モノクロの世界

今年の年賀状写真は名古屋城公園で撮影した。家族が写真を撮るために集まれる機会は年々少なくなってきており、昨年末はたまたま家族が名古屋の実家に集合したその日しか撮影のチャンスがなかったのである。

暖冬のためか12月初頭の公園内の木々の紅葉はまだ鮮やかで、足元に敷き詰められた落ち葉を踏みしめながらの撮影は気持ち良かった。幸いそこで撮った写真はまずまず狙い通りの仕上がりになった。年賀状の撮影が一度でうまく撮れることはなかなかない。慣れない場所で短時間に撮ったにしては上出来だった。

だが、僕の気持ちは少し複雑だった。昨年、本格的に撮影活動を再開して以来、改めてモノクロ写真の良さを実感するようになっていた。そこで、今年の年賀状はモノクロで行こうと密かに決めていたのだ。だが、せっかくの紅葉の雰囲気がモノクロでは全く伝わらない。家族の意見を尊重し、結局、カラーにせざるを得なかった。

そもそも僕はなぜそれほどモノクロにこだわってきたのだろうか。人は肉眼ではカラーで見ている。そこから何故色という大切な情報を除く必要があるのだろうか。写真展の折にもしばしば質問を受けたが、なかなか説得力のある答ができなかった。

フィルムの時代は、モノクロには自分で現像ができるという大きなメリットがあった。現像の仕方で写真はガラリと変わってしまうのだ。しかし、デジカメになってカラーでもパソコンで簡単にデジタル画像処理が可能となった。

そもそも撮影時の生データはカラーで、モノクロにするためには後処理であえて色情報を取り除かなければならない。それは写真で最も強力な武器である色彩をみすみす捨て去る行為で僕自身も当初は抵抗があった。だが、この1年、自分の撮ったカラー写真をモノクロ化する作業を何度も繰り返すうちに、はっきりとモノクロの魅力が見えて来たのである。

ブロンズ像に色を塗ることを想像してみよう。像は果たしてより魅力的になるだろうか。色は像が本来持つ陰影の魅力を損なってしまうに違いない。写真においても同様だ。色はその下にある陰影の世界を知らぬ間に覆い隠してしまっているのだ。

それだけではない。もとより写真は何気なく見ている情景から一瞬を切り取る。それは、普段、気がつかないものを浮かび上がらせる力がある。モノクロはそこからさらに色という日常性のベールを剥がす。そして、その一瞬の持つ意味により鋭く切り込むことができるようになるのだ。

思い切って色の誘惑を断ち切ってみよう。そこには想像もしなかった別世界が広がっているのだ。

静かに進む発酵

今年ももう直ぐ終わりだが、この1年を振り返ると写真において意外な進展があったという思いが強い。1月頃から久しぶりに街に出て本格的に撮影を再開した。以前、撮っていた頃から実に15年以上の歳月が流れていた。

かつて、どういう写真が撮りたいのかわからぬまま街に繰り出していた。そもそもなぜ写真なのか。恐らく当時の自分には他に表現手段がなかったのだ。自分が何を目指しているのか何を得たいのかわからぬまま、唯一手応えを感じられたのが写真だったのである。

だが、それは労力の割には得るものの少ない挑戦でもあった。撮影にも現像にも多大な時間と体力を使うが、満足のいく写真は滅多に撮れない。こんなことをやっていて何か道が拓けてくるのだろうかという不安ばかりが募った。

その後、池部さんとの出会いがあり、僕は文章を書くことに新たな表現の場を見出すことになる。それとともに、写真からは次第に遠ざかって行ったのだ。

だが、かつて撮った写真は、その後、出版した旅行記やエッセイ集にも使われるなど、僕の傍らには常に写真の存在があったのである。

そして、7年ほど前から3度写真展を開く機会に恵まれ、それがきっかけでかつての写真と10年以上の時を経て正面から向き合うことになった。すると自分がずいぶん写真がわかるようになっていることに気がついたのだ。かつては自分の写真ですら、どの写真がいいのか自信が持てなかったが、それが一目瞭然なのである。かつてそれができていればもっと上達したに違いない。無念の思いが沸き起こると同時に、遮二無二撮っていた時期があったからこそ、今、それに気づくことができるようになったのだと納得もできた。

