我善坊谷

 先日、友人のSさんとカメラ片手に都心散策に繰り出した。溜池山王駅で待ち合わせ、アークヒルズの辺りで六本木通りを左に分け、総ガラス張りの泉ガーデンの高層ビルをやり過ごすと、左に降りる階段があった。そこを下ると、340年前の古い民家が建ち並ぶ不思議な谷間に降り立った。目的地の我善坊谷である。

ここは、地下鉄六本木1丁目駅から神谷町に向う高台の西側に、入り江のように入り込んだ谷間である。民家の玄関には植え込みが茂り、麻布台という地名からは想像もできない下町的な情緒が漂う。古い土蔵があるかと思えば、門前に享保十六年と彫られた石仏が置かれている家もある。どうやらはるか昔からこの谷間には人が住みつづけてきたようだ。かつて人々が住み着いたときの雰囲気が、今でも感じられるような場所である。

この日は、あいにくの雨だったが、それにしても人通りがほとんどない。ひっそりと静まり返った家の玄関には、「森ビル管理」「立ち入り禁止」の札が貼られている。どうやらこの一帯のほとんどの民家は、すでに住人が立ち退いているようである。

六本木周辺は坂が多く、写真を撮るには面白い。谷間から高台に上がれば、思わぬ景色が開け、それを越えて向こう側に下りれば、また全く違う街並みが待っている。平坦な土地に比べ、高台と低地が入り組んだ場所では、住宅にも地形を生かす工夫が凝らされ、町並みにそこに暮らす人々の個性が表れている。

 しかし、近ごろ東京では、こうした町並みの魅力を無視した開発が後を絶たない。15-6年前になるだろうか、麻布十番から現在の六本木トンネルに向かう道沿いに、蔦の這った味のある洋館があった。まだトンネルの開通前で、車の往来のない道路に三脚を立て、洋館を背景に身重の家内と2人で年賀状写真を撮った。その年は暖かく、暮れ近くになっても銀杏の葉が鮮やかな黄色を保っていた。ところが数年後、そこを通って愕然とした。洋館が建っていた一帯の土地は無残に削り取られ、工事用のダンプカーがあわただしく出入りするゲートと化していた。六本木ヒルズの工事が始まったのだ。

 六本木ヒルズは、それまでの丘と谷間が織り成す奥行きのある町並みを根こそぎ切り崩し、そこら一帯を丸裸にしてしまった。代わりに現れたのは、知性も何もない薄っぺらな商業空間だ。その土地の味を生かすという点では、最近の大規模再開発の中でも、「ヒルズ」は最悪のケースではないのか?

そして今、新たな「ヒルズ」が我善坊谷にも押し寄せようとしている。何百年にも渡って、東京のこの地に暮らしてきた人の知恵は、またもや巨大資本の論理によって一方的に蹂躙されてしまうのであろうか。残念でならない

宗教画との出会い

先日、プラド美術館展に行ってきた。ベラスケスやゴヤなどの作品が特に目立たないほど名作が目白押しで、久しぶりに絵画がもたらす独特の充実感に浸ることができた。

ところで、ヨーロッパ絵画はキリスト教抜きには語れない。今回の展覧会でも多数の宗教画が出展されていた。しかしキリスト教になじみが薄いものにとって、宗教画にはなんとなく苦手意識がある。作者にとって、聖書から題材を得たその場面を描くことにどのような意味があったのだろうか。もちろん絵画なのだから、それを観てどう感じるかは鑑賞者の自由である。だからと言って、十字架を背負ったキリストの絵を、ゴッホの「ひまわり」を観るのと同じようには観られない。宗教画は作者の信仰心と深くかかわっているからである。現代人は宗教が苦手である。昨今、大ヒットしている「ダ・ヴィンチコード」でも、ダ・ヴィンチの有名な宗教画にある、カトリックの常識から外れた多くの「謎」には注目しているが、画家の信仰心などには全く触れていない。「信仰」を避けてキリスト教を文化として語ることは最近の流行のようである。しかし、謎解きが絵の核心に近づく道だとは思えない。幸いなことに、この展覧会におけるある絵との出会いが、宗教画への眼を開かせてくれた。ムリーリョの「貝殻の子供達」である。

