始動!セカンドハウスプロジェクト

 昨年2月に母が亡くなったが、その思いに耽る間もなく世界はコロナ禍に突入して行った。死という紛れもない現実とそれに続く何か非日常的な感染症の世界。僕は自分の中で次第に何かが動き始めるのを感じていた。

 しばらく前から予兆はあった。母の衰えや娘たちの成長により自分の残りの人生をどのように生きるか考える機会が増していた。写真の撮影に改めて本腰を入れ始めたのもそのせいだろう。ただ、それらは従来やってきたことの見直しの域を出なかった。何かを大きく変えるより、あくまでもこれまで取り組んできたことの質を高めるべきだという思いが強かった。

 ところが、母の死により否が応でも自分に残された時間を意識させられた。何か始めるなら今しかない。動けば何か見えてくるに違いない。こうしてたどり着いたのがセカンドハウスプロジェクトだった。

 背景には長女が3年前から建築設計の仕事を始めたことがある。僕自身も昔から建築には興味があった。彼女に設計を依頼すれば、建築を通じて互いの理解も深まり、普通では思いつかない面白い発想が浮かぶかも知れない。

 なにしろ、今の葛飾のマンションは狭くて人も呼べない。セカンドハウスができれば、友人を招き得意の料理を振舞うこともできるだろう。ギャラリーを設けて自分の写真だけでなく知り合いの画家の絵も展示してはどうか。ピアノを置いて内輪の音楽会も開ける。物書きに集中できる空間も作ろう。妄想はどんどん膨らんで行った。

 ただ、子供も独立した今、それほど費用はかけられない。では、新築ではなく千葉の里山の古民家でも格安で手に入れてリノベーションしてはどうだろうか。自然溢れる生活は長年の夢でもあった。そう思って探し始めたが、すぐに壁にぶつかった。そこでやりたいことを冷静に考えてみるとアクセスが悪すぎるのだ。結局、松戸や市川など自宅から自転車でも行ける範囲に絞られ、里山は諦めざるを得なかった。

 だが、ネットで情報を集めその辺りを自転車で回り始めると嬉しい発見があった。住宅街に接して広大な農地が広がり、樹々が生茂る緑地が点在している。今住んでいる葛飾から江戸川1本挟んだだけで、実はこれほど豊かな自然があったのである。

 間取りや立地、価格がリノベーションに向いた物件を見つけるのは容易ではない。だが、娘と一緒に現地に足を運び、あれこれ検討するのは勉強にもなり実に面白い。さらに、自分がそこで何をやるのか、何ができるのか、これからの人生何がやりたいのか繰り返し問い直す。すでにプロジェクトは始まっているのだ。

自分との出会い

 先日、将棋の藤井聡太7段が史上最年少で8大タイトルの一つ棋聖位を獲得した。だが、コロナウイルスが流行り始めていた頃、その実力はすでに一流だと誰もが認めていたが、強豪ひしめくタイトル保持者からの奪取となるとそう簡単ではないと思われていた。今回の勝利の原因について藤井棋聖自身は、コロナによる対極自粛期間中に自分の将棋をじっくり見つめ直すことができたことが大きかったと述べている。

 それを聞いて自分でも思い当たるところがあった。2月に母が亡くなり頻繁に名古屋と東京を行き来する生活が終わると入れ替わるようにコロナによる自粛が始まった。予定していた行事はことごとく取りやめになり、人との交流もパタリと途絶えた。

 だが、そうしたある日、ふと自分の肩が軽くなっているのに気がついた。それまで特に不安や憂鬱を感じながら暮らしてきたつもりはないが、どうやら普段の生活の中にもさまざまなストレスが隠れていたようだ。コロナのような大きな環境の変化がなければ、ずっと気づかなかったことだろう。

 さらにしばらくすると、まるで深い湖の底にゆっくり横たわっているかのように自分の心が静かになっているのに気がついた。自分が感じていることを手にとるようにはっきりと意識することができる。

