「騎士団長殺し」

 この2月に村上春樹の最新作「騎士団長殺し」が出たので読んでみた。

 主人公の「私」は画家だ。美大時代は抽象画家を志していたが、結婚後は生計を立てるため肖像画を描く毎日を送っていた。ところが結婚から6年が過ぎようとしていたある日、突如、妻から離婚の申し出がある。彼は家を出て車で北日本をさまよった後、友人の父で著名な画家、雨田具彦が住んでいた山上の一軒家に住むことになる。その家に隠されていた「騎士団長殺し」と名付けられた絵を偶然発見したことで、「私」の周りで次々と不思議なことが起きることになる。

 村上氏の小説は常に謎に満ちている。そうした謎は作者自身が自らの心の奥深くに分け入り、ギリギリのところまで足を延ばすことにより生み出されるものだ。その謎は解かれることはないがさまざまな暗示に満ちている。

 そうした謎がある一方で、村上氏は様々なことをはっきりと言い切る。「私」はどのように絵を描いていくか、その様子を実にはっきり語っているのだ。小説家が他の分野の芸術家になりきりその本質的な部分についてこれほど堂々と語るのを僕はこれまで見たことがない。まるで天才画家が自らの創作過程を自信を持って明かしているかのようだ。

 「私」が画家として最も重視しているのはモデルの人間性を直感的に理解することだ。「私」の作品は決して自分の力だけでは完成しない。何をどこまで描くかはモデルとの関係性、さらにはその絵に関わる全てとの人との関係性に委ねられている。彼は自分がすべきことを受け入れ、自分の役割に集中しようと努力する。

 そうした「私」に、ある人物が接近してくる。その謎の人物、免色(めんしき)は、並外れた頭脳と強靭な意志によりあらゆる面で完璧を目指している。その結果、富や情報力、芸術に対する見識眼、日常生活における微妙な所作やファッションのセンスに至るまで最高レベルのものを手に入れている。だが、それゆえに何か重要なものが欠落しているのだ。実は彼は、自分が人生で失ったものを取り戻すために「私」を利用しようとしていたのである。

 彼がピアノでモーツァルトのソナタを練習し、己の演奏と理想との差に溜息をつくシーンがある。世の中には手に入れようとすればするほど逆に遠ざかっていくものがある。だが、彼にはそれが理解できない。彼は自分が失ったものを取り戻そうともがくが、彼のやり方ではそれは決して手に入らないのだ。

 免色の深い悩みが明らかになる一方で、「騎士団長殺し」という絵は深い心の傷を負った偉大な画家が人生最大の愛と苦難を一服の絵として結晶化させたものだったことがわかってくる。そして「私」はその絵のメタファーに導かれ、厳しい試練を耐え抜くことで、自分のやるべきことに目覚め、失いかけた妻との愛を取り戻すことになるのだ。

 読後、ずいぶん愛に満ちた話だったという印象が残った。すべての登場人物が個性に溢れているが、いずれも愛すべき人間なのだ。不思議な作家だ、と改めて思った。

カフカの世界

 フランツ・カフカの作品は、代表作である「審判」や「城」をはじめ多くが未完である。にもかかわらず彼が20世紀最高の作家の一人とされるのは、彼の作品の魅力の核心がストーリー以外のところにあるからだろう。事実、彼の話はどこを切っても謎に満ちた創造性が溢れ出し、読者の心の奥に侵入して人生観を変えるような深い跡を残していくのだ。

 カフカの作品には夢を想起させるシーンが数多く現れる。たとえば「審判」には主人公ヨーゼフ・Kが叔父の紹介で弁護士のところに行く次のような場面がある。

 突如として告訴されたKだが、当時すでに裁判の状況はかなり悪くなっていた。そこに田舎の叔父が助っ人として現れ、Kを知り合いの弁護士に引き合わせる。幸運にもその場には彼の裁判を牛耳れる事務局長が居合わせ、Kの裁判は一気に好転するかに見えた。

 だが、そこで隣の部屋で陶器の割れる音がする。するとKは様子を見てくると言ってその重要な会談の場を出て行ってしまう。隣の部屋では弁護士の情婦と思われる看護婦のレーニがKを待っていた。レーニが誘惑するとKはたちまち彼女とねんごろな関係になり、隣の3人のことはすっかり忘れてしまう。事を終えて名残惜しそうにレーニの所を後にした時には、すでに事務局長は気を悪くして帰ってしまった後で、激怒した叔父がKを叱責するのである。Kは千載一遇のチャンスを逃してしまったのだ。

