米野の風景

 かつて僕が住んでいたのは、名古屋駅から近鉄で一駅目の米野という所だった。しばらく前にGoogle Mapの航空写真でこの辺りを見ていると何やら奇妙な建造物が見つかった。米野駅のすぐ脇を起点とし、近鉄や関西本線の線路を一気に跨ぐ橋が架けられていたのだ。全長はゆうに100m以上ある。歩道橋だと思われるが、それにしては巨大だった。

 この辺りは戦時中の空襲を逃れたエリアで、いまでも古い平屋が所々密集し、自転車も通りづらい狭い路地が入り組んでいる。かつては活気のあった商店も名古屋駅周辺の巨大商圏に圧されて立ち行かなくなって久しい。だが、地元地権者の利害が絡み合って再開発もままならずエアポケットのように取り残されてしまっている。このところ名古屋駅周辺に高層ビルがいくつもでき、その落差はさらに拡大した。そこに突如現れた巨大歩道橋。何かこの辺りにも変化の兆しがあるのだろうか。この目で確かめたくなり、帰省した折に訪ねてみた。

 歩道橋の登り口に着くと自転車が何台も乗れるような大きなエレベーターがあった。驚いたことに、そこは子供のころ親しんだ白山神社があった所だった。神社は道を隔てた狭い場所にひっそりと移設されていた。エレベーターに隣接するその一帯は工事用の白いフェンスですっかり囲まれている。ショッピングモールでもできるのだろうか。

 歩道橋に登ると名古屋駅方面と我が米野の町の対照的な風景が一望できた。両サイドを透明なプラスティックで覆われたその橋は、何か未来へのトンネルを思わせた。橋の向こう側に着くと、そこには真新しい鉄道の駅があった。《あおなみ線 ささしまライブ駅》。いつの間にこんな鉄道ができたのだろうか。橋の向こう側はかつて貨物線の名古屋駅があった所だ。今は更地となった広大な跡地では、すでに何やら大規模な工事が始まっていた。

 橋を引き返し再び米野に戻ると、ちょうど母から電話があった。「米野におるんだったら、秋田さんのおじさんに挨拶してったりゃー」と言う。秋田さんというのは、子供の頃通っていた秋田理容店のことだ。だが、行ってみると店は日曜なのに閉まっていた。しばらく写真を撮っていると近所からおばさんが出てきた。「秋田さん、やめちゃったんですか」と尋ねると、「やっとるよ。そこに住んどるがね」と向かい側の家を指さす。振り返ると、2階から女の人達ががこちらを覗いていた。「杉山です」と挨拶すると、奥さんが窓から身を乗り出して、「写真屋さんの子か。弟さん?」「長男です」「ああ、やっちゃんか」と頷いている。「『あんまりうちの店が汚いんで写真撮っとるんだわ』と言っとったとこだが」などと話していると、玄関のドアを開けてひょっこりおじさんが出てきた。

 「おかあさん、元気かね。わたしはおんなじ81歳だが、まだ現役バリバリだで」と調子がいい。「店は一人でやっとるがね。馴染みのお客さんだけだが。今日は早めに閉めたんだわ。」昔、顔を剃ってもらったときのことなどを話すと、おじさんは嬉しそうに目を細めた。

 秋田さんと別れ、人気のない米野の町をぶらぶらしてみる。すると、かつて道端に机を出して将棋を打っていた頃の記憶が、鮮やかに蘇ってくる来るのだった。

自分作り

今年の6月、久しぶりに小学校の同窓会に出席した。最初の同窓会は20年前にあり、その後4年ごとに開かれているが、第1回、第2回と出席して以来、久しぶりの参加だった。第1回の時は少年時代の思い出と目の前の姿のギャップに戸惑わされたが、今回は16年経っている割には、皆、意外なほど変わっていなかった。とはいえそれは外見上で、30代だった前回と比べれば何かが大きく変わっていた。

