再生可能エネルギー

 東日本大震災にともなう福島原発の事故の直後、原発に対する不信感が増し、日本各地で反原発運動が起こった。それに対して日本経済新聞は毎日のように原発の必要性を訴えていた。もし原発をやめば、日本のエネルギーコストは増大し、海外からの投資は控えられ、日本経済は衰退すると脅しまがいの主張を繰り返したのだ。一方で再生可能エネルギーの推進に対しては、現実を見ない夢物語扱いをしていた。だが、その日経も最近では日本の再生エネルギー開発の立ち遅れを嘆く記事が目立つようになって来た。

 2007年から2016年までの10年間の世界の再生可能エネルギーの推移を見てみよう。すると風力発電は7倍の4億8,700万KWに、太陽光発電は48倍の2億9,100万キロワットになり、2016年時点で両者の合計は7億7,800万キロワットとなっている。これは、全世界の原子力発電量の約4億キロワットをすでに上回っている。

 では、世界のどの国が再生可能エネルギーに力を入れているのだろうか。2016年時点では、風力発電においては世界全体の35%を占める中国が1億6,900万KWで第1位である。ちなみに日本は1%にも満たない340万KWである。太陽光発電では、かつて世界をリードした日本が4200万KWと第2位につけているが、こちらも中国が7700万KWで1位となっている。しかも中国では年々導入が加速しており、太陽光発電では2016年1年間で日本のこれまでの累計導入量に匹敵する量を導入し、風力、太陽光いずれでも世界の増加量の半分近くを中国1国が達成しているのだ。

 この中国が2016年までに導入した風力と太陽光を合わせた累計は2億4,600万KWである。原発1基の発電量を約100万KWとすると、これは原発250基分、日本の全原発の発電能力の約5倍に相当することになる。

 福島原発の事故直後、再生可能エネルギーの将来性について調べたことがある。すると電力会社への接続(系統連系)の問題を考慮しても、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理に比べれば、再生可能エネルギーのコストを原発より下げ、原発並みの発電量を達成するのは技術的に(もちろん安全の面からも)はるかに容易に思われた。しかも、それは日本が環境ビジネスで世界をリードするまたとないチャンスだったのである。

 だが、日本政府はその後も原発再稼働に固執した。一方、自国で福島原発並みの事故が起きた場合のリスクを直視した中国は、再生可能エネルギーに一気に舵を切ったのである。

 しばらく前にNHKのグローズアップ現代プラスで、日本の再生可能エネルギー事業が電力固定価格買取制度を狙った中国の業者に次々と買収されている状況が紹介されていた。原発の再稼働を最優先する日本では、再生可能エネルギー事業を立ち上げようにもさまざまな規制が立ちはだかり、多くの業者が経営に行き詰まっている。それをコストダウンに優れ豊富な資金力を背景にした中国企業に買い取ってもらっているのだ。政府に原発リスクを押し付けられた日本国民にとって、思わぬところから救世主が現れたということだろうか。

経済成長中毒

 日本経済新聞の7月初旬頃までの「脱原発」に対する批判は相当のものだった。原発事故を受けて安易に脱原発の気運が高まっているが、このまま原発の稼動がままならなければ電力事情が悪化し、日本の国際競争力にさまざまな悪影響が出るというものだ。確かに、気分だけで原発反対を叫ぶのは無責任だが、福島第一原発の事故直後であることを考えると、毎日のように大きな紙面を使って原発の必要性を訴える姿は、特定の企業の事情をヒステリックに代弁しているようで、非常に浅はかな印象を受けざるを得なかった。このところ節電の効果などで電力需給に余裕が出て来て日経の論調も緩やかになったが、原発という難しい問題をこれほど一方的な視点で論じる姿はかなり異様に映る。

 日経の論調はあくまでも経済優先である。だが、その経済優先策がこの度の原発事故を招いたのではないか。3年前のリーマンショックの際、それまでの経済最優先の価値観に世界中で反省が起きた。しかし、結局、何も変わらなかったようだ。いまだに日本も世界も経済成長に代わる新たな方向性を見出せずにいるのである。