 それまで意識と心の間に挟まっていた何か目に見えない板のような障壁が急に取り払われ、自分の心に直接触れることができるようになったような感じだった。僕は何か非常に大切なものを見つけたような気がした。同時にそれまで心の中にあった漠然とした不安感も薄れているのに気がついた。

 人はいつも安心を求めている。何か少しでも心配なことがあればそれに備えようとする。いい大学に入ろうとするのもお金を貯めようとするのもそのためだ。それによって心の中から不安を取り除こうとする。だが、老いや死などのような不安はそうした保険をかけても解消しない。消そうとすればするほど不安は増すばかりだ。

 心が静かになって不安が薄らいだのは、そこに何ものにも替えがたいものを感じたからだ。人生で大切なことは、成果を出して人に認められることでも不安を解消することでもなく、自分の心と触れ合い感じることではないのか。生きるというのは実は自分との出会いではないのか。

 ソーシャルディスタンスがとやかく言われている昨今だが、自分との距離ならいくら縮めても構わないだろう。人生において、今、コロナ禍に見舞われるのも何かの運命だろう。これを機に自分と静かに向き合って行きたい。

見事な人生

先日、名古屋の母が87歳で亡くなった。

母はもともと名古屋市中村区で父とカメラ屋を営み、その近くに家を借りて住んでいたのだが、47年前に父が北区の味鋺に店を出し、そこに当時新婚だった自分の弟夫婦を住まわせた。だが、7年ほどしてその弟が自分の店を出して独立してしまったため、父と母がその北区の家に移り住むことになった。

ところがそれから半年もしないうちに父が癌になり3ヶ月後には亡くなってしまった。40年前のことだ。当時、僕も僕の弟もまだ大学生で、当時、47歳だった母は一人でわれわれの面倒を見なければならなくなった。幸い弟は地元の大学だったので、なんとか大学に通いつつ仕事を手伝い、2年後に卒業するとそのまま店で働くことになったが、それにしても母にかかるプレッシャーは相当なものだったろう。

父が亡くなって2年ほど経った頃、僕が東京で交通事故を起こし、母が慌てて上京したことがあった。母は僕が入院する病院に泊まり僕の傍で2泊したが、夜消灯すると横でずっと仕事の話をしている。僕はその時まだ目を瞑ると事故の瞬間がフラッシュバックするような状態で、母がなぜ今ここでそんな話をするのだろうかと訝ったが、母にしてみればずっと不安と緊張の中で戦っていたのだと思う。

その後、巷でビデオが普及しはじめると、店はカメラ屋兼ソニーショップに衣替えした。すると母は父が建ててまだ12年ほどしか経っていなかった店をあっさり壊し、頑丈な鉄筋コンクリートの店に建て替えてた。1985年の頃だ。一同びっくりしたが、弟が将来やってく上で土台となるものを作ってやりたかったのだと思う。

母は誰もが一目置く頑張り屋だった。また長年の経験に基づく自信も持っていた。その後、店は時代の流れに乗って発展し、弟は結婚してそこで家庭を築いた。母は最大のピンチを乗り切ったのみならず、さらに新たな道を切り開いて行ったのだ。

結婚してから父が亡くなるまでの24年間、母は父と共に歩み、その後は次男と40年間一緒に歩んできた。正に47歳にして歩み始めた第2の人生だった。その間、東京に住んでいた僕はと言えば、電話で長時間話したり、仕事で手が離せない弟の代わりに一緒に旅行に行くなど、仕事とはまた別の面で関わるよう務めてきた。

母とは、晩年、よく昔の話をしたが、前半生の話にはあまり乗ってこなかった。僕にとっては自分がまだ名古屋に住んでいたその頃の思い出の方が印象深いのだが、母にとってはやはり自力で切り開いた後半生の記憶がより鮮明に残っていたのだろう。

