことに使うべきだといういう想いが日に日に強くなっているのだ。

 それにしてもメディアにしばしば登場する成功者に魅力を感じることはほとんどない。特に成功に舞い上がっている人ほどみっともないものはない。肝心なのは成功した人の人間的な魅力であって成功したことではないのだ。

 結局のところ自分を高めるための努力を続けるしかない。そんなことは小林の言葉がとっくに教えてくれていたではないか。成功の軛から逃れるのにずいぶん遠回りをしてしまった。だが、今からでも遅くはない。少し肩が軽くなったところで、改めて自分の持てるものを活かすというテーマに正面から向き合ってみよう。

IT社会とストレス 

 今回のコロナ禍が社会にもたらした大きな変化の一つが在宅勤務の普及だ。本来ならばITが進歩した現代社会においては、技術的には出勤の必要はすでになくなっていたはずである。すでに40年前にはアルビン・トフラーが、パソコンの普及により「第三の波」が押し寄せ、在宅での仕事が当たり前になると予言していたのだ。だが、最近まで通勤がなくなることはなかった。

 今回、企業の多くはコロナを機に止むを得ない形で在宅勤務を始めたが、やってみれば心配したほど効率は低下せず、それどころかオフィス賃料や通勤交通費などの経費を大幅に削減するチャンスであることに気がついたのだ。

 働く側にとっても通勤がなくなればありがたい。ただ、かつてのトフラーの予言では、在宅勤務になれば人々が余暇などに使う時間が増え生活の質が格段に上がるということだったが、実際にもたらされたものは少々異なっているようだ。

 昨年の4月、知り合いの娘さんがある有名企業に入社したのだが、コロナの影響で入社早々在宅勤務となった。当初彼女は、せっかく憧れの会社に入社したのに、どうなってしまうのだろうかと心配していた。ところが、在宅勤務が1年程続いた頃、彼女は、このままずっと在宅でもいいと言い出した。今さら出社して複雑な人間関係に煩わされるのが不安だと言うのだ。多くのサラリーマンが在宅勤務を望むのは、通勤の煩わしさだけでなく人間関係に対するストレスから解放されたいからなのだ。

 ただ、現代社会では悪者扱いされるストレスだが、実は人が現実に適応するために不可欠なものだ。もちろん程度問題で健康に害を及ぼす程になれば別だが、人は人間関係に限らずさまざまなストレスを感じつつ、それを乗り越えていくことで環境に適応し成長していく。ストレスがなければ満足感も達成感も得られないのだ。

 特に人間関係におけるストレスとその克服という過程は重要で、それ自体が人生だと言っても過言ではない。考えてみれば、会社や学校、サークルなどの様々な組織は、人間関係の中で責任やプレッシャーなどのストレスを感じつつ自己を形成していくために人間が考え出した場、仕組みなのではないだろうか。

 その人間関係がネットの普及で劇的に変わった。従来は人目というストレスにより抑制されていた中傷やヘイトスピーチが、匿名性という隠蓑を得て噴出している。

 「言論の自由」はあくまでも従来の人間関係が前提となっている。ITがもたらすさまざまな社会問題を考える際には、人と人が直に会うことにより生じていたストレスが持っていたプラスの効果についても十分考慮する必要がある。

共同富裕

 去る7月1日に中国共産党は結党100周年を迎えた。そこで習近平国家主席が新たに打ち出したのが「共同富裕」の実現である。急速な発展に伴い拡大した格差を是正し人民が等しく豊かになることを目指すという。

 格差の拡大は今や世界的な問題である。アメリカでもGAFAなどの巨大IT企業による富の独占が問題となり、法的な規制や徴税の強化が検討されている。だが、中国のやり方は少し違う。莫大な富を蓄えた企業に対して直接寄付をさせ、それを貧しい人々に分配しようというのだ。その金額は莫大で、すでに巨大IT企業のテンセントは8500億円、アリババも1兆7000億円の拠出を発表している。

 改革は教育においても進められている。受験戦争による教育費の増加が教育の機会均等を妨げ、さらには少子化の一因となっていることに危機感を抱いた政府は、営利目的の学習塾の禁止に踏み切ったのだ。さらに、ネットゲームが子供に及ぼす悪影響を減らすために18歳未満の子供が週にできる時間を3時間以内と定めた。

 こうした政策は国民からは好感を持って迎えられている。先日、この9月から娘が小学校に通うことになった上海の知人に尋ねたところ、塾禁止は本当にありがたいと言う。あまりにも厳しい中国の受験事情は中国社会に重苦しい影を落としているのだ。また、大企業に対する寄付の要請に対しても賛成していた。貧しい人々の救済なくして将来の発展はないというのは中国における国民的なコンセンサスなのだ。

