宇宙と生命

 火星に探査機キュリオシティーを送り込み、初の地球外生命の発見を目指していたNASA(米航空宇宙局)は、先日、「火星には現在生物が棲息している可能性は低い」と発表した。火星表面の大気から生命が存在するなら観測されるはずのメタンが検出できなかったからだ。過去には存在したかも知れないということだが、今回の結果は多くの研究者を失望させたに違いない。

 現在、地球外生命に対しては相反する2つの仮説が存在する。一つは、宇宙広しといえども生命は地球にしか存在しないというもの。もう一つは、この宇宙の至る所に生命が存在するというものだ。

 前者の根拠は以下の通りだ。生物は無生物からは生まれない。となると最初の生命はどのように誕生したのか。生命の最小単位は細胞だが、化学反応で細胞が自然に生まれるとは考えにくい。事実、この地球においても現存するあらゆる生命は最初に現れた一つの細胞から進化して枝分かれしたもので、その後数十億年にわたり新たな細胞が発生した形跡はないのである。生命がそう簡単に誕生するものでないことは明らかで、そもそもこの地球に生命が存在すること自体が奇跡的なことなのだ。

 一方、とにもかくにもわれわれ生命は存在しているのだから、この宇宙のどこかで生命が誕生したことは確かだ。それが地球である必要はない。宇宙のどこかで生まれた生命、あるいはその元となるものは宇宙をさまよっており、さまざまな環境に降り立ち独自の進化を遂げているのではないか。もしそうだとすれば、生命は宇宙のいたるところにいる可能性がある。

 最近の研究から、生命は想像以上に過酷な環境にも適応できることがわかってきた。宇宙から飛来した生命が進化するだけで良いなら、火星に生命が存在する確率はぐっと高くなる。火星で最初の地球外生命を発見できるのではないかという期待は、近年、急速に高まっていたのである。

 ところで、地球に最初の生命が誕生したのは37億年程前だとされている。これは宇宙の年齢137億年に比べても決して短い時間ではない。さらにこの生命の元が地球外から来たとすれば、その歴史はさらに過去に遡ることになる。初期の宇宙で生命の元が生まれたとすれば、生命の誕生と進化はこの宇宙が存在する主要な目的なのかもしれない。

 そもそも、もし宇宙に生命がいなければ、この宇宙を認識するものはいない。誰にも知られることがなければ、宇宙はいったい何のために存在しているのだろうか。「存在」とは、認識されて初めて成り立つものではないだろうか。この宇宙が「存在」するためには自らを認識してくれる生命というものがどうしても必要なのではないだろうか。

 最初の生命はいかにして生まれたのか。もしそれが宇宙自体の存在の意味に関わっているとしたら、その謎は簡単には解けそうもない。

加速する宇宙

宇宙がビッグバンで始まったという説は今では広く知られるようになり、疑いのない事実だと思い込んでいる人も多い。しかし、広大な宇宙がわれわれのごとき宇宙の片隅の生物に簡単にその神秘の姿を明かすことなどあり得るだろうか。

 ビッグバン宇宙論の根拠となっているのは、1929年にアメリカの天文学者ハッブルが発見した「地球から遠い天体ほどその距離に比例して速く遠ざかっている」という事実である。彼はその結果を元に宇宙の膨張を提唱した。膨張している以上、かつての宇宙はもっと小さかったはずだ。そこで宇宙がある一点から爆発して始まったと仮定してみると、さまざまな観測データがうまく説明できたのである。

そうなると、膨張を続ける宇宙が将来どうなっていくのかという疑問が生ずる。膨張がビッグバンの爆発の勢いだけで続いているとすれば、重力の影響でその勢いは次第に衰えていくはずである。その結果、2つのケースが予想される。一つは、爆発の勢いが非常に強く、宇宙は速度を落としながらも永久に膨張を続け拡散していってしまうというもの。もう一つは、上に向かって投げたボールがそのうちに落ちてくるように、いつかは重力が勝って膨張は止まり収縮に転ずるというものだ。

このいずれが起きるのかを確かめるためには、宇宙の果てにある天体までの距離と速度を正確に測る必要があった。しかしこれには高度な観測技術が要求され、長い間、いずれが正しいのかわからなかった。だが、21世紀に入りいよいよ決着がつく日が来た。しかしながら、その結果は意外なものだった。膨張は減速するどころか、加速していたのである。