幼子姿のイエスが、やはり幼子姿の洗礼者ヨハネの口元に、水の入った貝殻を近づけ、それを子羊が下から見上げている。ヨハネはその水を口に含みながらも、左手でもった十字架形の杖の先に注意を集中させ、今にも次の行動に移ろうとしている。いかにも幼い子供が無心で遊んでいる様子が伝わってくるが、良く見るとヨハネは非常に聡明そうで、イエスはイエスで後ろに控えてはいるが、その目はまるで我が子を見守るかのようにおだやかで確信に満ちている。そして見れば見るほど、彼らの姿勢や仕草、そして動きはすべて調和に満ち、一部の隙もない。さらに、イエスやヨハネのいかにも幼子らしい純真さが、そうした完璧な調和が「生まれながら」に備わっているものであることを無言のうちに伝えている。僕は静かなその絵のなかに、崇高な熱気が渦巻くのを感じ、しばしそれに焼かれる思いで絵の前に立ち尽くした。同時に、僕のような俗な人間が今後どう生きようとも、こうした世界には決して到達できないだろうという思いが湧き起こり、胸が一杯になったのである。

会場の出口で、この絵のポスターを買ったが、実物に感じた感動は蘇らなかった。本物の柔らかく深みのある質感は、作者の精魂込めた微妙な筆のタッチに支えられており、それを印刷で再現するのは無理そうだ。改めて、作者の驚くべき技術の高さと、それを細部に至るまで注ぎ込ませた作者の心の世界を感じないわけにはいかなかった。

便利さが奪うもの

かつてLPレコードというのはかなり高価なものだった。小遣いをはたいて買ってきたレコードを、傷つけないよう慎重にジャケットから取り出し、静電気で付いた埃を入念に取り除く。演奏中のプツプツというノイズを減らすためだ。そして静かにレコードが回り始める。針が落ち、曲が始まるまでの数秒間、呼吸を整え、一気に集中力を高めたものだ。

CDが登場すると、傷も埃も気にする必要はなくなった。音質は向上し、操作も手軽になった。気がつけば、かつては宝物のように大切にしてきたレコードも全く出番がなくなってしまった。しかし、先日、ふと思った。CDで音楽を聴くようになって久しいが、かつてレコードから受けたような感動を受けたことがあるだろうか。心を揺さぶられた演奏の記憶はなぜかレコードの頃のものばかりなのである。

レコードがCD、さらにはiPodへと移り変わってきたのと同じように、現在、フィルムカメラはデジカメに変わりつつある。フィルムが不要で、撮ったその場で見られ、しかも失敗しても何度でも撮り直しが利くデジカメは、フィルムカメラに比べ遥かに便利である。何の気兼ねもなく、パシャパシャといくらでもシャッターが切れる。しかし、いざ本気で撮ろうとすると、逆にこの手軽さが邪魔になる。なんとも気合が入らないのだ。

便利さは煩雑さを取り除いてくれる。それ自体は悪いことではない。しかし、何か肝心なものまで失われてしまっているのではないか。便利だが質は劣るという場合はまだ良い。例えば、冷凍食品の味は、まだちゃんと作った食事には及ばない。しかし、冷凍食品の方が断然おいしく、しかも安くなったらどうなるのだろうか。CDやデジカメのように、手作りの料理に取って変わってしまうかもしれない。しかし、料理に手間をかけるのは、ディメリットばかりではない。自分で作るからこそ、味に個性が出る。自分でこだわって作るからこそ、おいしそうに食べる顔を見る喜びがあるのである。便利さは、そうしたものまで同時に奪ってしまうのである。