 それにしても、経済最優先の構造から抜け出すのは、なぜそれほど困難なのだろうか。それは恐らく資本主義の根本にあるのが人間の欲だからだ。エアコン、自動車、インターネット...。人は一度便利なもの、快適なものに慣れるともはや後戻りはできない。資本主義はそうした人間の弱みを原動力にしている。もちろん、便利さや快適さそれ自体が悪いわけではない。しかし、自動車に乗って歩かなくなれば健康にはマイナスだ。つまり、便利さの代償として健康を失っているのだ。さらに、ハイキングなどで歩くことが億劫になれば、自然と親しむ機会も知らぬ間に失っているかもしれない。便利さが必ずしも生活を豊かにするとは限らないのに、人はそれに抗うことができない。資本主義社会というのは、実は便利さや快適さという麻薬に犯されたある種の中毒社会なのである。

 だが、そこで生き残りをかける企業は、麻薬であれ何であれ売っていくしかない。そこに倫理を期待しても限界がある。従って、もし資本主義社会が本当に人々の求めるものを提供できるようになるためには、消費者が目覚めるしかない。しかし、その前にわれわれは自分達がこれまでに失ってしまったものを、もう一度じっくり見直して見る必要があるのではなかろうか。

先日、NHKの番組で、北極探検家の荻田泰永氏が次のように語っていた。「北極には何もない。しかし、だからこそ感覚が研ぎ澄まされ、日常では気づかないさまざまなものが感じられるようになる。」、と。かつてわれわれは、便利さや快適さよりもずっとすばらしいものをたくさん持っていたのではないだろうか。経済成長が豊かさをもたらすと信じてきたが、実はそのために多くのものを失ってきたのではないか。その結果が、うつ病が蔓延する今の社会になってしまったのではないのか。このあたりで立ち止まり、自分達の価値観を根本的に見つめ直してみる時期に来ているのではないだろうか。

自然エネルギーの難しさ

 福島第1原発の事故で、「もう原発はやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という声が高まっている。しかし、そこにはさまざまな課題が存在する。

自然エネルギーはコストが高いといわれている。確かに現状では電力会社が供給する系統電力より高い。だが、例えば太陽光発電を例に取れば、各家庭レベルで取り組んでいたのでは、電力会社の大規模発電に比べて効率が悪いのは当り前だ。このところの太陽光パネル価格の値下がりを見ると、もし電力会社が率先して取り組めば、コストの問題は解決できるのではないかと思われるのだが、そうした動きは見えない。自然エネルギーの普及を妨げているのは、実は単なるコストの問題ではなく、自然エネルギーが既存の電力供給体制になじまないからなのだ。

 現在、原子力発電所は一基あたり100KW程度の発電能力があり、全国の原発が発電している電力は5000KW程度である。一方、自然エネルギーの一つである太陽光発電の場合、各家庭の発電量は太陽光が最も強く降り注ぐ真昼時でも3KW程度だ。曇りの日はパワーが落ちるし、もちろん夜間は発電できない。つまり、ピーク時においてすら、2000万世帯ほどに太陽光発電装置を設置しなければ原子力には追いつけない。

しかし、電力会社が自然エネルギーに消極的なのは、単に発電量の問題だけではない。電気というのは需要が供給を上回った途端、全部停電してしまう。そのため、電力会社にとって、需要を上回る供給を確保することは至上の課題なのだ。もし、突然、大規模停電が起きれば、その被害は計り知れない。この安定供給の観点から見ると、自然エネルギーは、太陽光であれ風力であれ自然任せで全くあてにならない。電力会社にしてみれば実に「質の悪い電力」で、自分達の安定供給を乱す厄介者でしかないのだ。

