生き方さがしの出版記

 昨年12月、これまで『月』に投稿してきたエッセイをまとめて、「生き方さがしという選択-発見と考察のバリエーション」として出版した。

当初は、これまで書き溜めてきたものをまとめるだけだから大したことはないと考えていたが、出版が終わってこの1ヵ月半あまりを振り返ると、その前後で自分の中で大きな変化があり、改めて出版ということの重みを感じている。

 今回、最も苦労したのは本のタイトルだった。この7年余り、特にテーマを定めずに書きたいことを書き散らしてきた。むしろ自分の中にあるさまざまな面を満遍なく出そうと心がけてきた。それを一つのタイトルでくくることなど不可能に思えた。代表的なエッセイのタイトルをそのまま本のタイトルにしてしまうという手もあったが、それではこれまでのエッセイをただまとめただけに終わってしまう。せっかく本として出版するからには、新たな「作品」として世に問いたかった。

 タイトルを考えながら過去のエッセイを読み返しているうちに、エッセイをいくつかに分類することができたので、それを元に章立てを行った。しかし、それらを統一するテーマとなると、やはり適当なものは思い浮かばなかった。代わりにある疑問が浮かんだ。そもそも自分は何のためにエッセイを書いてきたのだろうか。するとそれに対して、「生き方さがし」という答がすぐに浮かんだのである。僕はこのエッセイを書きながら、自分の生き方をさがして来たのだ。生き方さがしの軌跡として見直すことで、これらのエッセイは新たな価値を持ち、次のステップへとつながっていくのではないか。「生き方さがしという選択」というタイトルはそうした経緯で生まれたのである。

 逆にこのタイトルは、僕に改めて「生き方さがし」について考えさせることになった。偉そうなタイトルをつけてしまったが、僕の生き方さがしはどれほどのものだろうか。生き方をさがしてソニーを辞めたことは確かだが、自分は何か確固としたものを見つけたのだろうか。いま、自分がやっている仕事で、自慢できるような成果は何もないではないか。

 しかし、そんなことを思い悩んでいるうちに、仕事を成功させようと焦っている自分が一歩離れたところから見えてきたのだ。問題は、仕事がうまく行くか行かないかではなく、仕事に対して自分らしい取り組みをしているかどうかということではないのか。相撲でも、「大切なのは勝敗ではなく自分の相撲を取りきること」と言うではないか。自分らしさを存分に出したときに結果はついてくるものなのだ。手詰まりなのは、本気で自分の生き方を追求していないからなのだ。

ソニーを辞めて生き方さがしの旅に出たと言えば悲壮な選択に聞こえる。しかし、自分らしく生きることは、実は最も力強い生き方ではないだろうか。そのことに気がついたことで、僕は自分の中で新たに力が湧き起こるのを感じているのである。今回の出版は、改めて自分の生き方を見直す貴重な機会となったのである。

神経症的社会

かつて本と言えば文学作品を思い浮かべたものだが、最近、書店で目立つのはノウハウ本ばかりである。英会話や部下との付き合い方、頭の良い子どもの育て方から定年後の田舎暮らしまで、とにかく役に立つ本が目白押しである。

ノウハウ本を手に取る人は、一見、向上心の強い人たちに見える。だが、そうした本には、「簡単に身につく~」とか「15分で~」というようなフレーズがつきものである。読者は何とか楽をしてノウハウが身につかないかと期待しているのだ。競争社会にあってノウハウを身につけることで少しでも有利な立場に立ちたいという強迫観念と、しかし苦労はしたくないという気持ちの妥協点にノウハウ本は存在するのである。

一方で先日出版された村上春樹の新刊には書店で長い列ができた。村上氏の世界はノウハウとはまさに対極にある。主人公は、困難に直面してもそれに立ち向かうノウハウなど持たない。ただただ困難と向き合い、結末に至っても答はでない。ノウハウに従って生きることのつまらなさを村上氏はよく知っているのである。巷に溢れる過剰なノウハウにうんざりとした読者が、村上氏の世界に求めるのは、自分の心の鼓動を感じるための静寂だろうか。