最近のテクノロジーの進歩は、便利さを生活の隅々にまで行き渡らせつつある。人間は元来、怠け者である。より便利なものが現れると、それまでのものは急に不便に感じられ、たちまち淘汰されてしまう。そして麻薬のように、一度慣れてしまうと、もう後には戻れない。今や便利さは消費行動を決定する最大の要因なのである。

このところ、元旦から開くスーパーも現れた。確かに正月も開いているとなれば、年末にたくさん買い込む必要もない。しかしその便利さは、正月独特のゆっくりとした時間の流れを奪い、普段と変わらぬ生活を押し付ける。いったい何のための便利さなのか。

中学の頃

 昨年中学に入った長女のこの一年は、けっして平坦なものではなかった。いつもぎりぎりのところで何とか乗り越えてきたが、その都度、必ずと言っていいほど親に当り散らした。そんな彼女に、いつしかかつて自分の中に渦巻いていたものを感じるようになった。記憶は蘇り、当時の自分を映画で見るような妙な錯覚を覚えるようになったのだ。

中学に入ってしばらくすると、僕はいつの間にかすっかり漫画に夢中になっていた。学校の帰り道に貸し漫画屋さんがあって、借りてきては毎日取り憑かれたように読んだ。漫画の多様な世界は、あたかも渇いた体が水を求めるように無条件で吸収されていった。それまで優等生に収まっていた僕にとって、漫画を読むことは一種の反抗だったのかもしれない。しかし1年ほどして、店にあった何百冊もの漫画をほとんど読みつくしてしまったころ、突然、ぱたりと読むのをやめてしまった。漫画から得られる充実感に限界を感じたのだ。取って代わって僕を捕らえたのはベートーヴェンの音楽だった。そこには漫画にはない高度で深い世界があった。その聴き方は音楽を楽しむというより、音によって心の中に描きだされる世界をむさぼるように感じ取ろうとするものだった。人生で初めて、絶対的に信じられるものに出会った気がした。そしてその感動は、僕の心に何かを成し遂げなければならないという強烈な使命感を呼び起こした。200年の時を経て、シュトゥールム・ウント・ドランクの嵐が僕の心の中にも吹き荒れたのである。

一方で、僕は当時、「ラプラスの魔」に悩まされていた。宇宙の全ての原子は物理法則に支配されており、従って全ての事象はその法則にしたがって進行する。人が何を考えても、それ自体が物理的な帰結であり、「意思」は決して物理法則を超えることはできない。ニュートン物理学の継承者、ラプラスが描いたこの決定論的世界観は、ベートーヴェンによって引き起こされた使命感と真っ向から対立した。もともと論理的に考える癖のあった僕は、容易に逃れられないジレンマに陥っていたのである。

そんなことにばかり悩んでいたので、成績はぱっとしなかった。親から、「勉強しろ」と叱咤が飛んだのも当然である。それに対して、「勉強の前提として、生きる目的を解明する必要がある」と泣きじゃくりながら主張する僕に、親は相当手を焼いたことだろう。勉強など、言われなくても分っている。その前に、何故おとなは子供にとって大切なことに無頓着なのか。その鈍感さが我慢ならなかったのである。

この春、次女も中学校に入学した。彼女はこの一年間、変っていく姉と悩める親を冷めた目でじっと見てきた。彼女もまた親の想定を超えたことを言い出すのだろう。しかし、こちらは度胸を据えて見守るしかない。なぜならそれこが子供の成長の証なのだから。

母の手術

 先日、母が足の手術をした。永年患っていた股関節を人工関節に換えたのだ。

30年ほど前、母は股関節に違和感を覚えた。しばらく放っておいたが、次第に痛みが増し、自動車のクラッチを踏むのが苦痛になってきた。病院へ行くと、変形性股関節症と診断された。