なかなか見事な人生だった、と今改めて思う。

モノクロの世界

今年の年賀状写真は名古屋城公園で撮影した。家族が写真を撮るために集まれる機会は年々少なくなってきており、昨年末はたまたま家族が名古屋の実家に集合したその日しか撮影のチャンスがなかったのである。

暖冬のためか12月初頭の公園内の木々の紅葉はまだ鮮やかで、足元に敷き詰められた落ち葉を踏みしめながらの撮影は気持ち良かった。幸いそこで撮った写真はまずまず狙い通りの仕上がりになった。年賀状の撮影が一度でうまく撮れることはなかなかない。慣れない場所で短時間に撮ったにしては上出来だった。

だが、僕の気持ちは少し複雑だった。昨年、本格的に撮影活動を再開して以来、改めてモノクロ写真の良さを実感するようになっていた。そこで、今年の年賀状はモノクロで行こうと密かに決めていたのだ。だが、せっかくの紅葉の雰囲気がモノクロでは全く伝わらない。家族の意見を尊重し、結局、カラーにせざるを得なかった。

そもそも僕はなぜそれほどモノクロにこだわってきたのだろうか。人は肉眼ではカラーで見ている。そこから何故色という大切な情報を除く必要があるのだろうか。写真展の折にもしばしば質問を受けたが、なかなか説得力のある答ができなかった。

フィルムの時代は、モノクロには自分で現像ができるという大きなメリットがあった。現像の仕方で写真はガラリと変わってしまうのだ。しかし、デジカメになってカラーでもパソコンで簡単にデジタル画像処理が可能となった。

そもそも撮影時の生データはカラーで、モノクロにするためには後処理であえて色情報を取り除かなければならない。それは写真で最も強力な武器である色彩をみすみす捨て去る行為で僕自身も当初は抵抗があった。だが、この1年、自分の撮ったカラー写真をモノクロ化する作業を何度も繰り返すうちに、はっきりとモノクロの魅力が見えて来たのである。

ブロンズ像に色を塗ることを想像してみよう。像は果たしてより魅力的になるだろうか。色は像が本来持つ陰影の魅力を損なってしまうに違いない。写真においても同様だ。色はその下にある陰影の世界を知らぬ間に覆い隠してしまっているのだ。

それだけではない。もとより写真は何気なく見ている情景から一瞬を切り取る。それは、普段、気がつかないものを浮かび上がらせる力がある。モノクロはそこからさらに色という日常性のベールを剥がす。そして、その一瞬の持つ意味により鋭く切り込むことができるようになるのだ。

思い切って色の誘惑を断ち切ってみよう。そこには想像もしなかった別世界が広がっているのだ。

覚悟

 先日帰省した際、「死ぬのはやっぱり怖いなあ」と母がため息交じりに何度か繰り返した。

 これまでやりたいことはやって来た。人生には満足している。だが、このところ体も衰え、この先、生きていてもあまり良いことはなさそうだ。毎日、他人の世話になるのも辛い。もう思い残すことはない。そう自分に言い聞かせ死を受け入れようと思った瞬間、想像以上の恐怖に襲われたのだ。

 死への恐怖は、死ぬ間際の苦しさに対する恐怖と、死後、自分が消滅することへの漠然としたした恐怖の2つに分けられる。前者に対しては医学の進歩により緩和されるかもしれない。しかし、自分の存在がなくなるという恐怖に対してはそう簡単にはいかない。

 しばらく前にサーチュイン遺伝子というのが話題になった。その遺伝子のスイッチを入れると人類の寿命は一気に120歳くらいまで伸びるという。現在、世界中で多くの人がその実現を待ちわびているようだが、死をいくら先延ばしても死への恐怖はなくならない。

 ところで、こうした死への恐怖は人間独特のもので、犬や猫が将来の死を思い悩んで苦しむという話は聞いたことがない。なぜ、彼らには死への恐怖がないのだろうか。いや、逆になぜわれわれは死が怖いのだろうか。ひょっとしたら、本来怖くもないはずのものを恐れているだけなのかもしれない。