 一方、こうした政策に対して、日本では文化大革命時代の毛沢東を彷彿とさせると批判的している。毛沢東は貧しい国民の熱狂的な支持を味方につけることで自らへの批判を封じ政敵を葬り去った。習政権も汚職によって莫大な富を蓄えた政治家への国民の不満を背景に汚職撲滅を掲げ大物政治家を次々と粛清したことがある。

 中国に今の繁栄をもたらした巨大IT企業に巨額な寄付を課すことは成長の勢いをも削ぎかねない。それでもやるのは、金持ちを槍玉にあげ民衆の支持を得ることで権力強化を図るという共産党の永年の統治手法が今も根強く残っているからだろう。

 とはいえ、外からいくら批判しようと、中国は今後、共同富裕の実現を目指して着々と歩を進めていくに違いない。これは格差をはじめとする世界的な課題への挑戦であり、民主主義に対して社会主義の優位性を証明するための野心的な試みなのだ。

 アメリカはそうした中国に総合的な国力で圧倒されないよう、あらゆる対策を打っている。日本も安っぽい批判を繰り返すだけでなく、現状を冷静に分析し、共同富裕に勝る政策を示してほしいものだ。

メダルの功罪

 コロナ禍でのオリンピックが始まった。開催には賛否両論あったが、東京オリンピックを目指して来た大勢のアスリートとその関係者がコロナ禍を乗り越え世界各地から一堂に会したのを見ると胸が熱くなった。

 開会式も控えめで観客の声援もない会場はまさに戦時下のオリンピックの様相を呈しているが、そうした中でメダル争いをめぐる興奮だけはいつもとかわらない。メダルは選手のモチベーションを高め、観戦する者にも熱狂的な興奮を呼び起こす。オリンピック独特の雰囲気はメダルによって生み出されていると言っても過言ではない。だが、オリンピックの季節が来るたびに、日本選手のメダル獲得に一喜一憂する一方で、メダルへのあまりにも強いこだわりに時として複雑な思いを覚えてきた。

 目標としてきたメダルを逃した選手が、「これまでやってきたことが全て無駄になった」と号泣する姿をしばしば目にする。期待されながらもメダルを逃した選手への心ない誹謗中傷もある。せっかく金メダルをとっても、その後、目標を見失い、精神的に病んでしまう選手もいる。そうした悲劇を目にするたびに、メダルとはそれほどのものだろうかと思わずにはいられない。

 こうしたメダルへの過剰なこだわりはメディアの責任が大きい。メダルを取るか取らないかでメディアの扱いは全く異なり、そのため世間の関心もメダリストばかりに向くことになる。その結果、メダルの重さが選手の実力を超えて一人歩きし、選手に異常なプレッシャーとしてのしかかることになる。

 もともと選手はその競技が好きでその道を志したはずである。そうした選手が最も充実感を覚えるのは自らの上達の瞬間に違いない。とはいえ一生懸命練習しても必ず上達するとは限らない。スランプもあれば怪我もある。そうした困難を乗り越えて選手たちが身につけた高い技術と強い精神力に比べれば、メダルの価値などせいぜいおまけ程度のものではないだろうか。

 メダルを有力視されていた選手が惜しくもメダルを逃した後、やり切ったというすがすがしい笑顔で勝者を称えるシーンを見ることがある。本人は悔しいに違いない。だが、そうした態度にこそその人の人間としての価値が現れるのだ。

 今回、選手たちは試合後のインタビューでメダル云々よりもまずオリンピックの舞台に立てたことに対する感謝を述べていて好感が持てる。できればさらに一緒に戦ったライバルたちへのレスペクトも積極的に表明してほしい。それによってメダルは本来の栄誉としての価値を取り戻すことができるのではないだろうか。

テクノロジーが生む格差

 テクノロジーの進歩は永年に渡って人々の生活レベルを向上させてきた。かつて人力でやっていた家事や仕事の多くは家電や機械が代行し、情報や娯楽はテレビやITによっていつでもどこでも手軽に楽しむことができるようになった。コンピュータはその計算能力で人間には不可能な予測や分析を可能にした。江戸時代と今の生活を比較すれば、その違いのほとんどがテクノロジーの進歩によるものであることがわかる。

 テクノロジーは企業の競争力の源だ。そのため、企業は生き残りをかけて新たなテクノロジーの開発にしのぎを削ってきた。その結果、優れたテクノロジーを開発できた企業が勝ち残り、その利潤を次のテクノロジーの開発に回すという循環によって企業は成長し経済が拡大してきたのである。