股関節は、骨盤の臼蓋部に大腿骨の骨頭が嵌ってできている。通常、この臼蓋部と骨頭部のいずれの表面も数ミリの軟骨に覆われ、クッションの役割を果たしているのだが、変形性股関節症ではこの軟骨がすり減り、クッション性が弱まると同時に激しい痛みを伴うようになる。筋肉痛に似た違和感を覚える初期の段階では、筋力トレーニングなどで関節への負担を減らし、症状の進行を食い止められる場合もあるが、痛みが発生する頃になると、体の違う部分から切り取った骨を接ぎ、関節の形状を整える骨切り術が必要となる。さらに治療が遅れ、軟骨が磨滅し、関節の変形も大きくなってしまうと、金属製の人工関節に換える以外になくなる。

 母の病気がわかったとき、すでに骨切り術の話はあった。ただ、手術をすれば最低1年から1年半は療養生活が必要となる。父の店で働き、家計を支えていた母が、長期間店を抜けるのは痛い話だった。父も頭ではわかっていても、無意識に母の手術から眼をそむけた。それまで高度成長の波に乗って店の業績を拡大して来た父が、ちょうどオイルショックの不況で大きな挫折に直面していた時期だ。母の足を優先する余裕はなかったのである。

痛みで眠れぬ日もしばしばだったが、母は杖をつくことにより、多少なりとも症状の進行を遅らせる以外になかった。さらに、その数年後、父が癌で逝く。母は店を切り盛りせねばならなくなり、手術の機会はさらに遠ざかってしまったのである。

今回の手術に先立ち、医者は口をそろえて、「良くここまで持ちましたね」と言った。しかも検査の結果、母の大腿骨の骨頭部は、単に磨滅するのではなく、脇にもう一つ球状の瘤を形成し、そこが新たな骨頭として荷重を支える役目を担っていたのである。恐らく、苦痛を避け、患部への負担を減らすために体が適応したのだろう。さらに骨盤側の臼蓋部も、瘤により大きくなった大腿骨頭をカバーするため、端が庇のようにせり出して、脱臼を防いでいたのである。こんなことがあるのかと医者も驚いていたが、まさにそのように変形した関節に、長い間病気と戦ってきた母の意志の力を見る思いだった。

最近の母の病状は、必ずしも緊急に手術を要するほど差し迫っていたわけではない。ただ、人工関節に換えれば、足の心配をせずに自由に旅行にも行けるようになるだろう。母はそう思ったのだ。73歳になって、母はやっと自分のために手術をしようと決心できたのである。

マネーゲーム

 昨年は久々に株式市場が活況を呈した。そんな矢先、年明け早々、ライブドア事件が発覚すると、マスコミからはそのマネーゲームに対する非難が相次いだ。しかし、その論調には、素人相手の幼稚なあざとさを感じざるを得なかった。今や、マネーゲームという毒を飲まなければ市場は生きていけないというのは、社会の常識ではなかったのか。

 株はもともと企業が事業に必要な資金を獲得するための手段である。会社は株を発行することによって、投資家から資金を得る。投資家は見返りとして、投資額相当の経営権を獲得し、同時に会社が稼いだ利益の一部を配当として受け取ることができる。会社の業績が良ければ、株の価値は上がり、配当も増える。従って、より高い価格でもその株を手に入れたいという人が現れる。そのニーズに応えるため、株式を自由に売買できる株式市場が創られ、同時に株価の決定が市場に委ねられることになった。一方、企業は新株を発行する際、この市場価格を元に売り出すことができ、業績が良く、株価の高い会社は、有利に資金調達ができるようになったのである。

ところが、株式市場が一旦形成されると、そこで株を売買する人々の関心は、会社の経営権や配当から、株をいかに安く買って高く売るかということに移った。その点では、大掛かりに株式を運用して利回りを稼ぎ出す生命保険会社も、パソコンの前に張り付き、ネット売買に没頭する個人投資家も同じである。いずれも、いかに早く株価の変化を予測し、対応するかで勝負が決まるのである。

株価は買いたい人が多ければ上がるし、売りたい人が多ければ下がる。一見、単純に思われるが、多くの思惑が絡む市場は非常に曖昧で複雑な動きをし、株価の変動を正確に予測する方法は未だに存在しない。現在、株式の運用技術で最先端を走っているのは、ヘッジファンドと呼ばれる資産運用会社であろう。彼らは、先物取引などの金融派生商品を巧みに組み合わせ、金融工学の複雑な理論を駆使し、株価が値上がりしても値下がりしても利益が出せる運用方法を開発している。まさに現代の錬金術である。

