中学の頃

 昨年中学に入った長女のこの一年は、けっして平坦なものではなかった。いつもぎりぎりのところで何とか乗り越えてきたが、その都度、必ずと言っていいほど親に当り散らした。そんな彼女に、いつしかかつて自分の中に渦巻いていたものを感じるようになった。記憶は蘇り、当時の自分を映画で見るような妙な錯覚を覚えるようになったのだ。

中学に入ってしばらくすると、僕はいつの間にかすっかり漫画に夢中になっていた。学校の帰り道に貸し漫画屋さんがあって、借りてきては毎日取り憑かれたように読んだ。漫画の多様な世界は、あたかも渇いた体が水を求めるように無条件で吸収されていった。それまで優等生に収まっていた僕にとって、漫画を読むことは一種の反抗だったのかもしれない。しかし1年ほどして、店にあった何百冊もの漫画をほとんど読みつくしてしまったころ、突然、ぱたりと読むのをやめてしまった。漫画から得られる充実感に限界を感じたのだ。取って代わって僕を捕らえたのはベートーヴェンの音楽だった。そこには漫画にはない高度で深い世界があった。その聴き方は音楽を楽しむというより、音によって心の中に描きだされる世界をむさぼるように感じ取ろうとするものだった。人生で初めて、絶対的に信じられるものに出会った気がした。そしてその感動は、僕の心に何かを成し遂げなければならないという強烈な使命感を呼び起こした。200年の時を経て、シュトゥールム・ウント・ドランクの嵐が僕の心の中にも吹き荒れたのである。

一方で、僕は当時、「ラプラスの魔」に悩まされていた。宇宙の全ての原子は物理法則に支配されており、従って全ての事象はその法則にしたがって進行する。人が何を考えても、それ自体が物理的な帰結であり、「意思」は決して物理法則を超えることはできない。ニュートン物理学の継承者、ラプラスが描いたこの決定論的世界観は、ベートーヴェンによって引き起こされた使命感と真っ向から対立した。もともと論理的に考える癖のあった僕は、容易に逃れられないジレンマに陥っていたのである。

そんなことにばかり悩んでいたので、成績はぱっとしなかった。親から、「勉強しろ」と叱咤が飛んだのも当然である。それに対して、「勉強の前提として、生きる目的を解明する必要がある」と泣きじゃくりながら主張する僕に、親は相当手を焼いたことだろう。勉強など、言われなくても分っている。その前に、何故おとなは子供にとって大切なことに無頓着なのか。その鈍感さが我慢ならなかったのである。

この春、次女も中学校に入学した。彼女はこの一年間、変っていく姉と悩める親を冷めた目でじっと見てきた。彼女もまた親の想定を超えたことを言い出すのだろう。しかし、こちらは度胸を据えて見守るしかない。なぜならそれこが子供の成長の証なのだから。