撮影を再開すると、当初、結構撮れるという手応えがあったが、この1年に撮った写真を並べてみると明らかに最近撮った写真の方が良い。高機能のデジカメの使い方に慣れるにつれて撮影の幅が徐々に広がったこともあるが、やはり自分が撮りたい写真をはっきり意識することで腕が上がっているのだ。

インスタグラムへの投稿も大きい。作品を外に向かって発信することで、自分の表現したいものをより明確に意識することができるからだ。

かつての苦労が今になって生きていると実感できることほど嬉しいことはない。同様の体験はピアノにおいてもあったが、暗中模索の時期というのはけっして無駄ではない。目先の結果に一喜一憂せず、自分の中で静かに発酵が進むのを待つのも人生では大切なことのようである。

再始動

 今年の5月に名古屋の平田温泉という銭湯で1ヶ月間写真展を開いた。

 前回の写真展から3年が経っており、今回は新作を展示するつもりだったが、なかなか撮ることができず、結局、昔の写真を使うことになった。かつて苦労して撮った写真が日の目を見るのは嬉しいが、新作を発表できないのはなんとももどかしかった。

 最近、写真を撮っていないのにはいくつか理由があった。僕の写真の撮り方は、主に街で出会った人に頼んで撮らせてもらうか、街行く人をそのままをスナップするかのいずれかだ。だが、どちらの場合も昨今うるさい個人情報が気に掛かる。

 技術的な問題もあった。かつてはマニュアルカメラに単焦点(35mm)レンズ、モノクロフィルムというのが僕のスタイルだったが、時代はデジタルに変わった。デジカメは便利だが、その安直さになんとも言えない違和感があった。

 だが、そんなことも言っていられない。なんとか写真展に新作を加えようと、一念奮起して機材を買い揃え、デジカメ片手に再び街に繰り出したのだ。

 レンズは1635mmの超広角ズームを選んだ。超広角では被写体が小さくなるので、ぐっと近寄る必要がある。撮影後、近づいてくる相手にぶつかるくらいでないと迫力ある写真は撮れない。

 当初は慣れないデジカメに手こずったが、次第にかつての撮影時の感触が戻ってきた。デジカメならではの高度な機能も慣れるにつれそのありがたみを実感するようになった。

 個人情報に関しては、もちろんうるさい輩はいるが、最近は所構わずスマホで写真を撮るのが当たり前になっているためか、むしろ以前よりも撮られることに慣れているように感じられた。

 こうしてなんとか写真展に新作を3点追加することができた。同時に自らの写真ライフを再びスタートさせることができたのである。

 さらに、これを機にインスタグラムへの投稿を始めた。当初は仲間内でインスタ映えを競う自己満足の場かと思っていたのだが、始めてみてみて驚いた。そこはプロ、アマを問わず世界の写真家がクオリティーを競い合う夢のギャラリーだったのである。

 投稿写真は膨大な数だが、気に入った写真家をフォローすることにより、その写真家がアップすると同時に自分に送られてくるようになる。つまり次第に自分の好きな写真が自分のところに集まる仕組みになっているのだ。逆に自分の写真も自分をフォローしてくれる人(フォロワー)が常にチェックしており、下手な写真はアップできない。

 従来、プロの写真はレベルが高く、アマチュア写真とは一線を画していると信じられてきた。しかし、インスタグラムにはプロには撮れそうもない質が高く個性溢れた膨大な写真が、日々、投稿されており、プロの写真の権威は急速に陳腐化しそうだ。今まさに写真の可能性が大きく拡がろうとしているのだ。    (Instagram ID:ebiman_stasta)

二人が写真に求めたもの

 先日開いた写真展で、かつてモデルをお願いしたMさんとトークライブを行った。二人の関係は17年前、原宿で声をかけて写真を撮らせてもらったときに遡る。その写真を送る際、改めてモデルになってくれないかと依頼したところ引き受けてくれたのである。