高度化したマネーゲームは、巨額の資金を動かすようになり、東京証券市場では、毎日、何兆円もの取引が行われる。その結果、企業業績ではなく、マネーゲーム自体が株価に大きな影響を与えるようになる。さらにはその株価が企業業績自体に影響を与えるという逆転現象も起こってくる。マネーゲームに翻弄されて経営がおかしくなってしまう企業も出てくるのである。それでも株式市場は必要だというのが社会の認識である。世界規模のマネーゲームが、今後、ますます熾烈を極めることは避けられそうもない。

K333

昨年はモーツアルトのK333のピアノソナタの1楽章に、丸1年かけて取り組んだ。この曲は、かつて二十歳の頃、「何としてもピアノを弾きたい」と思わせた曲である。8年前にピアノを習い始める以前にも、何度か自分で練習したことはあったが、我流で弾けるほど簡単な曲ではない。習い始めてからもすぐには手が出せず、ちょうど1年前に、M先生に付いたのをきっかけに、この曲にチャレンジすることにした。とうとうこの曲をやるのか、と思うと感無量だった。M先生はそんな僕の強い思い入れを汲み取りながら、優しく丁寧に、そして粘り強く付き合ってくれた。残念ながら、先生は出産準備のため、昨年いっぱいで休職されることになってしまったが、他でもないK333のソナタをM先生に見てもらえたのは何よりも幸運だった。

あるとき、再現部をどう弾くかが問題になった。この曲では、提示部においてしばしばモーツァルトが見せる、第1主題から第2主題にかけてのめまぐるしい転調は鳴りを潜め、調の移行は単純で、非常におおらかである。逆に、再現部において、主題間の転調がないにもかかわらず、なんともいえない微妙な心理的な効果を生み出していて、ソナタ形式の可能性を追求するモーツアルトの挑戦が見えてくるのである。

この曲の練習を始めてから、永年聴いてきたピリス(マリア・ジョアオ・ピリス)のCDを何度も繰り返し聴いた。しかし変なもので、自分が練習している曲を聴くと、演奏の技術や表現、曲の解釈などを必死に追うあまり、演奏を楽しむことを忘れてしまう。かつて、僕の心を大きく揺り動かし、その残響が30年を経た今でも消えることのないこの曲の魅力はこんなものではなかった。レッスンも最後の数回となったとき、かつて僕のなかにあったこの曲の魅力を、なんとか先生に伝えておきたいと思った。そこで、一旦演奏を忘れ、心が動かされるままにピリスの演奏に耳を澄ませてみた。すると、突如、メロディーが天上の妖精のように軽やかに踊り始め、かつてのイメージが蘇ったのである。同時に、この1年間、どう弾けばいいのか悩むことが多かったが、自らの心の中にあるヴィヴィッドな感動があってこそ表現に集中できることがわかったのである。最後のレッスンの日、そのイメージを心に描いて弾くと、先生もなんともいえぬ表情でうなずいてくれたのだった。

こうしてM先生とともに学んだこの1年の体験は、その時々の試行錯誤がそれぞれ有機的に結びつき、あたかも一つの作品のように鮮やかに僕の心に残った。そして、K333のソナタがそうであるように、いつも優しく、小気味よく語り掛けてくるのである。

中国の経済構造・私論

 歩道に面した軒先で、肉まんや野菜まんを蒸かすセイロから美味そうに湯気が立ち上る様は、上海の街中で毎朝見られる光景である。そうした点心の類は、いずれも手抜きのない本場の味だが、一個およそ0.7元(=約10円)。一方、市内のいたるところで見かけるスターバックスコーヒーは、一杯20元(約300円)以上。実に肉まん30個分である。