 常識的に見ればKの行動は愚かで不謹慎ということになるだろう。だが、この場面全体がどこか非現実的である。

 そもそも、こうしたピンチに都合よく事務局長が現れるというのは話が出来すぎている。それを暗示するかのように、Kと叔父は最初、事務局長がいることに気がつかなかった。彼は弁護士の部屋の暗い片隅に幽霊のように潜んでいたのである。Kは事務局長のような助っ人の出現を渇望しつつも、一方でそんなうまい話はないと思っているのだ。

 また、たとえそうした実力者に助っ人を頼むことができるとしてもKには抵抗がある。私利私欲にまみれた裁判所の権力に対して屈することはKの自尊心が許さないのだ。本来ならば正々堂々と持論を展開して裁判所を打ち負かしたい。しかし、すでにそうしたKの挑戦は大きな力の前に行き詰まっており、自分が訴訟に負ける姿に次第に恐怖を覚え始めている。できれば1日でも早くこの煩わしい裁判から逃れたい。

 カフカは、Kのその願望をレーニに対する性的な欲望にすり変えた。読者はKの非常識さに反感を覚えるだろう。だが、それこそ作者の狙いで、深層心理的にはKの葛藤はよりリアルなものとなるのである。

 われわれは普段社会的な常識に従って生きている。しかし、そこに生きる人々の心情は決して理屈通りの単純なものではない。そのため我々は常に葛藤しながら生きているのだが、その葛藤でさえも社会的な常識の中で解釈されてしまう。だが、カフカの目には常識の裏側で人々の葛藤が生き物のようにうごめく様がありありと見えていたのではなかろうか。

決めない力

 「職業としての小説家」の中で村上春樹氏は、小説を書く際には簡単に結論を出さないことが大切だと繰り返し述べている。理路整然とすばやく結論を導き出すのは小説の役割ではない。最終的には何か結論に達するにせよ、そこに至までの物語をいかに読ませるかが小説の醍醐味なのだ。ただ、村上氏にとって結論を出さないということはそれ以上の意味があるようである。

 彼の最初の長編小説、「羊を巡る冒険」のなかで、主人公の親友(の幽霊)が自分が死んだ理由を語る場面がある。彼は自分の弱さのために命を絶たざるを得なくなったと告白する。だが、読者はむしろそこに彼の強さを感じるのである。一見、弱さのように見えるものが実は強さでありその逆もある。村上氏が描くのは、そうした人間の心の微妙さなのだ。

 今の世の中はあまりにも早急に白黒つけたがるのではないか、と村上氏は言う。確かに犯罪報道などを見てみても、犯人を一方的に悪人に仕立て上げるようなケースが目に付く。また、われわれも自分の態度を決めなければならないような状況にしばしば直面する。世論調査にしろ何にしろアンケートでは限られた選択肢の中からどれかを選ばなければならならず、Facebookでは「いいね!」の選択を常に迫られている。

 だが、もともと人の心などというものはそう簡単に白黒つけられるものではない。それをあえて分類したがるのは、複雑な人間の心理を単純化することで情報として利用しやすくするためだろう。われわれはいつの間にか白と黒の中間が許されない社会に生きる羽目になっているのだ。

 すぐに結論を出す必要に迫られることは世の中にそれほど多くはないはずだ、と村上氏は言う。もちろん、日常の仕事を思い浮かべれば何事にも早急な判断を求められているように見える。だが、それはそういう仕組みに身を置いているからであって、一歩引いて考えてみれば、本当に大切な事なのかどうか確かにかなり疑わしいのである。

 村上氏の小説の主人公は何かを決めつけることがない。結論が一見明らかな場合でも明確な判断を避ける。そして曖昧な状態を抱えたまま辛抱強く期が熟すのを待つのである。結論を出すのは簡単だ。だが、その瞬間、ものごとの本質は覆い隠され、永遠に葬り去られてしまうかもしれないのだ。

 人間の心の深みを描くために、村上氏は自らの心の闇に降りて行く必要があると言う。そこから持ち帰ったものを養分にして小説を書いているのだ。そのため彼は身体の鍛錬を怠らない。自らの心の闇と対峙するのは強い精神力を必要とし、それを支えるためには強靭な肉体が必要だと強調する。

 村上氏の小説の読者の多くは、現代社会の中で無闇に決断を迫られることにより生じた心の歪みが、彼の描く決めない力によって次第に癒やされ恢復していくところに惹かれているのではないだろうか。