 特に20世紀後半以降は、経済におけるテクノロジーへの依存度は増し、経済戦争の実体はテクノロジーの戦争になって行った。しばらく前にアメリカがファーウェイの締め出しという行動に踏み切ったのはそれを象徴する出来事だった。なんとしてもテクノロジーで優位に立ちたいアメリカは、このままでは負けると判断し、禁じ手ともいえる行動に出たのだ。

 かつては、ある企業がテクノロジーで世界を席巻したとしても、その後、それが波及することで世界中が潤った。たとえ他の企業があるテクノロジーで先行したとしても、自分たちにも強みがあり、互いに共存していくことが可能だった。だが、最近ではトップと2番手以下の差があまりにも大きくなってしまい、先頭を走っている企業以外はすべて負け組になってしまう。

 戦争に勝つためには緻密な作戦を立てることが必要だが、その作戦が高度になればなるほど、一人の勝者が全てを取る傾向が強まる。高度なテクノロジーは同時にテクノロジーの戦争における作戦をも高度化していく。今の世界で起こっているそうした高度化された作戦においては、AIがチェスの駒を動かすように人を奴隷のように働かせることが折り込まれているのではないだろうか。最近、世界中で急速に格差が拡大している一因はそこにあると思われる。このまま行けば、テクノロジーの進歩がもたらす恩恵よりも格差による弊害のほうが大きくなってしまうだろう。

 この流れを断ち切るためには、そうした低賃金による働き方を禁止していくしかない。そうなれば、企業は自らの作戦からそうしたオプションを除外するしかなくなるだろう。もっとも、先端企業はすでに次を考えているかもしれない。つまり、今の低賃金労働者の仕事をテクノロジーで置き換えていく方法を。

始動!セカンドハウスプロジェクト

 昨年2月に母が亡くなったが、その思いに耽る間もなく世界はコロナ禍に突入して行った。死という紛れもない現実とそれに続く何か非日常的な感染症の世界。僕は自分の中で次第に何かが動き始めるのを感じていた。

 しばらく前から予兆はあった。母の衰えや娘たちの成長により自分の残りの人生をどのように生きるか考える機会が増していた。写真の撮影に改めて本腰を入れ始めたのもそのせいだろう。ただ、それらは従来やってきたことの見直しの域を出なかった。何かを大きく変えるより、あくまでもこれまで取り組んできたことの質を高めるべきだという思いが強かった。

 ところが、母の死により否が応でも自分に残された時間を意識させられた。何か始めるなら今しかない。動けば何か見えてくるに違いない。こうしてたどり着いたのがセカンドハウスプロジェクトだった。

 背景には長女が3年前から建築設計の仕事を始めたことがある。僕自身も昔から建築には興味があった。彼女に設計を依頼すれば、建築を通じて互いの理解も深まり、普通では思いつかない面白い発想が浮かぶかも知れない。

 なにしろ、今の葛飾のマンションは狭くて人も呼べない。セカンドハウスができれば、友人を招き得意の料理を振舞うこともできるだろう。ギャラリーを設けて自分の写真だけでなく知り合いの画家の絵も展示してはどうか。ピアノを置いて内輪の音楽会も開ける。物書きに集中できる空間も作ろう。妄想はどんどん膨らんで行った。

 ただ、子供も独立した今、それほど費用はかけられない。では、新築ではなく千葉の里山の古民家でも格安で手に入れてリノベーションしてはどうだろうか。自然溢れる生活は長年の夢でもあった。そう思って探し始めたが、すぐに壁にぶつかった。そこでやりたいことを冷静に考えてみるとアクセスが悪すぎるのだ。結局、松戸や市川など自宅から自転車でも行ける範囲に絞られ、里山は諦めざるを得なかった。

 だが、ネットで情報を集めその辺りを自転車で回り始めると嬉しい発見があった。住宅街に接して広大な農地が広がり、樹々が生茂る緑地が点在している。今住んでいる葛飾から江戸川1本挟んだだけで、実はこれほど豊かな自然があったのである。

 間取りや立地、価格がリノベーションに向いた物件を見つけるのは容易ではない。だが、娘と一緒に現地に足を運び、あれこれ検討するのは勉強にもなり実に面白い。さらに、自分がそこで何をやるのか、何ができるのか、これからの人生何がやりたいのか繰り返し問い直す。すでにプロジェクトは始まっているのだ。

資本主義は限界か

 毎年、年末年始には娯楽番組に混じって経済の特集番組が組まれる。特に最近は、資本主義の限界についての議論が盛んだ。

 20世紀の半ばまで、経済は生活に必要な「もの」中心に動いていた。毎日の食材、生活の利便性を高める家電や車などだ。しかし、20世紀後半になると世の中に生活必需品が一通り行き渡り、「もの」を売るのは次第に難しくなって行った。