 彼女は当時、プロのファッションモデルに憧れ仙台から上京したばかりだった。僕はといえば、写真についても人生についても暗中模索の状態だった。

 二人は六本木や新宿の薄汚れた路地を歩きながら気に入った場所を見つけると荷物を置いて撮影した。レトロな街並と洗練されたファッションのミスマッチが狙いだったが、衣装や髪型を次々と変えポーズを取る彼女をいかに撮るか、かなりのプレッシャーだった。

 撮影は2年余り10回ほど続いたが、原宿で撮ったのが最後になった。次第に当初の緊張感が薄れ、良い写真が撮れなくなっていた。それから2-3年して「仙台に帰ることにした」という電話をもらったのを覚えているが、その後、連絡を取り合うことはなかった。

 ところが、2年程前にふとしたきっかけで彼女のことをfacebookで探してみるとあっさり見つかった。連絡してみると結婚して関西に住んでいた。しかも、今もファッションモデルの仕事を続けている言う。ホッとすると同時に心から拍手を送りたい気持ちだった。

 その後も再会の機会はなかったが、今回の対談の話が出ると、すぐさま彼女のことが浮かんだ。こんなチャンスは滅多にない。思い切って誘ってみると快く応じてくれたわけだ。

 再会するなり彼女の顔にかつての悪戯っぽい笑顔が弾けた。「変わらないね」と言うと、すかさず「前より綺麗になったと言って欲しかったな」という返事が返ってきた。それがまた彼女らしかった。

 トークライブでは、久しぶりに自分の写真に対面した感想を聞いてみた。すると彼女は迷うことなく「青い」と言った。実は当時から彼女は自分の写真に対して不満そうだった。もっとモードっぽい写真を期待しているんだろうと勝手に思っていた。だが、そうではなかったのだ。当時から彼女がこだわっていたのは、写真の中の自分がいかに洗練されているかということだったのである。彼女の不満は自分の未熟さに向けられたものだった。

 モデル写真と言えども表情やポーズを撮ることが目的ではない。その場にモデルが立つことで喚起されるイメージをどのような構図で捉えるかが勝負なのだ。だが、結果的にストイックに自分を追求する彼女のおかげでこちらのイメージが膨らんだのである。

 彼女にはもう一つ、なぜ、あれほど何度も撮影に付き合ってくれたのかと聞いてみたかった。撮影は楽ではなかったからだ。「楽しかったからじゃないですか。」少し考えてから彼女が答えた。意外な答えだった。僕は、救われたように感じた。同時に、もっと彼女に何かしてあげられたのではないかという後悔の念にも囚われていた。

 彼女との再会はあの2年間を蘇らせ、その意味を問い直す機会となった。素晴らしいことに、その時間は二人で撮った写真の中に凝縮されている。

欅の街で出会ったアートな優しさ

この6月から7月にかけて名古屋の書店のギャラリーで写真展を開くことになり、かつて原宿で撮った女性のポートレイトを引っ張り出してきてどれを展示するか選んでいた。

 不思議なことに、撮った頃に比べて出来の良し悪しがよく分かるようになっている。恐らく当時は思い入れが強過ぎてどの写真も捨てがたかったのだろう。そもそも何が撮りたいのか、必死で撮っていたときにはよくわからなかったのかもしれない。15年の歳月は、写真を見る目だけでなく自分自身も少しは成長させたようだ。

 展示用に引き伸ばした写真を娘に見せたら、「テーマは何なの?」と聞かれた。次々と今の自分と同年代の女性の写真を見せられ、いったい何のためにそんな写真を撮ったのだろうと訝ったのかもしれない。いずれにせよテーマなんてものは考えたこともなかった。それ以前に自分が撮りたい写真を見つけるために悪戦苦闘していたのだから。

 魅力的な人を撮れば魅力的な写真が撮れるわけではない。それどころか写真を撮るという行為自体が被写体に影響を与える。カメラを構えた瞬間、それまでの笑顔もたちまち消えてしまうのだ。それは写真を撮る際に誰もが直面するジレンマだ。