 死刑囚が苦しむのは、いつ告げられるかわからない刑の執行が彼らに常に死を意識させるからだ。一方、人を助るために自らの命を投げ打つ人がいる。彼らは決して死に対する恐怖が小さいわけではないが、助けなければという強い決意が死を恐れる暇を与えないのだ。死への恐怖は死を意識した際に想像によって生まれるものであり、人間だけが死を恐れるのは、そうした想像力は人間にしかないからだろう。

 かのモーツァルトは毎夜眠れないほど死の恐怖に取り憑かれていたという。彼が偉大な作品を生み出すことができたのは、作曲だけが死の恐怖を忘れさせてくれたためかもしれない。ただ、その彼も宗教音楽では多くが未完に終わっている。だが、それらは恐ろしいまでの緊張感に満ちているのだ。彼は音楽の中でその才能の全てを傾け死と対峙したが、ついにそれを克服することはなかったということだろうか。

 とはいえ、宗教音楽も含めモーツァルトの音楽が信じられないほどの精神的な高みに達することができたのは、彼が死を強く意識していたからに違いない。そもそも死は克服しなければならないものではない。死とどう向き合うかということが彼以外にも多くの天才の想像力を刺激し、人類に多くの芸術的遺産を残してきたのである。

 凡人にとっても死は限りある人生を充実させるための貴重な道標だ。ただし、そこから逃れようとすれば恐怖に取り憑かれてしまう。結局のところ、いつかはやって来る死に対して毅然とした覚悟を持って生きて行くしかないのではないか。

父のテープ

 先日、荷物を整理していたら、父の声が録音されたカセットテープが出て来た。僕が高校3年の秋、当時46歳だった父が担任の先生との進路面談に臨んだときのものだ。

 録音された直後、冒頭の数分間だけ聞いてやめたのを覚えている。通して聞いたのは今回が初めてだ。しかし、すでに34年の歳月が流れているにもかかわらず、改めて極度の絶望感に捉えられ、1週間ほど抜け出すことができなかった。

 当時の僕は父に対して全く拒絶状態で、まともな会話は成り立たなかった。そんな父が担任の先生と勝手な話をし、それを元に説教されるのは想像するだけでも耐えられなかった。当時の成績では良い話が出るはずもなかった。この録音は、そうした状況で僕から父に頼んだものだった。

 話題の中心は成績と進路のことである。冒頭から、出来の悪い息子の成績について、担任からいかに深刻な状況であるかと切り出され、ひたすら恐縮する父の姿に、こちらも思わず赤面し額に汗がにじんでくる。父には、多少成績が悪くとも受験校でもあるし、何とかなるのではないかという期待があったのだとおもう。しかし、そんな楽観はたちまち吹き飛ばされてしまったのだ。しかも、勉強をやらないというならまだしも、「本人はまじめにやっているようなのに、なぜこんな成績なんですかね」と、先生も半ばあきらめを諭すような口調なのだ。

 この面談を待つまでもなく、僕には自分が置かれている状況が良くわかっていたし、その原因、つまり自分の成績がなぜ上がらないのかもある程度はわかっていたのである。しかし、それを解決する手段となると自信がなかった。当時、僕が望んでいたのは、そうした自分の状況を冷静に判断し、的確な助言を与えてくれることだった。しかし、面談は出口がないまま、僕からすれば全く的外れな議論に終始した。何とか体勢を立て直すヒントを期待していた僕の期待は完全に裏切られたのである。当時、このテープを最後まで聞くことなど到底不可能だったのだ。

 その後、僕は浪人し、自分のやり方でゼロから勉強しなおした。もちろん思い通りに行ったわけではない。しかし、自分だけの力でやるだけやったことが何よりも大切だった。それは確かにその後の人生で大きな自信となったのだ。

