宇多田ヒカル研究

先日、筑波大学の帰り、秋の気配が迫り来る広いキャンパスをバスが抜け、開通したばかりの筑波エクスプレスのエントランスに立ったとき、ふと、宇多田ヒカルの「ディープリバー」を口ずさんでいる自分に気がついた。自分が無意識に口ずさむメロディーが、案外その時の心理状態を絶妙に言い当てていて、なるほどと手を打つことは珍しくない。ところがその時は、この曲が湧き上がらせる独特の印象が鮮やかに心に残っているのに、なぜそれを口ずさんだのか、うまく言葉で説明できないのである。

オートマティックなどの大ヒット曲を擁した彼女のデビューアルバム「ファーストラブ」が、あまりにもセンセーショナルだったため、宇多田ヒカルというと未だにこのアルバムを思い浮かべる人も多いが、彼女の音楽はその後も止まることなく進化を続けている。そして彼女が結婚した19歳のときに発表された3枚目のアルバム「ディープリバー」で、彼女の新たな才能が花開くことになるのである。

もとより彼女の音楽の魅力はその即興性にある。しばしば見せる急激な音程の立ち上がりは、ノリに任せたアドリブでなければ決して出てこない。それがまた、彼女の音楽をポップでおしゃれに仕上げてもいるのである。「ディープリバー」ではそれがさらに進化して、それまでなかなか感情について来なかったメロディーが、彼女の心の叫びを自在に歌い始めたのだ。強力な磁場のように聴くものを捕らえて離さないそのメロディーは、宇多田ヒカルという個性と何度も共鳴して生まれたものなのだ。

恋に破れ、傷ついてもなお、その恋のときめきを否定しない。喜びも絶望も、恋であり人生なのだ。彼女の歌は、悲痛ななかにも常に前向な意思を見せる。傷ついた瞬間も、幸福をあきらめることはないし、幸福の絶頂に潜む不安のなかでも、堂々と胸を張り、前を見続ける。それは強がりでも負け惜しみでもない。幸福とか不幸とかいうものは、決して到達点ではないのだ。自分を信じ、時に自分を励まし、前を見て進む。彼女の歌は、常にそんな響きに包まれている。

陰と陽が絡み合う彼女の音楽は、聴くものの心の深い部分に入り込み、眠っていたものを呼びさまし、予想もしなかった感情を引き起こす。それは懐かしさにも似ているが、決して感傷的ではない。言葉にならないのは、むしろ当然なのかもしれない。

もっとも、この天才歌姫にとって、自分の歌の面倒臭い分析などどうでも良いに違いない。彼女の目は未来を見つめている。そんなの当たり前ジャン!彼女は、ポンと肩を叩いて走り去っていくだろう。頑張って!と言い残して。

発想の転換

先日、ピアノの練習で画期的な進歩があった。僕は昔から、譜面を睨んだまま、できるだけ手元の鍵盤は見ないで弾くようにこころがけてきた。大人になってから自己流でピアノを始めたため、それが正しい練習方法だと信じてきたのである。しかし、音程が大きく飛ぶような場合、鍵盤を見ないとどうしても音をはずすことが多くなる。先生は、そうしたときだけ手元を見るように勧めるのだが、永年見ない癖がついているので、下手に見ようとすると余計に間違える。先生と対策を練った結果、思い切って暗譜してみては、ということになった。譜面を全部覚えてしまえば、後はずっと鍵盤を見て弾けばよい。しかし、子供にとっては発表会の前に必ずする「暗譜」という作業を、僕は一度もしたことがなかった。案の定、やってみると大いに戸惑った。譜面を睨んで指の位置を探るのと、音を覚えて鍵盤を見て弾くのでは、全く異なる作業である。そもそも鍵盤を見て弾けば、間違えないのは当たり前ではないか。これでは練習した気がしない。満足感がないのである。