当時は仕事においても脂の乗り切った時期で、子供も小さく、将来に向けてやる気と希望に溢れていた。会場では相手の話を聞くより、自分のことをまくしたてる姿が目立った。しかし、今や50代も半ばに差し掛かり、そうした気張りは影を潜めた。特に地元に住んでいる連中は、気の置けない幼馴染の集まりに何にも増して安らぎを感じている様子だった。中には親しさのあまり、しばらく前に喧嘩をして絶交中だなどという子供の頃さながらの話まであった。

そうした中で、僕はあることが気にかかっていた。長い年月を経て再会した友人たちのなかで話が面白いのは、必ずしもかつての優等生でも社会的に成功したやつでもないということだ。どちらかといえば問題児だったやつが、実に味のある人間になっているのである。

彼らは、その後、何か転機があって大成功したというわけではない。挫折はしょっちゅうのことで、人生譚としては特に人に自慢できるようなものでもない。しかし、眼の奥には何かきらりと光るものを持っているのだ。

かつて勉強ができ、有名大学に進み、その後も有名企業に就職して活躍している人の話はもちろんそれなりに面白い。彼ら優等生は人並み以上に努力し社会の要求に一生懸命応えてきた人たちだ。だが、彼らの口からはびっくりするような話はなかなか聞けない。

面白い連中に共通しているのは、自分の生き方に対するこだわりが強いことだ。彼らは社会に適合するよりも、自分の生き方を選んできたのだ。もっとも、若い頃から自分の生き方などわかるはずがない。むしろ社会に適合しようにもできなかったというのが正直なところだろう。周りから認められず悩んだ時期もあったにちがいない。彼らは自分の生き方が壁にぶつかるたびに、どこかで折り合いをつける必要があった。そうしたギリギリの選択を繰り返すことで、一歩ずつ自分を確立して行ったのである。

個性というのは人と違っていることと思われがちだが、それは表面的なことで、実はその人の内部に隠れていて、人生の時々で自分自身に選択を迫り、自分を形成していくための原動力なのである。

自分が本当の自分になるために積み重ねていく時間、それこそが人生なのではないか。何かを成し遂げることが重要なのではなく、挫折も成功も自分らしい自分になるための糧ではないか。自分は探すものではなく、作り上げていくものなのだ。

暗室のある家

子供の頃住んでいた家が、最近、建て直されたというので、この夏、帰省した折に見に行ってみた。名古屋駅から徒歩15分ほどのその辺りは、かつては下町らしい活気に溢れていたが、今では駐車場ばかりが目立つ、すっかり寂れた町になってしまった。

かつて僕の家はカメラ屋だった。店は自宅から少し離れたところにあったが、自宅の一部も父によって暗室に改造され、そこで写真を現像していた。

昼頃、小学校から帰ってくると、いつもちょうど水洗の最中で、午前中に現像された写真が入った水洗機の透明なドラムがザバッザバッと音を立てて回っていた。ドラムの回転にも水道の圧力を利用していたため、水は勢いよく跳ね上がり、水洗機の置かれた台所は、いつも少し定着液の臭いが残る水っぽい空気に満たされていた。

水洗が終わると、次は乾燥だ。玄関に置かれた乾燥機の幅1mほどの布製のベルトに写真を一枚ずつ載せると、高温に熱せられた直径60cmほどの鏡面仕上げのドラムに巻き込まれて行き、ドラムに貼りついて一回転すると、乾燥した写真が煎餅のようにドラムから自然に剥がれ落ちて来る。熱で焼ける香ばしい匂いの中で、写真は美しい光沢面に仕上がっているのだ。

乾燥を終えた写真は、最後に四辺の余分な部分をカットし、お客さんごとに仕分ける。たまたま、その時間に家にいると、叔父が嬉しそうに、「康成、手伝え!」と声をかけて来るのだった。