 上海で働く人たちの平均月収は45万円だといわれている。しかし、外資系の企業に勤める部長クラスのサラリーマンでは、年収4500万円(夫婦合わせればその2倍)の人も珍しくない。彼らは、150㎡以上の高層マンション(34000万円)に住み、大型のプラズマディスプレーでサッカーを楽しみ、大抵は外車を2台は保有している。もちろん家事は家政婦任せである。こうした人々は、店先の肉まんを食べることなどめったにない。

 そうした富裕層は、近年の中国経済の急成長の賜物だが、その急激な成長を支えているのは、低所得層の安い労働力である。上海あたりでも、地方の農村からの出稼ぎの人などは、月に1万円以下で生活していることも珍しくない。上海のような大都会で、なぜそんなに安い賃金で生活が成り立つのだろうか。日本と根本的に異なるのは、中国では田舎に行くほど物価も賃金も急速に安くなるということである。大都市には、そうした田舎から、安い食材や衣料品などがいくらでも入ってくる。だからジューシーな肉まんが、わずか0.7元で食べられるのである。住居に関しては、社会主義の中国では最低限の補償がある。贅沢さえ言わなければ、大都会でも1万円で十分生活していけるのである。

こうした都会の人々の生活を支える田舎の人たちの収入はさらに低い。しかし彼らも、自分達と同等以下の収入の人たちが生産したもので生活している限り、十分豊かに暮らせる。確かにスターバックスコーヒーや海外ブランド品には縁がないかもしれないが、彼らはそもそもそんなものには関心がない。こうして遡っていくと、最後に、自然の恵みによって農耕し、家畜を養って生活する人々に行き着く。果たして彼らは貧しいのであろうか。それは彼ら自身に聞いてみないとわからないが、「中国経済は一部の富裕層を支えるために、多くの貧乏な人が犠牲になっている」と簡単に決め付けることはできないのである。

現在の中国の経済発展は、確かに安い労働力なしでは成り立たない。従って、13億の国民すべてが、アメリカ人並みの生活レベルになることは、当面はあり得ない。しかし、そもそもそれは必要なことだろうか。現在の富裕層と呼ばれる人たちが、その賃金格差と同じだけ幸福な暮らしをしているかどうかは疑問である。豊かさは必ずしも資本主義的な尺度だけで計ることはできない。社会主義を保ちつつ、急速に資本主義を発展させる中国は、本質的な豊かさを目指して、壮大な実験を進めているのであろうか。

宇多田ヒカル研究

先日、筑波大学の帰り、秋の気配が迫り来る広いキャンパスをバスが抜け、開通したばかりの筑波エクスプレスのエントランスに立ったとき、ふと、宇多田ヒカルの「ディープリバー」を口ずさんでいる自分に気がついた。自分が無意識に口ずさむメロディーが、案外その時の心理状態を絶妙に言い当てていて、なるほどと手を打つことは珍しくない。ところがその時は、この曲が湧き上がらせる独特の印象が鮮やかに心に残っているのに、なぜそれを口ずさんだのか、うまく言葉で説明できないのである。

オートマティックなどの大ヒット曲を擁した彼女のデビューアルバム「ファーストラブ」が、あまりにもセンセーショナルだったため、宇多田ヒカルというと未だにこのアルバムを思い浮かべる人も多いが、彼女の音楽はその後も止まることなく進化を続けている。そして彼女が結婚した19歳のときに発表された3枚目のアルバム「ディープリバー」で、彼女の新たな才能が花開くことになるのである。

もとより彼女の音楽の魅力はその即興性にある。しばしば見せる急激な音程の立ち上がりは、ノリに任せたアドリブでなければ決して出てこない。それがまた、彼女の音楽をポップでおしゃれに仕上げてもいるのである。「ディープリバー」ではそれがさらに進化して、それまでなかなか感情について来なかったメロディーが、彼女の心の叫びを自在に歌い始めたのだ。強力な磁場のように聴くものを捕らえて離さないそのメロディーは、宇多田ヒカルという個性と何度も共鳴して生まれたものなのだ。

