エントロピーと時間

 ニュートンは、時間は宇宙のどこでも均一に過去から未来へ流れていると仮定したが、彼が発見した運動方程式は時間に対して対称になっている。つまり、運動方程式から導かれる現象が過去から未来へ向かっているのか、あるいはその逆なのか区別できないのである。この事情は相対性理論や量子力学に至っても変わらない。一方、日常を映したビデオを逆回しにすれば、われわれはすぐにそれに気がつく。過去と未来は対称ではないのだ。この時間の矢の問題は、物理学における永年の謎となっている。

一方で物理学の一分野で気体のような膨大な分子の集合体を扱う熱物理学においては、時間の向きを定める指標がある。エントロピーである。エントロピーとは平たく言えば乱雑さの度合いである。例えば水にインクを入れてかき混ぜると、水とインクが分離している状態よりも混ざり合った状態のほうが、より乱雑な状態といえるだろう。そして、一旦混ざってしまった水とインクが、再度分離することはない。つまり、自然界の現象は乱雑さが増す方向、つまり、エントロピーが増す方向に進む傾向があるのである。

 覆水盆に帰らずというが、一旦起きたらもとに戻らない現象は日常に溢れている。それらを注意深く観察してみると、必ずエントロピーが増大していることがわかる。われわれは日常において、エントロピーが増大するような現象、すなわち乱雑さが増す現象を自然だと感じるようになっている。つまり、エントロピーが増大する方向こそが時間が流れる方向だとわれわれは感じているのである。

しかしながら、何ゆえエントロピーは増加するのであろうか。水とインクを混ぜるということは、インクの分子と水の分子が容器の中である配置を取るということである。この配置にはものすごい種類の組み合わせがあるだろうが、全組み合わせの中でインクと水が整然と分離している場合は相当特殊だろう。こうした状態が起きる確率は、均等に混じる場合の確率に比べて極めて小さい。これは計算によって確かめることができる。つまり、エントロピーが高い状態は、確率的により安定な状態なのである。

しかし、もともと運動方程式で時間の向きが決まらないのに、どうしてエントロピーはそれを決めることができるのだろうか。それは、運動方程式では粒子の運動を一意的に決めてしまい確率の入る余地がないのに対して、一方の熱物理学では、確率的に起こりやすいことが起こるという前提に立っているためである。両者の間には論理的な飛躍がある。

実はこの問題はさらに深い謎をはらんでいる。もし運動方程式からエントロピーの増大が説明できたとすれば、エントロピーもまた時間に対して対称な物理量になってしまい、時間の進む方向については何も言えなくなってしまうだろう。物理学にとっても、時間は相当厄介な問題なのである。

物理学におけるHOWとWHY

 20世紀初頭、物理学の世界では量子力学が出現し、原子レベルのミクロの現象が非常によく説明されるようになった。その結果、光は何なのか、なぜ金属は電気を通すのに水晶は通さないのか、あるいは、なぜ鉄は磁石にくっつくのか、なぜガラスは透明で金属はぴかぴかしているのかなどなど、さまざまな身近な現象も目からうろこが落ちるように理解できるようになった。さらに量子力学は、半導体に代表される人工的な材料の発明を可能にした。それがトランジスターのような素子開発につながり、さらにはテレビやコンピューターなどを次々と生み出して、現代のIT社会を造り上げたのである。

ただ、そうした大成功の裏で、物理学は不確定性原理、つまり粒子の位置と運動量(速度)を同時に正確には予測できないという制約を科せられることになった。今、目の前にあった電子が、次の瞬間には宇宙のどこにあるのかわからない。確率はわかるが、調べてみなければわからない。そんなことになってしまったのである。予測するのが商売である物理学にとっては、看板に偽りありである。それ以来、物理学者は、ずっとこのジレンマに悩まされ続けることになったのである。

不確定性原理は、理論的に導かれるものではなく、実際に電子などの振る舞いから出て来た制約である。そして量子力学は、その実験事実を満たすように作られたのである。しかし、なぜ不確定性原理が存在するのであろうか。実は物理学の世界では、この質問はタブーとなっている。事実がそうなのだから、そんな疑問は持ってはならないと戒める人もいる。ミクロの世界では、日常的な常識が通用しないのは当たり前だと言うわけだ。