 しかし、考えてみれば、それは撮影という行為を相手がいかに強く意識しているかを物語っている。確かに最近のようにスマホで撮れば、相手はあまり気にしないかもしれないが、同時に何か肝心なものまでも抜け落ちてしまうのではないだろうか。

 かつて原宿の神宮橋の上にはコスプレ連中が大勢たむろしていた。彼女たちは頼めば大抵は撮らせてくれた。しかもこちらがカメラを構えても緊張して表情がこわばるようなことはない。だがその写真はつまらなかった。あらかじめ準備されたものを撮っているだけだからだ。そこには撮るときの緊張感もない代わりに、心に突き刺さってくるような感動もない。

 僕はあくまでも被写体との関わりの中で撮ることにこだわっていた。相手と正面向かって対峙し、しかも最高の表情を引き出すことに取り憑かれたようになっていた。

 写真を撮らせて欲しいと頼むのはアンケートを頼むのとはちょっと違う。それは同時に相手が魅力的だということを伝えているのだ。その上で、こちらの意欲に向き合い撮影という土俵に登ってくれるかどうかを問うているのだ。もちろん警戒されることもあるが、声をかけられたことを素直に喜んでくれることも少なくなかった。そして中には撮影というアートな体験に一肌脱いでみようとしてくれる女性たちもいたのである。それはもちろん、そこが原宿であることと無関係ではなかった。

 良い写真が撮れるときは以心伝心で気持ちが伝わりすぐに撮影に集中できた。相手はこちらの意図を汲み取り、自分の個性をストレートにぶつけて来る。短くも密度の濃い気持ちの良い時間だった。

 その出来事を彼女たちは今も覚えているだろうか。写真の中には彼女たちの魅力が色褪せることなく生き続けている。それに対し僕は深い感謝の念を覚えずにはいられない。

「意識」を撮る

 女性の写真を撮るために、毎週のように原宿に繰り出していた時期がある。最初は、M型ライカで前から歩いてきた女性をすれ違いざまスナップしようとした。しかし、フルマニュアルでレンジファインダーのライカではピント合わせもままならない。たまには不思議な雰囲気の写真が撮れることがあったが確率は非常に低かった。しかも、この撮り方ではどうしても撮れないものがあった。被写体からこちらに向かって発せられる意識だ。

 直接女性に声をかけて撮らせてもらう手もあるが、それはそれで問題があった。声をかけることで表情が固くなってしまうからだ。写真では肉眼では気がつかないような微妙な心理までもが鮮明に写る。カメラを向けた相手から自然な表情を引き出すのはほとんど不可能に思えた。とはいえ相手の意識を撮ろうとするなら、何らかの方法でコミュニケーションを図る必要がある。勇気を出して声をかけてみることにした。

 当時の原宿には、ケヤキ並木の下のお洒落な空気の中にさりげなく溶け込むのを楽しむ女性が多くいた。彼女たちは、案外孤独で内気だった。もちろんファッションには独自の工夫が表れており、控えめながらも自分の個性を主張していた。そこに座っていることは彼女たちの表現でもあったのだ。

 僕が声をかけると彼女たちは一瞬警戒し、何か下心があるのか見極めようとする。だが、その個性を写真で受け止めたいという僕の意図が伝わると、極自然に心を開き素直な表情をこちらに向けてくれたのである。原宿に集う大勢の女性の中から自分を選んでくれたことをうれしく思ってくれたのかもしれない。

 もちろんうまく行かない場合もある。断られることはザラで、一日歩いても一枚も撮れないときもある。厄介なのは、その写真を何に使うのかとしつこく聞いてくるケースだ。そんなやり取りの後では、たとえ撮らせてくれてもろくな写真にならない。せっかくの機会だからと、友達と一緒にピースと笑顔で何枚も撮られようとする輩もいる。だが、こちらはあなたたちの記念写真を撮るためにやって来ているわけではないのだ。