 そこで1970年代になると、「もの」以外の新たな商品として金融商品が生み出された。ちょうどコンピューターの普及時期と重なり、金融は急速に発展していく。

 さらに20世期末にはインターネットが登場する。富を生み出す主役は情報などの無形資産に移り、GAFAのような巨大IT企業が世界の経済を支配するようになる。

 ただ、無形資産だけでは人は生きていけない。生活には様々な製品やサービスが必要だ。だが、次第に無形資産が圧倒的な利益をもたらし、「もの」の経済を凌ぐようになった。そうした状況においてはたして資本主義は豊かな社会を実現してくれるだろうか。近年、急速に拡大する貧富の格差は資本主義の限界を示しているのではないか。そう考える経済学者も少なくない。

 国家が巨大IT企業になんらかの規制をかけ、その利益を広く国民に分配するべきだという主張もある。だが、巨大IT企業と言えども常に厳しい国際競争にさらされ、彼らの競争力は今や国家の競争力に直結している。

 そして、忘れてはならないのが中国の存在だ。中国はITにおいても世界の先端を走っている。中国の独走を許すわけにはいかない西側諸国は、自国のIT産業の競争力を削ぐような手は打ちにくい。資本主義を追い詰め世界中で格差を拡大させている最大の要因の一つは、間違いなく巨大化する中国の存在なのだ。

 最近では西側諸国も自国の競争力をなんとか維持するために格差を容認しているように見える。一部の富裕層が国内の弱者層から搾取するまさに国内植民地主義ともいえる状態だ。世界のいたる所で資本主義は機能不全に陥っているのである。

 こうした状況において、単に格差解消を叫ぶだけでは効果は期待できない。格差をなくすことで競争力が高まる仕組みが必要だ。実は格差が広がり低賃金労働者が増えれば、国家は彼らが持っているポテンシャルを生かすことができない。本来、国民全員が多様な能力を発揮する社会のほうが競争力が高まるはずなのだ。

 まずは資本主義の限界を論じるよりも、経営効率ばかり考えている企業がもっと社員の能力を引き出す方向に発想を転換すべきではないだろうか。

記憶の不思議な世界

 最近、テレビでは記憶力を競いあうクイズ番組が真っ盛りだ。視聴者はそれを見て「やっぱりT大出は頭が良いな」などと感心する。記憶力に優れた人が頭が良いというのは社会的な常識であり、誰もが自分の記憶力がもっとよかったらと思ったことがあるに違いない。

 コンピューターの登場以来、人間の記憶はあたかもデータのように脳のどこかのメモリーに蓄えられているかのようなイメージが定着している。だが、実は脳のどこを探してもそうした記憶の痕跡は見つからない。記憶のメカニズムはいまだに謎に包まれているのだ。

 今、自分の意識を探ってみる。すると先ほど飲んだコーヒーの味、朝見た抜けるような青空、あるいは去年の今頃のことが思い出される。それらは特に思い出そうとして思い出したものではない。記憶というのは決してクイズや試験に応えるためだけにあるわけではなく、われわれの意識を形成するベースとなっているのである。われわれの脳には膨大な記憶が眠っており、そのなかで何らかの理由で表面に現れたものが意識として認識されているのだ。

 記憶は創造の源でもある。芸術家が何かを発想する時、けっしてそれは無から生み出されるわけではない。脳裏に蓄えられた様々な記憶が芸術家の独創性により絶妙に絡み合うことで新たな発想が生み出されるのだ。

 記憶は常に変化している。しばらく前の自分の写真を見て、当時はこんなに若かったのかと驚くことがあるだろう。辛い思い出が時を経ることによりいつしか良い思い出に変わることも珍しくない。過去の記憶は新たな体験により常にリニューアルされているのだ。

 そうした記憶は正にその人の人生の証でもある。同じ体験をしても人によって印象が異なり記憶も違ってくる。記憶はその人の物の見方、感じ方、そして生き方を反映しているのだ。つまり、人格を形成しているのは記憶だと言っても過言ではない。 

 われわれの頭脳には人生で蓄えた膨大な記憶が眠っている。確かにその中には人の名前の情報もあり、時としてそれを思い出さなければならない場合もあるだろうが、記憶をそのためにだけ使うのはあまりにももったいない。

 同窓会で昔話に花を咲かせる時の楽しさは格別なものがある。だが、当時、楽しいことばかりあったわけではない。時とともに記憶が熟成し変化しているのだ。そうした記憶の不思議な世界をもっと楽しんでみてはどうだろうか。