確かに量子力学は大成功し、科学技術の飛躍的な進歩を可能にした。それとともに、当初は量子力学に異論をとなえていたアインシュタインのような人々も次第に姿を消し、物理学者はその気持ち悪さから目をそらすようになった。しかしながら、その有効性はともかく、この宇宙の基礎をなす理論が、そんなもどかしさを残したままで良いのだろうか。

物理学はHOWの学問だと言われてきた。これは、物理学の創設者、ニュートンが万有引力の法則を発見した際に、「なぜ、万有引力は存在するのか」という疑問を自ら封印し、物体の運動をいかに記述するかにとどめたことに始まる。なぜそうなっているかは、「神のみぞ知る」と言うわけだ。それ以来、物理学は数学を用いて自然現象をいかに(HOW)記述するかに努めて来た。量子力学の構築も、その典型的な例と言えよう。しかしながら、HOWに答えられれば、WHYは無視してもよいと言うことではない。ニュートンは、HOWの手法、つまり科学的な方法によって、ギリシア哲学以来のWHYのアプローチを超え、より深い自然の理解に到達したが、同時にそれはWHYに対しても大きな説得力を持っていたのである。

量子力学はHOWに対してすばらしい答えを出してきた。しかし、依然としてWHYに対して納得のいく答えを出せないとしたら、自然の根本を記述し、すべての科学の基本となる理論としては、やはり不十分だと言わざるを得ないのではないだろうか。

確率と物理学

天気予報で降水確率30%と言われても、傘を持っていくべきかどうか判断しかねる。確率は数値で示されるため、一見、客観的な指標であるかのように見えるが、それをどのように利用するかは各人の主観的な判断に委ねられているのである。

ところが、最も客観性を重んじる学問である物理学においても、実は確率が用いられている。相対性理論と並び現代物理学の基礎を成す量子力学の世界では、現在から導かれる未来は1つではなく、特定の確率でさまざまな現象が起こり得るのである。しかもそれは原理的に避けられないことなのだ。

ニュートンはかつて運動方程式を解くことにより天体の運行や木から落ちたリンゴの動きを正確に予測できることを示した。そして、それ以降、永年に渡って物体の運動は物理法則にしたがって正確に予測できるものと信じられてきた。しかし19世紀後半になって発見された原子レベルのミクロの世界の現象は、ニュートンの古典物理学では全く説明できなかった。これを解決したのが、20世紀初頭に誕生した量子力学である。しかしこの理論は古典物理学に深刻な修正を迫ることになった。古典物理学では正確に予測できたはずの物理現象が、量子力学では確率的にしか予測できなくなったのである。これに対して、かのアインシュタインも、「神様はサイコロを振らない」と反論し、ついに死ぬまで量子力学を認めなかった。自然を厳密に記述すべき物理学において、何が起きるかはっきり予測できないようなものは理論とは言えない、というのが彼の信念であった。

しかしながら古典物理学でミクロな世界の現象を説明できないことは厳然たる事実であった。例えば、原子では原子核の周りを電子が回転しているが、古典物理学によれば電磁波を放射し、あっという間にエネルギーを失って原子核に落ち込んでしまうはずである。つまり原子自体が理論的に存在不可能なのである。これでは話にならない。新たな理論は、電子が原子核に落ち込まないという結果を導くものでなければならない。ところで、古典物理学において未来が正確に予測できたのは、物体の位置と速度(運動量)を同時にかつ正確に決定できるとしてきたからである。では、もし電子の位置と速度の間に一定の関係を持たせ、両者を同時に正確には決定できないように制約を課したらどうなるだろうか?これではもちろん正確な予測はできなくなる。しかし、一方で電子が原子核に落ち込むことにより、その位置と速度が正確に決まってしまうようなことは起こり得なくなる。つまり、正確に予測することを放棄することで、原子は潰れることを免れるのである。この位置と速度を同時に正確には決定できないという制約を、量子力学の創設者ハイゼンベルクは「不確定性原理」と呼んだ。そして不確定性原理のもとに構築された量子力学は、古典物理学が抱えていた矛盾を次々と解決することに成功したのである。

量子力学の予測が確率的であることは、アインシュタインをはじめ多くの物理学者を苛立たせ悩ませてきた。にもかかわらず、未来を正確に予測できないことが、この宇宙を成り立たせるための不可欠な条件であることも、紛れもない事実なのである。