それにしても、今回改めてテープを聴いて感じたあの絶望感は何なのだろうか。大学以降も確かに僕の人生は平穏ではなかった。しかし、自分で撒いた種は自分で刈り取ってきたつもりだった。にもかかわらず僕の心には未だに強烈なコンプレックスが染み付いているのである。恐らく僕の生き方には何かまだ肝心なものが欠けているのだ。

 この録音の後、父は5年を待たずにこの世を去り、僕が父に対して心を開く機会はとうとうなかった。しかし、今や同じく高校生の親となった僕には、このテープから息子への愛情とそれゆえに翻弄される父親の気持ちを汲み取ることができる。父に対するコンプレックスからは少しずつ開放されつつあるようだ。

祖母の教え

 先日、祖母が亡くなった。満97歳の大往生だった。この2-3年は、記憶があいまいで、自分の娘もわからない日もあったが、意識はしっかりしており、冗談を言って笑わせることも珍しくなかった。昨年末に、入っていた老人ホームで食事も水も取らなくなり、やむなく病院に入り点滴を受けることになったが、しばらくすると点滴も拒絶してしまい、その8日後に亡くなった。最後の日まで、見舞い客に対し必死に両手を合わせ、感謝の意を伝えようとしていた。

 祖母が自ら死のうとしたのは明らかだった。物欲がなく、ただただ自分の娘たちの幸せだけを願っていた祖母にとって、記憶が衰え、周りに迷惑をかけているのではないかという思いは耐え難いものだったのだろう。食事も水もなしの8日間は楽なはずはないが、病死でないため死顔はきれいで穏やかだった。身内だけで行った葬儀では、多くの曾孫を含め参列した親族はいずれも祖母に対しての暖かい思い出を胸にしていた。人の死に際しては、いつも何か虚しい思いを感じる僕も、最後まで自分の意思で生き切った祖母に対してあっぱれという思いに打たれ、何かすがすがしい気持ちさえあった。

生き物のなかで将来の死に対して恐怖や不安を抱くのは、恐らく人間だけだろう。死を恐れる理由はさまざまだろうが、その一つはいくら充実した人生を送ったとしても、死ねばすべてが失われてしまうという思いがあるからだ。いくら楽しかろうと、何かすばらしいことを成し遂げようと、次第に歳を取り、最後には死んでしまう。結局、全ては無駄ではないのか。そうした虚しさが、人の心に晴れることのない影を落とすのである。

 霊魂の概念は、そうした苦痛から逃れるために生まれたのだろう。死んでも魂が残るとなれば、死の恐怖は消える。確かに生命というのは不思議なもので、それまで生きていたものが、死んだ瞬間、ただの物体となってしまう。生き物に生気を吹き込んでいるのは霊魂であって、死によってそれが肉体から抜け出すと考えるのも無理はない。しかし残念ながら、誰もがそうした霊魂の存在を信じられるわけではない。

 われわれは親から生を授かったと思っているが、われわれの生命は実は40億年前に地球上にはじめて誕生し、それが進化しながら途絶えることなく綿々と受け継がれてきたものである。当初、単細胞生物は2つに分裂することで次世代へと生命をつないでいたが、今日では、60兆個の細胞がひとりの人間を支えるまでに進化し、この40億年という長い旅の最後の80年ほどを、われわれはひとりの人間として生きているのである。

人生とは、40億年に渡る生命の進化の結晶なのだ。人間として生まれた以上、すべての人にこの最後の80年間を生きるチャンスが与えられている。祖母はみごとに、その人生を締めくくった。そして、死について悩む前に、生きていることに感謝するよう、最後に僕に教えてくれたような気がするのである。