村上春樹と死と意識

 自分の意識は死ぬとどうなるのだろうか。その疑問に対してヒントを与えてくれるのが、村上春樹氏の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だ。

 この小説では、「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」というまるで異なる別々の話が交互に進行して行く。「ハードボイルドワンダーランド」の主人公は、人間の脳を用いたデータの暗号化を行なう「計算士」になるために、ある博士が考案した脳手術を受ける。だが、予期せぬアクシデントから、彼の意識はある時刻になると彼の中にあるもう一つの別の意識、つまり“世界の終わり”に移行してしまい、彼の現在の自我は消滅してしまうことになったのである。

 意識がなくなれば、肉体も間もなく死ぬことになる。となれば別の意識もなくなりそうだ。だが、博士によれば、この“世界の終わり”において彼は永遠に生きていくことができる。なぜなら、そこは思念の世界であり時間の進み方が異なるからだ。つまり、ある時刻に肉体が死ぬとすると、思念の世界では、まずそこまでの半分だけ時間が経過する。次の瞬間には、さらに残りの半分が経過する。それをいくら繰り返しても永遠にその時刻に達することはない。このゼノンのパラドックスにより“世界の終わり”においては時間は無限に引き延ばされ、肉体が滅びる前のわずかな時間に彼は永遠の人生を生きることになるのだ。

 一見、荒唐無稽に見えるが、これは人が死ぬと意識がどうなるかという疑問に対する村上氏の一つの回答ではなかろうか。一般的には人は死ぬと意識がなくなるとされ、死後の世界を考えるのは非科学的だとされている。だが、実際に死んで意識の消滅を経験した人は誰もいない。そもそも意識がなくなるなどと気軽に言うが、自分の意識がない状態を意識することなど不可能なのだ。

 死ぬと意識はなくなるという考え方は、恐らく村上氏にも素直に受け入れられるものではなかったのだろう。そこで彼は人は死をを迎える瞬間に別の意識に移行するのではないかと考えた。もっとも、正確に言えばその移行は死ぬ直前に起こり、第2の意識はあくまでも脳によって生じることになっている。外から見れば、死の直前に本人が見る一瞬の幻覚のようなものだ。だが、当人に取ってはその一瞬のうちに永遠の生を生きることになるのだ。

 ゼノンのパラドックスを持ち出したことは、村上氏の科学的な整合性への強いこだわりが表れている。彼は形而上学を避け、死後の意識を弁証法的に解明しようと試みたのである。

 主人公が別の意識に移行した後の話が「世界の終わり」である。そこでは村上氏独特の不思議な世界が展開して行く。城壁に囲まれ、住人のほとんどが心をなくした街で、過去の記憶を失った主人公はかつて人生で失ったものを何とか取り戻そうとするのである。

 死後の世界がどういうものなのかはわからない。だが、たとえ記憶は残らなくとも、現在の意識は何らかの形で次の意識に引き継がれて行くのではないか。それでこそ自分の存在は意味をもつのではないだろうか。

神経症的社会

かつて本と言えば文学作品を思い浮かべたものだが、最近、書店で目立つのはノウハウ本ばかりである。英会話や部下との付き合い方、頭の良い子どもの育て方から定年後の田舎暮らしまで、とにかく役に立つ本が目白押しである。

ノウハウ本を手に取る人は、一見、向上心の強い人たちに見える。だが、そうした本には、「簡単に身につく~」とか「15分で~」というようなフレーズがつきものである。読者は何とか楽をしてノウハウが身につかないかと期待しているのだ。競争社会にあってノウハウを身につけることで少しでも有利な立場に立ちたいという強迫観念と、しかし苦労はしたくないという気持ちの妥協点にノウハウ本は存在するのである。

一方で先日出版された村上春樹の新刊には書店で長い列ができた。村上氏の世界はノウハウとはまさに対極にある。主人公は、困難に直面してもそれに立ち向かうノウハウなど持たない。ただただ困難と向き合い、結末に至っても答はでない。ノウハウに従って生きることのつまらなさを村上氏はよく知っているのである。巷に溢れる過剰なノウハウにうんざりとした読者が、村上氏の世界に求めるのは、自分の心の鼓動を感じるための静寂だろうか。

