伊藤大介先生の思い出

 大学の頃、物理学教室の教官の一人に伊藤大介先生がいらっしゃった。先生は朝永振一郎先生の弟子で、彼のノーベル賞受賞に大きな貢献をされ、1925年にハイゼンベルクらによって発見された量子力学のその後の発展を身を持って体験してこられた方だった。

伊藤先生は、当時、すでに六十を越えておられたが、その思考パワーは衰えておらず、計算に没頭すると知らぬ間に朝になっていたなどと言うことは日常茶飯事だった。温厚な人柄で、われわれ学部生にも全く偉ぶるところがなく、クラスの忘年会などではスケールの大きい痛快な話をお聞きするのが楽しみだった。

大学3年の頃、僕は量子力学に対してある疑問を抱いていた。なぜ、古典物理学を修正する形で量子力学を構築しなければならないのだろうか。古典物理学を知らないで量子力学を創ったとすれば、(それは物理学の教科書を書きかえることになるだろうが)いったいどういうものになるのだろうか。僕はその考えについて伊藤先生と議論してみたく、ある日、先生の居室に向かった。先生に質問するのはめずらしくはなかったが、その時、教科書を小脇にかかえていた僕の手は震えていた。先生は驚いてくれるだろうか。あるいは、「そんなことはとっくに誰それが考えているよ」と言われてしまうのだろうか。

 ドアをノックすると運よく先生はご在室で、笑顔で僕を招き入れてくれた。ところが、話し始めると普段と勝手が違う。僕の質問に対して、先生は良く知られた量子力学誕生のいきさつを繰り返し説明してくれるばかりなのだ。いつもは質問の急所をたちどころに見抜き、的確なアドバイスをしてくれるのだが、その日に限って全く話が噛み合わない。なぜ、肝心なことに答えてくれないのだ。僕の声は次第に大きくなって行った。

気がつくと窓の外はすでに暗くなっている。しかも、先生の声はかすれ、疲労困憊のご様子である。時計を見ると、すでに3時間近く経っている。多忙な先生が一人の学部生にこれほど長い時間を割くなどと言うのは異例のことだった。僕は、割り切れぬ思いをグッと飲み込み、真っ赤になって部屋を飛び出したのである。

その後、級友にも話してみたが、「杉山がまた変なことにこだわっている」と思われただけで、誰も本気で相手になろうとはしなかった。結局、この問題は僕の胸の奥にしまわれ、時が流れた。ところが、人生思わぬ展開があるものである。

先日、現在も筑波にある高エネルギー加速器研究機構で物理学の最前線に身を置く大学の級友、Kに会った。このところ僕も物理について考える機会が増えていたが、少し離れたところから見てみると、最近の物理学には気に喰わない点が目に付いた。それをKに問い正してみたかったのである。僕は満を持して、「現在、最も興味があることは何か」と聞いてみた。Kは少し考えてから口を開いた。「物理学の教科書を書きかえることかな」。僕の頭のなかで時計の針が大きな音を立てて傾くような気がした。彼の話は30年前に僕が伊藤先生にぶつけたあの問題そのものだったのである。