暗室は、玄関と台所を結ぶ廊下を遮光用の暗幕とドアで仕切って作られていた。引き伸ばし機で焼き付けられた印画紙を現像液に浸けると、数秒で像が現れ、1分後にはくっきりとした写真になる。真っ白な印画紙にボーっと人の姿が浮かび上がってくるのを、感光防止の暗い赤いライトの下で見ていると、その像がまるで生きているかのような妙な気分に襲われる。

ネガもまた不気味だった。現像すれば笑っている人も、ネガで見ると、どうしてもそうは見えない。ネガのなかには、実は異次元の空間があって、現実世界が凍結されているのではないか。暗室は、少年にとって、かなりミステリアスな空間だった。

当時はカメラの性能が悪く、露出がいい加減だった。叔父は、そうしたお客さんの失敗ネガを見て、永年の勘で、一枚一枚、焼き具合を加減していた。うちの店の写真の評判が良かったのは、そのためだった。

しかし、当時、暗室にはエアコンもなく、夏ともなると異常な暑さだ。また、毎日、暗室でピント合わせをしていると、数年で著しく視力が低下する。暗室作業は、かなり過酷な仕事だった。1970年代初頭、これだけの手間をかけても、白黒写真1枚で10円しか取れなかった。写真はカラーの時代に入りつつあった。しばらくすると、父もやむなく、現像を外注に切り替えざるを得なくなった。

 それから35年ほどの歳月が流れた。かつて自宅のあった場所に建つ小奇麗なアパートに住む人は、そこで毎日写真が焼かれていたことなど知る由もない。だが、当時うちで焼かれた何十万枚という写真は、まだ、多くの家庭のアルバムに残っているに違いない。そして、今でも自分で写真を焼く僕の胸にも、あの暗室のある家の記憶は綿々と生きて続けているのである。

餃子と運命/F君のこと・その2

 僕がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのは中学2年の頃である。しかし、当時、我が家にはステレオはおろかプレーヤー(電蓄)もなかった。あったのは、英語用に買ってもらったテープレコーダーのみである。しかし音楽ソースは何もない。そこで、誰かステレオを持っている人に頼んで録音してもらおうと思い付いた。近所のF君の家には、お姉さんがピアニストであったことからピアノ室があって、ステレオも完備されていた。たまにその部屋で大音響でクラシック音楽が鳴っていたのを思い出した僕は、まずF君に録音を頼むことにした。曲目はなんと言ってもクラシック音楽の最高峰、ベートーヴェンの「運命」である。

録音はある土曜日の午後、F君の立会いの下で行われた。しかし、もともとオーケストラの音をマイクで拾ってレコードに刻み、それをステレオで再生しているのに、その音をもう一度マイクで録音するという行為に対して、F君はいかにもドン臭いと感じたようで、当初からまじめに取り合ってくれていなかった。雑音が入らないよう体を硬直させ、息をこらす僕の横で、彼は悠々と昼飯を食べ始めたのである。しかも、実況中継でもするかのように、箸で餃子を摘み、わざわざ「ギョーザ!」と声を出してメニューを紹介する。さらに、雰囲気を出すためにマイクに向かってクチャクチャやり始める始末だ。冗談じゃない!僕のいらいらは頂点に達したが、文句を言えば録音されてしまうので我慢するより他はない。

 そうこうするうちに、第1楽章が終わった。だが、その途端、思わぬことが起こった。F君が、「終わったー!」と大声で叫び、レコードを止めようとしたのである。だが、曲はまだ終わっていない。事情のわからぬ彼に、今静かに流れているのは、4楽章のうちの第2楽章であることを説明し、彼にしぶしぶ録音の続行を承諾させたが、またしても余計な雑音が入ってしまった。

 そうしたやり取りは、時に音楽より大きな音で録音されてしまっている。ぴんと張り詰めた運命の主題が流れる中、それと全く関係なく餃子を食べるF君の姿がくっきりと浮かび上がるのである。だが、僕はこのテープを軽く100回以上は聴いただろう。完璧な形式の中で溢れ出すベートーヴェンの情熱と独創性に、僕はたちまち心を奪われ、心酔してしまったのである。しばらくすると、F君の雑音も慣れてほとんど気にならなくなった。