ところで、かつてスポーツの世界では今よりはるかに根性が重んじられていた。しかし、さまざまな科学的トレーニングが導入されるにつれて、根性と言う言葉はすっかりすたれてしまい、むしろ非科学的で無茶な練習を連想させるというネガティヴな印象すら持たれるようになった。苦労して根性を鍛えるより、すぐれたトレーニング方法を身につけるほうが上達が速いとなれば、どうしてもそちらに逃げようとする。しかし、スポーツの目的は上達することだけではない。スポーツを通して人間的に成長することが何よりも大切なのだ。もしそれがなければ、たとえオリンピックで金メダルを取ったところで何の価値があろうか。だが、実際にはドーピングしてまでも勝とうとする選手がいる。いつから勝つことが自己の成長より優先してしまったのだろう。根性の軽視と無関係とは思えないのだ。

科学技術の進歩で、人々は次第に精神的にも肉体的にも苦労することなく生活できるようになった。特に最近では、それまでさして不便だと感じていなかったところにも無理やり不便さを見出し、新たな便利さを押し付けてくる。かつては、苦しんだ分だけ強くなるといわれたスポーツの世界でさえ、困難に立ち向かう姿勢は変わろうとしているのだ。だが、必要以上の便利さは、かえって人間の成長を蝕むのではないだろうか。人類はどこかで、越えてはならない一線を越えてしまったのである。

人間的な成長がなければ感動や喜びも小さく、わずかな困難にも大きなストレスを感じるようになる。今や社会全体がそうした神経症に苛まれ、さまざまな社会問題が噴出しているのだ。だが、対策は常に小手先の症療法ばかりである。しかし、本当に必要なのは、利便性への誘惑を絶ち、自らの生命力を鍛え直すことではないだろうか。

「本棚の本」

最近、8年ぶりに引っ越した。引越しといっても、マンションの2階から真上の3階に移っただけなのだが、家のすべての荷物を移動してみると、永い間、ひっそりと息を潜めていた記憶の箱が解かれ、忘れていた時間が蘇ってきた。

僕の部屋はやたらと荷物が多い。もともと多趣味なたちだが、多すぎる荷物はかえって自分の趣味を壊す結果となっており、今回の引越しを機に、何とか自分の感性にあった部屋に創り変えようと意気込んでいた。そのため、当面使わないものはひとまず捨てるという方針を立てて実行していった。8年前の引っ越し以来、大量の本が箱に入ったまま閉架式になっていたが、これにも原則を適用すると、本棚に並べられないものは捨てなければならない。しかし、こだわりのある本はなかなか捨てられない。必要な本がいつでもすぐに取り出せるよう整理するつもりが、結局、本棚に2列、3列と押し込められる形となってしまい、当初の感性にあった部屋には程遠い状況だ。しかし、そうして雑然と並べられた本を眺めたとき、思わず何ともいえぬ感慨と充実に捉えられていたのだ。

そうした書籍は、偶然読まれたものでも、他人に薦められたものでもなく、すべて自分で選んだものだ。改めて見ると、その選択には紛れもない僕自身の個性が表れている。分野は小説や歴史、評論などの文芸書から写真集や物理の本など多岐にわたっている。難しい本が多く、どの本にも苦闘した跡がある。何度も繰り返し読んだ物も少なくない。逆に、気楽に娯楽で読むような本はほとんどない。それだけに、一冊一冊に重みがある。

20代、30代と自分は何を考え、何を目指して生きてきたのか。当時は将来をどう思っていたのか。そこに並べられたそれぞれの本は、自分がどうやって生きて行こうか迷った足跡のようだ。何かを見つけるためというより、とにかく自分の幅を広げ土台をつくるために、直感のおもむくままに読んでいた。その後、時は予想以上に速く過ぎ去り、いろいろ寄り道もしたが、今、改めてそれらを眺めてみると、いずれの本も自分の血となり肉となり、今の自分はその土台の上に立って歩いているとはっきり感じるのである。

今度本棚に並んだ本のほとんどは、すでに何度か読まれたものだ。並べておいても、今後もう読むことはないかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、棚に並ぶ本はかつての自分の理想を語り、今の自分を再び揺さぶる。本棚の本が真価を発揮するのは、まさに読み終えた時からなのである。