ウクライナ戦争が訴える民主主義の重み

 224日、ロシアのプーチン大統領はロシア軍のウクライナへの侵攻を命じた。

 この侵攻に直接繋がっているのが、2014年に起きたウクライナ騒乱、つまりマイダン革命だ。ウクライナの首都キーウで民主化を目指す大規模なデモが起き、当時の親ロシア派大統領、ヤヌコーヴィッチを失脚させたのだ。

 これに激怒したプーチンは即座にクリミヤ半島に侵攻してこれを併合し、さらにウクライナ東部では親露派武装勢力が蜂起しドンバス地方に自治区を作った。

 プーチンは今回の侵攻の理由としてNATOの拡大によりロシアの安全保障が脅かされていると主張している。だが、NATOがロシアに侵攻するわけがない。彼が恐れているのはロシアの周辺国が民主化し、その波がロシアにも押し寄せることなのだ。

 同じ事情が東アジアにもある。2019年、中国は香港において国家安全維持法を制定し民主活動を抑え込んだ。これも習近平が香港の民主化運動が中国本土に飛び火することを恐れたためだった。独裁者にとっては民主化ほど恐ろしいものはないのだ。

 上記のマイダン革命でウクライナはロシアではなく民主主義を選ぶということを明確に宣言した。それ以降、プーチンはウクライナの民主化という強迫観念に取り憑かれ、ウクライナを支配下に置くべく今回の進行に至る作戦を進めてきたのである。

 彼はもとより泥沼の戦争をやるつもりはなかっただろう。ロシアが誇る強大な軍事力を見せつければウクライナは震え上がり簡単に降伏すると考えていたに違いない。それがこれまでのプーチンのやり方だった。

 だが、マイダン革命以降、ウクライナ人は脱ロシアを目指し軍事力に加えて情報戦も強化し、電力網も整備して来るべき戦いに備えてきた。さらにロシア侵攻が始まると自国と民主主義を守るために不屈の精神を示している。

 一方で西側諸国も一斉に強力なロシア制裁に動いた。さらにサイバー空間においても世界中のハッカーや民間企業が協力しロシア包囲網を形成している。世界中が民主主義を守るためにこれまでにない結束を見せているのだ。

 だが、どうやってこの戦争を終わらせるかは見通せない。プーチンにとってはウクライナで今後も民主化が進むことは許しがたい。一方のウクライナは、民主化を潰すためにロシアがいつでも軍事介入できるような条件は絶対に受け入れられない。

 今、行われている戦争は単にウクライナとロシアの戦いではない。民主主義と専制主義の戦いなのだ。ウクライナの人々は多大な犠牲を払いながら、世界中の人々に向けて改めて民主主義の重みとそれを守る覚悟を訴えているのである。

何のための憲法改正か

今年の憲法記念日、安倍首相は2020年までに憲法改正を目指す意向を示した。だが、その改正案は意外なものだった。

 日本におけるこれまでの憲法改正論議は、そのほとんどが第9条、特にその2項の改正についてのものだった。9条2項には、「前項(平和主義)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。これを改正して軍隊を持てるようにするか否かが主な争点だったのである。

 ところが、今回の安倍首相の提案は、2項をそのままにして新たに3項を設け、そこに自衛隊の存在を明記するというものだった。現行憲法では自衛隊を違憲とする意見があるので、憲法に自衛隊の存在を明示し、自衛隊の存在を保障しようというのだ。

 しかし、この3項が2項に矛盾しないためには、自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないことが必要だ。だが、これまで9条改正派は、自衛隊を「陸海空軍その他の戦力」であると認め、それに合わせて9条2項を改正すべきだと主張してきたのである。

 実際には現行憲法においても海外からの侵略に対して自国を守る権利、つまり個別的自衛権は認められている。自衛隊が自衛のためだけの戦力である場合には違憲ではないとされているのだ。つまり自衛のためだけの自衛隊なら、わざわざ3項を加える必要はないのだ。

 安倍首相は2年前に集団的自衛権の行使を容認する安保法案を可決させている。その彼が自衛隊を個別的自衛権の範囲に留めようとするはずがない。ただ、多くの憲法学者が、個別的自衛権の範囲内ならば合憲とされる自衛隊も、集団的自衛権を行使すれば違憲であると主張している。安倍氏はその点を何とかしたいと考えているのかもしれない。

