日本の持ち味

 サッカーワールドカップにおける日本チームの活躍が久しぶりに日本中を沸かせた。世界との差がまだまだ大きい中であれほどの活躍ができたのは、日本の持ち味を最大限に発揮できたからに他ならない。弱みを最小限に抑え、強みを最大限に生かせば、世界を驚かすパフォーマンスも夢ではないことを証明したのだ。実戦でみごとに結果を出した岡田ジャパンは、サッカーに限らず日本が世界とどう戦っていくべきか、その術を示してくれたような気がする。

最近の日本は、かつて世界を席巻した工業力に陰りが見え始め、焦りと自信喪失に浮き足立っているように見える。もともと日本の工業製品には日本人の気質が強く反映されてきた。その競争力の源は、絶え間なき改善とユーザーの立場に立った徹底的な気配りであり、それが自動車をはじめ日本の工業製品を世界一のレベルにまで高めたのである。工業製品はまさに日本の持ち味の結晶だったのだ。

しかし、バブル崩壊後、多くの日本企業はコストダウンのために生産拠点を海外に移し、部品も世界中から調達するようになった。その結果、愚直な品質改善に取って代わり、いかに効率的にコストダウンするかが課題となった。グローバル化の名の下に行われたそうした方向転換は、日本人本来の持ち味を発揮する場を次第に奪って行った。コストダウンばかりを追及するうちに、魅力あるサービスや製品を生み出す力は衰え、製造業は底なしのデフレスパイラルに落ち込んでしまったのである。

日本の環境技術は世界をリードしているとか、マンガは日本発のグローバルスタンダードだという声を、最近、よく耳にする。何とか自信を取り戻そうと、自分を鼓舞しているのだろう。確かに、早くから環境に対する厳しい規制を自らに課してきたことにより日本の環境技術は進歩してきた。マンガには日本人独特の感性が凝縮しており、世界中に大きな影響を与えている。工業だけでなく、さまざまなところに日本の持ち味は発揮されているのである。しかし、工業はだめでも環境やマンガがある、と言うわけには行かない。環境分野には永年のアドバンテージがあるものの、そんなものはすぐに追いつかれてしまう。工業がダメなら、結局、環境もダメだろう。マンガはそもそも産業として工業の代わりになるようなものではない。環境技術もマンガも、日本人の持ち味を改めて見直すには良い例だかもしれないが、過去の遺産に頼っていても未来は開けない。

サッカーに限らず、持ち味を発揮することは簡単ではない。結局のところ、常に自分の持ち味を意識し、それをどのように生かすか悩み続ける以外に方法はない。そして、一人一人が自分の持ち味を出し切った時、勝利とともに何ものにも換えがたい充実感を手にすることができるのではないだろうか。

グローバル化とは世界の後追いをすることではない。日本が自分の持ち味を生かせるようになったとき、初めてグローバル化したと言えるのである。