 現在、家庭で発電した電力で余った分は電力会社が買い上げてくれるが(売電)、そこには電力会社の安定供給を守るためのさまざまな制約がある。例えば、売電により電力会社が家庭に供給する電圧100V±10Vを越えて変動することは許されず、そうした場合には売電はストップされてしまう。売電する家庭が少ない場合はいいが、町ぐるみ太陽光発電装置を取り付けた場合などには問題になってくる。昼間、太陽光がさんさんと降り注ぎ、せっかく発電量が増えてきたかと思うと電圧が上がり、電力会社から売電ラインを強制的に遮断されてしまうのである。せっかく自腹を切って太陽光パネルを設置しても、思うように買い上げてもらえず、結局、予想以上にコスト高になってしまうのだ。

原子力を減らし自然エネルギーの比率を高めていくためには、電力会社自身が積極的に自然エネルギーの推進に乗り出し、電力供給体制を再構築することが不可欠だ。感情的に原発反対を唱えるのは簡単だが、現実には莫大なお金も時間もかかる話であり、また、電力コストの上昇が日本経済に致命的な打撃を与えかねない。今、本当に求められているのは、将来を見据えた確固たる長期ビジョンなのである。

原発事故が迫るもの

 福島の原発事故が発生して数日後、友人から、「原発は、スイッチを切ればすぐに止まると思っていた」という声を聞いて驚いた。多くの人が原発の危険性をあまり認識していなかったのだと改めて思い知らされる気がした。

 原発では、ウランの核分裂によって熱を発生させる。核分裂の際、ウランの原子核は二つの原子核に分かれる以外にいくつかの中性子を放出する。その中性子が他のウラン原子核に当たり吸収されるとその原子核も核分裂を引き起す。さらにその際発生した中性子が他の原子核の分裂を引き起し、反応は次々と連鎖的に起こるようになる。このような連鎖反応が一気に起これば原子爆弾となるが、原発ではウランの濃度を5%程度(原爆では90%)に抑えることで、緩やかに連鎖反応を起させている。

 こうした連鎖反応はスイッチを切っても止まらない。時間をかけて核燃料の中に制御棒を差し込み、中性子を吸収してしまう必要があるのだ。しかも、制御棒を差し込んでも熱の発生はすぐには止まらない。連鎖反応は止まっても、ウランの核分裂によって生じた不安定な原子核がさらに核分裂して熱を出し続けるからである。もし冷却をやめればたちまち温度が上がり核燃料は溶けてしまう。今回の事故では、なんとか連鎖反応は止められたが、その後の冷却機能が働かず、核燃料の一部が溶けたと考えられている。

原発事故が他のプラントなどの事故と全く異なるのは、放射能(放射性物質)が相手だからである。放射能が発するガンマ線を防ぐには10cm以上の厚さの鉛の壁で身を包まなければならず、現実的には不可能だ。従って、もし施設周辺の放射能がある限度を越えれば、人間は全く原子炉に近づくことができなくなり手の施しようがなくなる。

 今回の事故は、従来から指摘されていた津波の危険性を無視したために起こった人災だと糾弾する声が多い。確かに、それは問題だろう。しかし、どのような対策を講じようが、絶対に安全な原発などどこにもない。9.11にニューヨークを襲った旅客機によるテロ攻撃にもびくともしない原発などありえようか。原発事故は常に起こりうる。そして、一旦、事故が起こってしまったら、世界中が放射能に汚染される恐れがあるのだ。原発事故が人災か否か以前の問題として、原発を造ること自体が人災なのである。

 では、人類はこれまで、なぜそんな危険な原発を造ってきたのだろうか。電力を安く安定的に供給することは、一国の経済の根幹に関わる重大事だ。原発は自国の経済的な優位性を確保するための重要な手段の一つなのだ。原発の危険性を指摘する声は、そうした経済的優位性の前に退けられてきたのである。これは日本だけの話ではない。世界中が自国の経済的利益のために原発の危険性から目を背けてきたのである。

しかし、これを機に世界中で多くの人が原発の危険性を再認識したに違いない。そして、生命より経済を優先する愚かさに気づいたに違いない。今こそ正常な価値観を取り戻し、脱原発を図らなければ、いつか必ず致命的な事態が起こるに違いない。