 9条改正派は、現行憲法は敗戦直後という特殊な状況下でGHQによって無理やり押し付けられたもので、その結果、日本は軍隊を持てず一人前の独立国家たり得ないと主張する。さらに北朝鮮のミサイル問題や中国による海洋進出などを引き合いに出し、日本を取り巻く環境は急速に悪化しているなどと危機感を煽っている。だが、だからと言って果たして9条を改正する必要があるのだろうか。

 たとえ「軍隊」を持ったとしても日本単独で自国を守れる訳ではなく、日米安保に頼る体制は変わらない。また、最近では直接的な軍事衝突よりもテロやサイバー攻撃の脅威が急速に増しており、強力な軍隊で国を守るという考え方は陳腐化しつつある。そして何よりも、もし軍隊を持てば、日本は「戦争をしない国」の看板を下ろさざるを得なくなる。その外交的な損失は計り知れない。それによって軍事バランスが崩れれば周辺国を刺激し緊張が高まることは間違いない。テロの標的になるリスクも高まるだろう。むしろ戦争放棄と平和主義を積極的に掲げ、現在の防衛体制を強化する方がはるかに現実的ではなかろうか。

 何れにせよ憲法はオリンピックに合わせてあわてて改正するようなものではない。いったい何のために憲法を改正するのか、国民一人一人がよく考える必要がある。

戦後60年

この夏は、戦後60年ということで、テレビでもさまざまな番組が放映された。そうした中で、日ごろは日常に隠されてしまっている戦争の影が、実は60年にわたって絶えることなく日本人の心の底に棲みつづけてきたことを改めて認識させられることになった。

 私の父は15歳のとき、予科練で終戦を迎えた。おそらく軍隊にかかわった人のなかではもっとも若い世代だろう。それだけに純粋で、軍国主義から受けた影響も大きく、50歳で死ぬまで永く一生尾を引いた。戦後の動乱の中で、学校も満足に卒業できなかった父にとって、予科練での8ヵ月間は、お国のために命を捨てる覚悟で臨んだ、精神的にも肉体的にも、人生でもっともひたむきに生きた時間であった。戦地に赴くことなく終戦を迎えたことは幸運としか言いようがないが、張り詰めた若い精神の糸は終戦によりプッツリと切れ、その後の人生において決して修復しきれない傷跡を残したのである。

 「靖国」の問題も、今年は多く取り上げられたが、有識者の方々の論議を聞くうちに、置き去りにされてきた日本人の心の戦後処理の問題が浮かび上がってくるように感じた。東京裁判を受け入れ、サンフランシスコ講和条約で国際舞台に復帰した日本は、A級戦犯が引き起こした犯罪として戦争を清算し、復興に向けて歩み出した。しかし一方では、家族を失った悲しみ、死んだ戦友に対する生き残ったものの思い、戦争に負けた悔しさといった様々な思いは、簡単に消え去るものではない。そうした思いを、「靖国」という戦前の思想により吸収しようとしたところに、靖国問題の核心があるように思えた。結果的に、日本人は戦争に対する真の反省の機会を失ってしまったのである。

 今回、番組に出演した有識者の中にも、「お国のため」に死んだことは尊いことであり、戦没者の名誉のために靖国神社へ合祀するのは当然という意見が根強いのに驚かされた。戦後60年も過ぎ、本来ならば、日本は何ゆえ戦争という手段を用いざるを得なくなったのか、日本を戦争に導いた根本的な過ちとは何であったのかというようなことを、すでに詳しく分析し、国民一人一人がしっかりとした考えを持っていても良いはずである。そうした問題を棚上げし、不戦の誓いばかりしていても、軍国主義の亡霊は永久に消えはしない。

 戦争で心に傷を負ったのは日本人ばかりではない。日本以上に戦争で心に傷を負った中国や韓国の人からの批判に対して、首相の靖国参拝を単純に理屈で正当化しようとしても無理である。彼らの感情を尊重することは、戦争の当事者である日本として当然のマナーであろう。しかし、彼らが本当に望んでいるのは、日本人がもう一度真正面から戦争と向き合い、自らの過ちに気がつくことではないだろうか。