105のクラス会

 この15年あまり正月には高校1年5組(105)のクラス会を開いている。今年もまた皆が集まり楽しいひとときを過ごした。

 当初は3年に1度だったが、もっと頻繁に会いたいという希望により程なく毎年行うようになった。参加者は10人から15人ほど。1月3日に毎年同じレストランに集まっている。正午に始まり3次会が終わるのは夜遅くだが、そこまで話しても話し足りず、別れる際はいつも名残惜しい。この独特の充実感は一体どこから来るのだろうか。

 クラス会と言えば普通は青春の思い出が蘇ったとか、昔の気安さにすぐに戻れたなどと言って盛り上がるものだが、このクラス会ではそうした話はむしろ少なく、各人が日頃関わっている話を皆で掘り下げることが多い。メンバーには医師が多いため、日頃は聞けないことを相談できるのもありがたい。一方で昨今の厳しい医療事情も身近に感じられるようになった。高校時代から運動に身を投じてきたT君は、自らの最近の支援活動を通して格差社会の拡大を痛切に感じるという。自らの体験に基づいているだけあって話には迫力がある。

 堅い話ばかりではない。レストランを経営するソムリエのN君からはワインが美味しくなる秘密の飲み方の講習を受ける。半信半疑、その場で試してみると確かに全く違うのである。女性陣の話も面白い。手芸の展示会を開いたり、中国に恐竜の骨を掘りに行ったり、有機農業で土と格闘してきたりと実にさまざまな活動をしている。なかにはプロの画家もいて、むしろ男性よりも話題が豊富だ。皆、学生の頃から自意識が高く、自らの道を模索していたが、今でもその生き方には力強さがある。

 このクラス会が高3ではなく高1のものであるのは面白い。高校入学当時は中学時代に比べ少し広い世界に踏み出したばかりで、新たなクラスメイトが一体どんな人間なのか誰もが緊張して見守っていた。そのため各人の個性がドラマの登場人物のように強烈な印象となって今でも皆の心に残っているのだ。だが、このクラスの結束が強いのには別の理由がある。毎年、忙しい時間を割いて必ず出席してくださっている恩師のA先生の存在だ。当時から学生の自主性を尊重し、自ら体を張っての我々の希望を叶えてくれた先生の指導は、感受性が強く反抗期でもあった我々の心の大きな支えとなった。先生の愛情に満ちたまなざしに見守られてきたという共通の思いが、このクラスに強い連帯感をもたらしているのである。

 毎年開かれているこの会だが、ある時、回を重ねるごとに会話の質が上がっていることに気がついた。次第に互いの理解が深まってきたことに加え、皆が会話の質を高めようと無意識のうちに努力している結果ではなかろうか。良い会議では良い意見が出るように、皆がこの会を大切にしてきたことで内容が濃くなってきたのである。

 ふと、このクラスが1つの生命体のように感じられることがある。各人の個性が結びつくことによりクラスという別の価値観が生み出されているのだ。このクラス会はわれわれをどこに連れて行ってくれるのだろうか。今後も皆で大切に育てて行きたい。

時の流れが生む出会い

先日、高校の同窓会があり、35年ぶりにある友人と再会した。同窓会だからそうしたことは珍しくないが、彼とは幼稚園から高校まで一緒だったという特別の事情があった。

中学の頃まで、2人は毎日夢中に遊び、しばしばバカもやった。常にライバルとして意識し合っていて、互いに非常に身近な存在だった。しかし、それは当時まだ世間が狭かったからで、高校に入るともともと考え方の違うわれわれの関係は急速に疎遠になった。お互い、自分のことで精一杯だった。卒業後、彼は医学部に、僕は僕で物理の道に、それぞれ目指す道に進んだが、かつての関係が戻ることはなく、それきりになってしまっていた。

35年も経つとすっかり見掛けが変わってしまう人も多い。彼の場合も、髪の毛がなくなり僧侶のような風格が備わっていた。しかし、それがまた彼らしく一目見るなり彼だとわかった。彼も、親しげに話しかけた僕の白髪頭に一瞬戸惑った様子を見せたが、ちらりと名札を見るなりすぐに納得したようだった。

さらに彼独特のこだわりのある話しぶりに、たちまちかつての印象が蘇り、まるで2-3年ぶりに会ったかのような錯覚に陥った。が、同時に僕はある種の驚きに打たれていた。「彼はこういう人間になったのだ」と。

彼は非常に意志の強い人間で、一度やると決めたら決して投げ出すことはなかった。かつて僕はそうした彼に感服し、とてもかなわないと感じていた。その意志を貫き医師となったわけだが、その後、思わぬ波乱が待っていた。大学で教授と大喧嘩をし、そこを追いやられてしまったのだ。自ら課した困難に立ち向かう際には、道を切り開く大きな武器となった彼の強い意志だったが、自らの主義に反するものが立ちはだかった際には、キャリアを棒に振ってでもそれに背を向ける力として働いたのだ。

 人生に挫折はつきものだ。自分の主義に反することはできない。自分を偽って生きることもしたくない。だが、壁にぶつかったとき、我々は何らかの選択をしなければならない。自分を貫いたからと言って納得できる道が開けるとは限らない。時には大きな犠牲を伴うこともある。しかし、そういう時こそ、その人の本質が現れるのではないだろうか。

挫折と言うのは、成功への道筋が頓挫することではない。自分のやりたいことをやる際にかならずぶつかる壁のことなのだ。その壁は外的なものばかりではない。自分の内にも容易に乗り越えられない壁がある。しかし、それは成長に不可欠な壁なのだ。自分の本質を理解し、自分が本当の自分になるために何度も潜り抜けなければならない試練なのである。

 中学の頃、僕達はベートーヴェンの音楽に心酔していた。その圧倒的な感動は、今でもはち切れんばかりに僕の心に響いている。彼の目も溶岩のように生きている自分の中の感動を語っていた。時を経ての思わぬ再会は、2人の体内に今だに渦巻く熱気を確認する機会となった。これまでの人生を糧に、本当の自分を見つける旅はこれからだ。