受験

受験生とその親にとっては、目の前にそびえる受験は、あたかも人生の勝ち負けを決する天王山である。最難関の大学に合格すれば、何物にも代えがたい優越感が得られ、逆に落ちた者には、容易に回復できない劣等感が刻み付けられる。しかも、こうしてできた序列は一生消すことができない。そうした思いがひたすら受験生を駆り立てる。

しかし、受験は本来、あくまでも大学の選抜試験であり、それ自体が最終目標ではない。むしろ本人が優秀なら、どこの大学に行っても活躍できそうなものである。もし気にするなら、大学の研究環境、つまり教官の質や設備の良し悪しなどのほうがずっと重要ではないだろうか。しかし、受験生やその親の関心は大学の中身ではなく、あくまでも合格の難易度なのである。難しい大学に合格することにより得られる満足感は、大学で何をやるかということより遥かに重要らしい。なんとも奇妙な現象であるが、そこに受験の受験たる所以がある。

それにしても、そうした難関に合格することは、果たして世間で思われているほどのステイタスがあるのだろうか?今や昔のように、有名大卒の看板だけで一生飯が食える時代ではない。世の中はすでに実力主義の時代で、かつてのような学歴に対するこだわりはなくなりつつある。特に大企業でその傾向が強い。有名大卒の看板に、まだ黄門様の印籠のごとき輝きがあると思っているのは、全くの幻想と言ってよい。

もっとも、もし受験勉強が将来非常に役に立つものなら、競争心をあおり学生を必至に勉強に駆り立てる受験は、それなりに意味があるだろう。国民の能力向上のために、心身ともに成長する時期に適切な教育を施し、将来の飛躍の基礎を身につけさせることは理にかなっているし、そのためには競争も必要だろう。しかし問題は、受験勉強そのものに、そうした効果があるかということである。これには色々な意見があるだろうが、僕の考えでははなはだ疑問である。例えば、よく言われるように、受験英語は実践では通用しない。これを受験関係者は、受験勉強は基礎だから、将来、会話の勉強をすればよいと言うが、しかし、アジア諸国の中でも、大学生がろくに英語で議論もできないのは日本くらいのものである。世の中の急速な変化にもかかわらず、基礎だから、という理由で、旧態依然とした受験教育を続けることは、将来を担う若い才能を潰しかねない。

こうした難題を抱えた受験にどう臨むかは、当事者である子供だけでなく、その親にとっても大きな課題である。受験生の親が、自分の子供にどういうアドバイスができるかは、親がどう生きているかを試されてもいるのである。

母の手術

 先日、母が足の手術をした。永年患っていた股関節を人工関節に換えたのだ。

30年ほど前、母は股関節に違和感を覚えた。しばらく放っておいたが、次第に痛みが増し、自動車のクラッチを踏むのが苦痛になってきた。病院へ行くと、変形性股関節症と診断された。

股関節は、骨盤の臼蓋部に大腿骨の骨頭が嵌ってできている。通常、この臼蓋部と骨頭部のいずれの表面も数ミリの軟骨に覆われ、クッションの役割を果たしているのだが、変形性股関節症ではこの軟骨がすり減り、クッション性が弱まると同時に激しい痛みを伴うようになる。筋肉痛に似た違和感を覚える初期の段階では、筋力トレーニングなどで関節への負担を減らし、症状の進行を食い止められる場合もあるが、痛みが発生する頃になると、体の違う部分から切り取った骨を接ぎ、関節の形状を整える骨切り術が必要となる。さらに治療が遅れ、軟骨が磨滅し、関節の変形も大きくなってしまうと、金属製の人工関節に換える以外になくなる。

 母の病気がわかったとき、すでに骨切り術の話はあった。ただ、手術をすれば最低1年から1年半は療養生活が必要となる。父の店で働き、家計を支えていた母が、長期間店を抜けるのは痛い話だった。父も頭ではわかっていても、無意識に母の手術から眼をそむけた。それまで高度成長の波に乗って店の業績を拡大して来た父が、ちょうどオイルショックの不況で大きな挫折に直面していた時期だ。母の足を優先する余裕はなかったのである。