恋に破れ、傷ついてもなお、その恋のときめきを否定しない。喜びも絶望も、恋であり人生なのだ。彼女の歌は、悲痛ななかにも常に前向な意思を見せる。傷ついた瞬間も、幸福をあきらめることはないし、幸福の絶頂に潜む不安のなかでも、堂々と胸を張り、前を見続ける。それは強がりでも負け惜しみでもない。幸福とか不幸とかいうものは、決して到達点ではないのだ。自分を信じ、時に自分を励まし、前を見て進む。彼女の歌は、常にそんな響きに包まれている。

陰と陽が絡み合う彼女の音楽は、聴くものの心の深い部分に入り込み、眠っていたものを呼びさまし、予想もしなかった感情を引き起こす。それは懐かしさにも似ているが、決して感傷的ではない。言葉にならないのは、むしろ当然なのかもしれない。

もっとも、この天才歌姫にとって、自分の歌の面倒臭い分析などどうでも良いに違いない。彼女の目は未来を見つめている。そんなの当たり前ジャン!彼女は、ポンと肩を叩いて走り去っていくだろう。頑張って!と言い残して。

心の住みか

 10年ほど前に家を建てようと思ったことがある。どうせ建てるなら、山から自ら材木を調達し、とにかく無垢の木と石をふんだんに使って、自然素材に抱かれる家にしたいと思っていた。しかしこの計画は、処事情により宙に浮いてしまい、結局、今だに賃貸マンション暮らしを続けている。すでに土地があることもあり、ずっとマンションを買うことなど考えたことがなかったのだが、最近、この十数年の間に払った家賃が馬鹿にならないことに気が付き、ふと、中古の分譲マンションでも探してみようかという思いが浮かんだ。試しにインターネットで検索してみると、案外、手の届きそうな物件がちらほらある。さっそく不動産屋さんに頼んで、いくつかの部屋を見せてもらうことにした。

 家族で住む家は、僕一人の一存で決められるものではない。今住んでいる場所は、僕にとってはもともと縁もゆかりもない土地であるが、子供達にとって事情が違う。特に、現在通っている学校に、今後も無理なく通い続けることができるという条件は、彼らにとっては譲れないものなのだ。従って、まずエリアに大きな制約がある。さらに、広さ、間取り、日当たり、外観、セキュリティーなどの諸条件が、現在の賃貸マンションより改善しないと、家族は納得できないらしい。駅からあまり遠いのも困る。しかも、住居費が現在より下がらなければならないとなると、これはもう、そう簡単に見つからない。間取り図と地図をにらみながら悪戦苦闘する日々が始まった。

そんな矢先、TVで建築家の藤森照信氏を紹介する番組があった。氏はもともと建築史家であったが、15年ほど前に、ある資料館の設計を依頼されたのをきっかけに、設計を手がけるようになった。徹底的に自然素材にこだわる氏の建物は、現代のモダニズム建築とは全く逆を行く。縄文人はかつて、竪穴式住居のなかで、どんな気分で暮らしていたのだろうか?住居が持っていた、原始的な肌触りを現代の建築に取り入れたい。氏の思いはひたすら非工業的なものに向いて行く。その結果、住居の壁や屋根一面に植生を生やし、毎日の水遣りを欠かせばたちまち枯れてしまう住居ができあがる。果たして住みやすいかどうかは疑問である。しかし、そこでは家は単なる「箱」ではない。家自体と強く係わるうちに、ついにはそこに住む人の心に棲みついてしまう、そんな家なのである。

藤森氏によれば、人は自分が生まれ育った家や路地などを前にしたとき、最も強く「懐かしい」という感情を抱くそうである。家は、知らず知らずのうちに、そこに住む人の心に深く入り込んでいるのである。今回、いろいろ観てみて、分譲マンションと言えども、それぞれ個性があり、驚くほど違った印象を覚えた。今回のマンション巡りは、どうやら我が家のメンバーが、自らの心の住みかを探す出発点になりそうである。