これは上に投げたボールがどんどん加速していくようなもので、重力だけでは説明がつかない。加速するということはすなわちエネルギーが増しているわけで、各天体はどこからかエネルギーをもらってこなければならない。宇宙を加速させるほどだからそのエネルギーは莫大で、何と従来考えられてきた宇宙の全エネルギーよりも大きいと推定されたのだ。従来の理論は全く役に立たない。宇宙物理学者達は困り果て、そのエネルギーに「ダークエネルギー」というミステリアスな名前をつけることしかできなかったのだ。

宇宙の加速がもたらした衝撃は宇宙論に留まらない。物質の根源を解明する理論、素粒子論に対してもその根底を揺るがす発見だった。なぜなら、素粒子はビッグバン以降の宇宙の膨張の過程で生成されたものであり、宇宙を構成する材料そのものだからである。素粒子論と宇宙論は切っても切れないのだ。多くの素粒子物理学者の間には自分達はこれまで何をやってきたのだろうかという虚無感すら広がった。この数十年間、物理学者が努力して築き上げてきた理論が砂上の楼閣のように崩れ去りかねない事態となったのだ。

 かつてニュートンは「自分の前には手も触れられていない心理の大海原が広がっている」と語った。その謙虚さに比べ現代の科学者たちは自らの理論は宇宙の果てまでも説明できると考えてきた。しかし、宇宙はそうした驕りをあざ笑うかのように加速し続けている。

宇宙と生物

 かつての天動説の世界では、地球は宇宙の中心にあり、そこに棲む人間は神から選ばれた特別の存在であった。しかし、その後、科学の発展により、地球は宇宙にある無数の天体の一つに過ぎなくなり、宇宙の中心に君臨していたはずの人間は、いつしか広大な宇宙におけるちっぽけな存在に落ちぶれてしまったのである。しかしながら、一方で最近の科学の進歩は、逆にこの宇宙のなかでわれわれ人間がけっしてありふれた存在ではないことを示しつつあるように見えるのである。

その根拠の一つは、これまでのところ地球外に生物が存在する証拠が得られていないことである。度重なる探査にもかかわらず、あの火星にすら生物の痕跡は見つかっていない。宇宙から来る電波の観測からも、生物の存在を示すデータは得られていない。われわれは、この宇宙で唯一の生命体なのかもしれないのである。

そんなはずはない、という人もいるだろう。宇宙には無数の星があって、そのどこにも生物がいないなどということはありえない、と。しかし、果たしてそうだろうか。

この地球に生物が誕生したのは今から40億年ほど前だといわれている。この初期の単細胞生物は今の生物に比べ幾分単純だとはいえ、生物としての基本的な仕組みは同じである。細胞は、体外から素材とエネルギーを取り込むことにより、DNAに書き込まれた遺伝情報からさまざまなたんぱく質や酵素を巧みに作り出し、時として外敵から身を守り、子孫を残していく。しかし、この巧妙で複雑な生命現象が明らかになればなるほど、ある大きな疑問が頭をもたげてくる。最初の生物は、いったいどのようにして生まれたのか、ということだ。

生物が無生物から自然発生するものではないということは、今から150年ほど前に証明された。その後、生命現象のあまりにも巧妙なメカニズムがわかるにつれ、それはますますもっともなことだと思われるようになった。自然界の分子から偶然の化学反応によって突然細胞が生まれることなどとてもあり得そうもない。実際、この宇宙の全原子を考慮し、偶然の化学反応によって生物が生まれる確率を計算した人がいるが、この宇宙が1000兆回あったとしても、その確率は限りなくゼロに近いという結果だった。確かに、もし簡単に生物ができるなら、現在でも地球上のどこかで無生物から生物が次々と生まれてくるはずである。そうした話は聞かないし、たとえ現代の科学をもってしても、無生物から生物をつくることは不可能なのである。

だが、地球上にわれわれが存在していることも、紛れもない事実である。宇宙の歴史のどこかで、生物は確かに生まれたのだ。それはまれに見る偶然によるものだったのか、あるいは神様が何か特別な手を使ったのだろうか。

いずれにせよ、われわれは生きると言う宇宙の中でも相当に手の込んだ行為を日々続けているのである。そう思って、改めて自分の生を見つめ直してみるのも悪いことではない。