 あるさわやかな休日の朝、本を読んでいる女性に声をかけると、戸惑い気味に断わられた。自分は(他の子のように)写真に撮られるために来ているわけではないから、と。だが、すぐに、「しょうがないか」と思い直してくれた。そう、ここは原宿なのだ。そうした一瞬のやり取りに相手のインテリジェンスを感じることもあった。

 このように書くと、僕は写真を利用して女性たちと仲良くなることが目的ではないかと思われるかもしれない。しかし、そうではない。僕の興味は、あくまでも印画紙に焼き付けられた写真にある。そこにどれだけ彼女たちの意識が捉えられているかが全てなのだ。

 こちらに向けられ発せられた彼女たちの意識は、印画紙の上に焼き付けられると、そこで永遠に生き続ける。その一瞬の表情には彼女たちの人生が凝縮され、未来をも暗示する。そこには、映画や小説にも劣らぬ濃密なドラマが閉じ込められているのだ。

ライカCLの愉しみ

 先日、中古でライカCLを買った。カメラはすでに20台以上あるが、それでもまた欲しくなるのは、撮る際の感性がカメラによってかなり変わってくるからだ。

 ライカは、カメラ業界のベンツともいえるドイツの高級カメラブランドである。かつてのカメラは、一枚撮るごとにガラス乾板フィルムをセットし直さなければならず、大型で機動性も悪かった。ライカ社の技術者オスカー・バルナックは、当時、映画で使われていた35mm幅のロールフィルムを利用することにより、一度の装填で連続撮影ができ、かつ、簡単に持ち歩ける画期的な小型カメラを発明したのである。1925年のことだ。

その後、そのバルナック型ライカは改良を加えられて行くが、次第に設計上の欠点が目立つようになった。その永年の問題を一挙に解決すべく、設計を刷新して1953年に登場したのが、カメラ史上に残る名機、ライカM3である。そのファインダーは非常にクリアで、写真家の創作意欲を一気に駆り立てた。ピントの精度も高かく、ワンタッチでレンズ交換が行えるバヨネット式マウントを備えていた。高いレンズ性能と相まって、ライカは最高級カメラの地位を不動のものとしたのである。M3はその後、M2M4M5と改良を加え、M型ライカと総称されるようになった。1973年発売のライカCLはそのM5の廉価版だ。

 M型ライカは、いわゆる一眼レフカメラではなく、コンパクトカメラと同様のレンジファインダーカメラである。一眼レフでは、レンズから入ってきた光をフィルムの手前でミラーで反射してファインダーに持って来る。従って、ファインダーからはレンズを通した画像を直接見ることができ、ボケ具合も確認できる。シャッターを切るとミラーが跳ね上がり、光はフィルムのほうに行く。ファインダーから見ていた画像が、そのままフィルムに焼き付けられるのである。一方、レンジファインダーでは、ファインダーに来る光とレンズに入る光は別であり、ファインダーから見た画像と実際に写る画像では構図的にも画質的にもどうしてもズレが生じる。

 それが原因で、ライカは次第に日本製一眼レフカメラに圧され、市場の主流から消えていくことになる。僕自身もM型ライカを持ってはいたが、後にライカが出した一眼レフカメラ、R型ライカに乗り換え、そちらをメインに使うようになった。

 しかし、M型ライカで撮った写真とR型で撮った写真とでは、なんともいえない雰囲気の違いがある。一眼レフでは見たとおりが写るので、構図決めは厳格だ。無駄なものは排除し、狙った絵を逃さず捕えるのである。しかしレンジファインダーでは被写体との間に独特の距離がある。むしろ被写体を圧迫せず、その時の雰囲気をさりげなく切り取っていく感覚なのだ。他のM型に比べて一回り小さいCLでは圧迫感はさらに少ない。

早速、ライカCLを首からぶら下げ街に繰り出してみると、空気をも写すと言われるライカレンズ独特の透明感に包まれ肩の力の抜けたスナップは、何ともいい感じなのである。

我善坊谷

 先日、友人のSさんとカメラ片手に都心散策に繰り出した。溜池山王駅で待ち合わせ、アークヒルズの辺りで六本木通りを左に分け、総ガラス張りの泉ガーデンの高層ビルをやり過ごすと、左に降りる階段があった。そこを下ると、340年前の古い民家が建ち並ぶ不思議な谷間に降り立った。目的地の我善坊谷である。