 その後、僕も親に頼んで高音質のラジオを買ってもらうと、FM放送からテープレコーダーに録音できるようになり、いよいよ本格的な音楽鑑賞が始まった。しかし、ある日、もっと良い音で「運命」を聞きたくなり、F君に例のレコードをステレオで聴かせてもらった。しかし、そこで流れてきた音楽は、かつて僕が録音したものと全く違っていた。ゆったりとしたテンポに重厚な弦の響き。この違いは何だ?なんとF君は、以前の録音の際に、33回転/分のLPレコードを45回転/分のSPモードで再生していたのである。

F君のこと

先日、中学生の娘たちが学校の友達のことを話すのを聴いているうちに、いつしか自分の子供の頃の友達、F君のことを考えていた。どうやらF君のような友達は、娘たちの周りにはいそうにもなかった。思えば、F君は実に稀有の友だった。

F君とは物心ついた頃からの付き合いだった。彼のお父さんは県立高校の校長先生で、家の中には何ともいえぬ高尚な雰囲気が漂っていた。一方、F君は8人兄弟の5番目で、家庭はに大家族独特の開放感が溢れていた。

F君の家は、僕の家から1分もかからないところにあり、せまい路地に面して玄関が2つある変わった構造の家だった。その左の玄関から入り、奥の梯子のような階段を登った屋根裏部屋がF君の部屋だった。彼は、そこで誰にも邪魔されず、マンガを読んだり猫と戯れながら過ごしていた。押入れには、チーズやジャムなどの詰め合わせがいっぱい押し込まれており、F君は時折それらの中から何かを引っ張り出してきては一口二口食べると、残りをあっさりゴミ箱に捨ててしまっていた。僕は、昼夜の区別なく、F君がいないときでもその部屋に勝手に上がりこみ、やりたいことをやっていた。

ある日、小学校から帰ってF君の部屋に行くと、薄っぺらなお菓子の箱の中で何かがごそごそ動いている。僕がギョッとしていると、F君は箱を少し開けて中身を見せてくれた。そこには、狭くて動きが取れないコウモリがもがいていた。夜中に猫がくわえて帰ってきたのだ。F君は猫使いのように猫の扱いには慣れていた。

F君と僕の性格は、正反対と言っていいほど違っていた。僕が内気な優等生タイプだったのに比べて、彼は頭の回転が速いいたずら小僧だった。小2のとき、僕の家で畳にこぼした大量の水を電気掃除機で吸い取って一発で壊してくれたことがある。彼は、しばらく我が家に出入り禁止になった。彼はその時すでに、何人かの友達の家に出入り禁止になっていた。それはひとえに、思いついたことはすぐに実行に移す彼の性格が原因だった。

F君の遊びに対するアクティブさは尋常ではなかった。彼は、毎週、かなり高価なおもちゃを買ってもらっていたが、新しいおもちゃを手に入れる度に、それを使ったユニークな遊びを次々と考案する。時には町内の子供を何人も動員することもあった。そして、遊び終わった後にはいつも、半ば壊れたおもちゃが残骸のように捨てられているのだった。

F君は当初、僕のことをドン臭い奴だと思っていたかもしれない。しかし、彼と夢中になって遊ぶうちに、僕もおもしろいアイデアが次々と浮かぶようになった。そして、中2のある日、「やると決めたことは、確実にやっていく奴だな...。褒めているんだよ」と、突然、彼が言った。いつしか彼も、僕を認めてくれていたのである。

もしF君が近所に住んでいなかったら、僕は自分のなかに隠れている創造性に一生気がつかなかったかもしれない。そして、その後の人生で、僕が常に独創性にこだわってきたのは、まさにF君と遊んだ日々があったからなのである。