痛みで眠れぬ日もしばしばだったが、母は杖をつくことにより、多少なりとも症状の進行を遅らせる以外になかった。さらに、その数年後、父が癌で逝く。母は店を切り盛りせねばならなくなり、手術の機会はさらに遠ざかってしまったのである。

今回の手術に先立ち、医者は口をそろえて、「良くここまで持ちましたね」と言った。しかも検査の結果、母の大腿骨の骨頭部は、単に磨滅するのではなく、脇にもう一つ球状の瘤を形成し、そこが新たな骨頭として荷重を支える役目を担っていたのである。恐らく、苦痛を避け、患部への負担を減らすために体が適応したのだろう。さらに骨盤側の臼蓋部も、瘤により大きくなった大腿骨頭をカバーするため、端が庇のようにせり出して、脱臼を防いでいたのである。こんなことがあるのかと医者も驚いていたが、まさにそのように変形した関節に、長い間病気と戦ってきた母の意志の力を見る思いだった。

最近の母の病状は、必ずしも緊急に手術を要するほど差し迫っていたわけではない。ただ、人工関節に換えれば、足の心配をせずに自由に旅行にも行けるようになるだろう。母はそう思ったのだ。73歳になって、母はやっと自分のために手術をしようと決心できたのである。

卒業

先日、長女が小学校を卒業した。一学年一クラスの小さな小学校なので、家族的な雰囲気の中、出席者一同、暖かい眼差しで一人一人の成長を祝福した。入場のときからすでに感極まって涙を流す子供達が多いなか、普段はあまり感情を表に出さない我が娘も涙をこらえるのに必死の様子だった。

子供達の涙につられるように、親達の胸にも熱いものが湧き起こる。つい先日、入学したばかりと思っていた子供が、いつの間にか見違えるように成長し、大きな怪我もなく、無事に卒業式に臨む子供の姿をみて喜ばない親はいないだろう。しかし、子供達の感慨は、親のそれとはちょっと違うようである。彼らにとって成長は当たり前で、昔の自分も今の自分も同じである。そんなことより、最近の友達同士の充実した時を思い、別れを惜しみ、将来に向けた期待と不安に胸を詰まらせているのである。そうなのだ。子供はいつの間にかおとなになっているのである。わが娘も、この2年ほどの間に、自分にとって何が大切で、どんな努力が必要なのか、自分なりの考えを持つようになった。子供の成長は、運動能力や知能だけではない。そうした心の成長に触れるとき、つくづくおとなになったと感じるのである。

娘の表情をビデオで追ううちに、いつしかかつての自分自身を思い出していた。いまから35年前、ちょうど大阪万博で日本中がお祭り騒ぎに沸いていた頃、僕は小学校を卒業した。僕の小学生最後の1年は充実していた。しかも、前年のアポロ11号の月着陸に刺激された少年の夢は、未来に向けて大きく膨らんでいた。にもかかわらず、卒業してから中学校に入学するまでの2週間あまりの間、一人で家にいると涙が止め処もなく溢れ出てきた。なぜだか良くわからない。確かに何もかもうまく行っているように見えた。しかし、心の中には何ともいえぬ空しさがあった。その後の人生に待ち受ける苦難を、僕はそのときすでに予感していたのかもしれない。

成長が必ずしも人生をらくにするわけではない。成長した心が、必ずしも現代の社会と折り合いをつけられるとは限らない。また、自らの理想と現実の間で葛藤しないとも限らないのである。娘はまだ出発点に立っているに過ぎない。今の彼女が、かつての僕自身と同じ不安の中にいないと言えようか。しかし、今振り返ると、そうした不安は、感受性が強い思春期を生きるものの特権である。僕はあえて娘に、大いに悩み大いに傷つけと言いたいのだ。それが、その後の人生に何ものにも代えがたい宝を残してくれるだろうから。