ここは、地下鉄六本木1丁目駅から神谷町に向う高台の西側に、入り江のように入り込んだ谷間である。民家の玄関には植え込みが茂り、麻布台という地名からは想像もできない下町的な情緒が漂う。古い土蔵があるかと思えば、門前に享保十六年と彫られた石仏が置かれている家もある。どうやらはるか昔からこの谷間には人が住みつづけてきたようだ。かつて人々が住み着いたときの雰囲気が、今でも感じられるような場所である。

この日は、あいにくの雨だったが、それにしても人通りがほとんどない。ひっそりと静まり返った家の玄関には、「森ビル管理」「立ち入り禁止」の札が貼られている。どうやらこの一帯のほとんどの民家は、すでに住人が立ち退いているようである。

六本木周辺は坂が多く、写真を撮るには面白い。谷間から高台に上がれば、思わぬ景色が開け、それを越えて向こう側に下りれば、また全く違う街並みが待っている。平坦な土地に比べ、高台と低地が入り組んだ場所では、住宅にも地形を生かす工夫が凝らされ、町並みにそこに暮らす人々の個性が表れている。

 しかし、近ごろ東京では、こうした町並みの魅力を無視した開発が後を絶たない。15-6年前になるだろうか、麻布十番から現在の六本木トンネルに向かう道沿いに、蔦の這った味のある洋館があった。まだトンネルの開通前で、車の往来のない道路に三脚を立て、洋館を背景に身重の家内と2人で年賀状写真を撮った。その年は暖かく、暮れ近くになっても銀杏の葉が鮮やかな黄色を保っていた。ところが数年後、そこを通って愕然とした。洋館が建っていた一帯の土地は無残に削り取られ、工事用のダンプカーがあわただしく出入りするゲートと化していた。六本木ヒルズの工事が始まったのだ。

 六本木ヒルズは、それまでの丘と谷間が織り成す奥行きのある町並みを根こそぎ切り崩し、そこら一帯を丸裸にしてしまった。代わりに現れたのは、知性も何もない薄っぺらな商業空間だ。その土地の味を生かすという点では、最近の大規模再開発の中でも、「ヒルズ」は最悪のケースではないのか?

そして今、新たな「ヒルズ」が我善坊谷にも押し寄せようとしている。何百年にも渡って、東京のこの地に暮らしてきた人の知恵は、またもや巨大資本の論理によって一方的に蹂躙されてしまうのであろうか。残念でならない

写真に写るもの

安っぽい居酒屋を背にして、まだ大人になりきれない若いモデル志願の娘がこちらを見つめている。新宿のゴールデン街で昼間に撮った女性のポートレートだ。この写真は、出来上がった直後には、自分の狙ったイメージ通りに撮れておらず、がっかりしたのを覚えている。しかし、今見てみれば、構図には独特の情緒があり、表情も悪くない。自分の撮った写真をたまに引っ張り出して来て眺める楽しみは、写真を撮るものだけの特権なのだ。しかし、それはまた、写真の持つ謎に惑わされる危険な瞬間でもある。

カメラ越しにこちらを見つめるモデルの視線はいつも見慣れたもののはずである。むしろ、なかなかシャッターを切るタイミングが合わないその視線に、いつも苛立たされていたのではないか。しかしなぜか、写真のなかで一心にこちらを見つめる彼女の視線にふと目が留まると、それまで気づかなかった彼女の裸の心が感じられ、その視線から意識をそらすことができなくなってしまう。同時に、なんともいえない胸騒ぎに襲われている自分に気がつくのである。