ところで、かつてスポーツの世界では今よりはるかに根性が重んじられていた。しかし、さまざまな科学的トレーニングが導入されるにつれて、根性と言う言葉はすっかりすたれてしまい、むしろ非科学的で無茶な練習を連想させるというネガティヴな印象すら持たれるようになった。苦労して根性を鍛えるより、すぐれたトレーニング方法を身につけるほうが上達が速いとなれば、どうしてもそちらに逃げようとする。しかし、スポーツの目的は上達することだけではない。スポーツを通して人間的に成長することが何よりも大切なのだ。もしそれがなければ、たとえオリンピックで金メダルを取ったところで何の価値があろうか。だが、実際にはドーピングしてまでも勝とうとする選手がいる。いつから勝つことが自己の成長より優先してしまったのだろう。根性の軽視と無関係とは思えないのだ。

科学技術の進歩で、人々は次第に精神的にも肉体的にも苦労することなく生活できるようになった。特に最近では、それまでさして不便だと感じていなかったところにも無理やり不便さを見出し、新たな便利さを押し付けてくる。かつては、苦しんだ分だけ強くなるといわれたスポーツの世界でさえ、困難に立ち向かう姿勢は変わろうとしているのだ。だが、必要以上の便利さは、かえって人間の成長を蝕むのではないだろうか。人類はどこかで、越えてはならない一線を越えてしまったのである。

人間的な成長がなければ感動や喜びも小さく、わずかな困難にも大きなストレスを感じるようになる。今や社会全体がそうした神経症に苛まれ、さまざまな社会問題が噴出しているのだ。だが、対策は常に小手先の症療法ばかりである。しかし、本当に必要なのは、利便性への誘惑を絶ち、自らの生命力を鍛え直すことではないだろうか。

村上春樹の世界

ベッドに横になり、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいるとき、「これは作り話なんだ」と言い聞かせつつ、同時に「だが、人はいつかは死ぬ」と呟いている自分に気がついた。村上春樹の世界は、一見、非現実的見えるが、「死」を連想してみるとそのリアルさが浮かび上がってくる。死は誰にでも訪れる現実なのだ。

世の中、わかりやすい話が通りやすい。犯罪者を善悪だけで判断するのもその典型だ。殺人者がいかに悪い人間であるかを暴き立てれば、世間はすぐに受け入れる。しかし、人の心はそう単純ではない。そうした態度は、人間の本質を隠してしまう。しかし、へたに口を開けば誤解されかねない。わかりやすい話を恐れる村上氏にとって、多くの紙面を費やせる小説は、自らを表現するための唯一の手段なのだ。

村上氏の小説の主人公は共通して何か悩みを抱えている。うまく行っていると思っていた妻が突然家を出て行く。誠実に生きてきたつもりなのに、知らぬ間に人を傷つけ、遠ざけてしまう。自分には何かが欠けていると自覚しているが、それが何なのかわからない。しかし、彼は自分を変えるつもりはない。これまで自分に正直に生きてきたのに、それを変える理由がないのだ。

こうした主人公は皆、共通したライフスタイルを持っている。きれいに片付けられた部屋。きちんとアイロンのかかったシャツ。ビールやウイスキーには有り合わせの材料で手早くつまみを用意する。音楽の趣味は非常に広く、常にプールやジムで体の鍛錬を怠らない。しかし、これらは何も作者が自らの趣味を自慢しようとしているわけではない。こうした生活は、来るべき試練にそなえて、主人公が意識を研ぎ澄ませ自己を確認するために必要不可欠なものなのだ。

戦闘準備を整えて彼はじっと待つ。だが、彼には策は何もない。彼にできるのは偶然に身をまかせることだけなのだ。解決策は見えぬまま、さまざまな出来事が彼を翻弄し追い詰める。だが、結末に至っても、結局、明確な答は出てこない。彼の苦労は徒労に終わったのであろうか。そうではない。何かが変わった。彼は確かに何かを乗り越えたのである。

村上氏の作品を読んで行くうちに、日頃から「何とかしなければ」と思っていた無数の悩みから自分が少し開放されていることに気がついた。生きていれば判断に苦しむことが無数に起こる。生きるということは次々と葛藤を抱えていくことなのだ。そうした中ですばやく決断できる人が優秀だと称えられる。しかし、社会はそれを求めても、人間にとってそれが理にかなっているとは限らない。恐らく僕は、判断できないことは判断しなくてよいということに無意識のうちに気がついたのだ。

今や世界中で広く受け入れられている村上文学だが、これまで多くの誤解にさらされて来たに違いない。しかし、誤解を恐れず挑戦し続けたからこそ、今や同じ誤解に悩む多くの現代人が彼の世界に救われているのだ。村上氏の勇気を称えたい。