ところが、暗譜を始めるとすぐに思わぬことが起こった。単に音をはずさなくなっただけでなく、演奏が急に表情豊かになったのである。これには先生も驚いた。それまではどうやら、譜面を見て指に指示を出すのに、脳の全パワーを使い切っていたようである。簡単なところは問題ない。しかし、弾きにくい箇所に差し掛かると、指で鍵盤を探ることに集中しなければならない。肝心の音楽がお留守になるのは、考えてみれば当然のことである。傍で聴いていた先生は、僕の演奏が時として急にぶっきらぼうになるのになんとも言えぬ違和感を覚えていたようである。何かが欠けている。しかし、その何かが鍵盤を見るなどという初歩的なことだとは思いもよらなかったのだ。最近では、ピアノを弾く際、今まで感じたことのない音楽の豊かさを感じるようになった。一つ一つの音に気を配るようになり、フレージングは滑らかに、かつダイナミックになった。演奏に表情がないという永年の課題に対して、思わぬ形で大きく前進したのである。

一生延命やっているのに、なかなかいい結果がでない。今度こそ頑張ろうとよりいっそう努力はしてみるが、結果はやはり芳しくない。そうした場合、本人は自分なりに工夫しているつもりでも、実は根本的な問題には手がついていない場合が多い。永年やってきた自分のやり方に慣れ、工夫の仕方がいつしかパターン化しているのだ。実はそうしたことが知らず知らずのうちに自分の可能性を狭めているのではないか。無闇に頑張るだけでなく、たまには立ち止まって発想の転換を図ってみてはどうだろうか。

大人のピアノ

 昨年のクリスマスの夜、人前で初めてピアノを弾くことになった。曲目はモーツアルトのピアノ協奏曲第23番の第1楽章。もちろんオーケストラではなくピアノの伴奏だが、初めての演奏会にしてはなかなかの大曲だ。いや、私の力を知っているものは皆思ったであろう、無謀だ!と。なにしろ私がピアノを習い始めたのは40歳を過ぎてからなのだから。本番は緊張でがちがちで、とても人様に聴かせられるレベルではない。しかし、舞台に立った15分間は、実に多くのことを教えてくれたのである。

 演奏会のプレッシャーは大きく、毎日、駆り立てられるように練習した。年末で仕事も忙しく、夜中の1時過ぎまで弾くことも珍しくなかった。おかげで本番直前にとうとう指を痛めてしまい青くなったが、不思議と疲れていても練習は苦にならなかった。もっと気楽にやれば、と言う人もいたが、本人はいたって充実しているのだから仕方がない。

何がそんなにおもしろいのか。好きな曲ほど意欲が湧くのは、音楽の持つ魅力に引っ張られている証拠であろう。演奏すると、聴くだけではけっしてわからないバッハやモーツアルトの世界が見えてくる。彼らの崇高な世界に一歩近づくことができるのである。

だが、これだけ夢中になれるのは、どうもそれだけではなさそうだ。練習自体が面白いのである。自分なりにいろいろ工夫して、弾けないところが弾けるようになっていくのが楽しくて仕方がないのである。弾けば弾くほど引き込まれていく中毒状態で、まさか命を縮めることもないだろうが、少し怖くなることもある。

ところでピアノの練習は指を鍛えていると考えがちだが、実は脳の鍛錬である。もちろん成長途上の子供の筋肉や骨格は、永年の練習によってピアノに適したものになっていくのであろうが、毎日の練習レベルで弾けないところが弾けるようになるというのは脳の学習による。練習とは指を動かすプログラムを脳に書き込んでいく作業なのである。

ただし、このとき主役となるのは大脳ではなく小脳である。小脳は運動能力、技術といったものをつかさどる場所である。体が覚えている、という言い方は小脳の働きを特徴的に言い表したものである。そして言語を習得する能力と同様に、この小脳の働きも子供のほうが大人よりずっと優れている。悔しいが、わが娘を見ていると納得せざるを得ない。しかし、大人だからそこそこ弾ければいいではないか、と言われるのも悔しい。小脳はともかく、大脳の働きは経験豊かな大人のほうがずっと優れているはずだ。そもそも音楽的な表現は大脳の役割である。練習を工夫しさえすれば、働きの弱った小脳を補えるに違いない。

しかし演奏会では、結局、自らの小脳の弱さを痛感する結果となった。練習のとき間違えたことのないような箇所でつぎつぎとミスが出る。どうやら、緊張すると大脳はうまく働かないらしい。練習では小脳への不完全な書き込みを大脳がカバーしていたのだ。しかし、そう気がついたのは本番の真っ最中で、すでに手遅れだったのだ。