川端康成の「名人」のなかで、筆者が本因坊秀哉名人の死顔の写真を撮る場面がある。かつて名人の引退碁の観戦記者を務めた筆者は、たまたま名人の死顔の写真を撮る巡りあわせとなり、「生きて眠っているように写って、しかも死の静けさが漂う」ように撮れたその写真で、名人の容貌を克明に描写していくのである。しかし同時に川端は、その写真によって不可解な感覚に取り付かれる。「いかにも(写真の)死顔に感情は現れているけれども、その死人はもう感情を持っていない。そう思うと、私にはこの写真が生でも死でもないように見えて来た。」死人の顔に感情が表れることはあるだろう。しかし、それが写真に写り、死者の人生の終着点をはっきり刻み、しかも「死顔そのものよりも、死顔の写真のほうが、明らかに細かく死顔の見られる」のがなんとも妙なのである。筆者はその写真を、「何か見てはならない秘密の象徴かとも思われた」と言っている。

写真は見たままを写す。しかし写された写真には、けっして見たままが写っているわけではない。写真は「瞬間」を切り取り、印画紙の上に焼き付け、「永遠」に閉じ込める。撮った者にも撮られた者にもはっきり意識できないほどの短い「瞬間」。写真はそれを細部に至るまで克明に描き出し永遠に記録する。そこには、撮られた本人自身も気がついていないその人の本質、その人の人生までもが写しだされてしまうことがあるのだ。それは確かに、「見てはならない秘密の象徴」かもしれない。

最近の「原宿」事情

カメラを片手によく原宿に出かける。この街の空気の独自の肌触りに魅せられてもう何年になるだろうか。駅前に立ち、いつものように妙な安らぎを覚えると、たちまち海辺の亀のように雑踏の波にさらわれ、心地よい緊張感に包まれながらこの街をさまよい始める。

かつて原宿はといえば、遊歩道に多くのパフォーマーが押し寄せ、歩道の並木の下では、画家の卵が似顔絵を描いて修行を積み、その横では地面に座り込んだ若者達が自作のアクセサリーの店を広げていた。そうした場所には、必ず能天気で暇そうな連中がたむろしているのだが、彼らの多くはモデルやミュージシャン、デザイナーなど、それぞれの分野で成功を目指すアーティスト達で、分野を越えた出会いの場でもあった。演ずるものと観る者が熱気を帯びて渾然一体となる巨大な舞台、それが原宿だった。

この街に足を運ぶおしゃれな女性達もまた、自らの個性を街に向かって発信する者の一人だ。頬に開けたピアスひとつも、彼女らなりの表現なのだ。趣向を凝らしたファッショには、彼女達が思いを込めた感性がこぼれ出ている。「写真撮らせて」と声をかけるのは、そうした思いが僕の感性を振るわせた時。ぐっと迫ってピントを合わせ、大袈裟に肘を張って縦位置にカメラを構える。彼女達は一瞬戸惑いの中に嬉しさの混じった複雑な表情をみせるが、行きますよ!とかまわずシャッターを切るころには、撮らせてやるか、という優しささえも浮かべ、すでに一人のモデルとして可憐に自分を主張している。

しかし数年前、表参道の遊歩道が消えた頃から、こうしたどきどきする出会いの場は次第に失われつつある。原宿交差点のGAPの前では、以前にも増してファッション雑誌のカメラマンに声をかけられるのを心待ちにする男女でにぎわっているが、こうした連中は、かつて原宿にくる骨のある連中からは軽蔑されていた。彼らにとって商業主義に安っぽく使われるのはノーサンキューなのだ。ここ数年はかつては歩道を彩った露店も締め出され、代わりに高級海外ブランド店ばかり続々と進出している。原宿はもはや、個人が思い思いに個性を発揮できる街ではなくなってきている。そしてここに足を運ぶ者の意識も、以前とは変わってしまったのだ。かつての個性の街は、商業主義に飲み込まれ、巨大資本の金儲けに利用されるだけのつまらない空間となりつつある。

昨年の秋、永年に渡って原宿のシンボルだった同潤会アパートがとうとう取り壊された。跡地には日本の誇る世界的建築家、安藤忠雄氏がプロデュースする新たな施設ができるそうである。果たして彼は、かつて原宿で渦巻いていた個性の輝きを再びこの街に呼び戻すことができるのだろうか。それとも、もはやそれは古き良き過去となってしまったのだろうか。