心の住みか

 10年ほど前に家を建てようと思ったことがある。どうせ建てるなら、山から自ら材木を調達し、とにかく無垢の木と石をふんだんに使って、自然素材に抱かれる家にしたいと思っていた。しかしこの計画は、処事情により宙に浮いてしまい、結局、今だに賃貸マンション暮らしを続けている。すでに土地があることもあり、ずっとマンションを買うことなど考えたことがなかったのだが、最近、この十数年の間に払った家賃が馬鹿にならないことに気が付き、ふと、中古の分譲マンションでも探してみようかという思いが浮かんだ。試しにインターネットで検索してみると、案外、手の届きそうな物件がちらほらある。さっそく不動産屋さんに頼んで、いくつかの部屋を見せてもらうことにした。

 家族で住む家は、僕一人の一存で決められるものではない。今住んでいる場所は、僕にとってはもともと縁もゆかりもない土地であるが、子供達にとって事情が違う。特に、現在通っている学校に、今後も無理なく通い続けることができるという条件は、彼らにとっては譲れないものなのだ。従って、まずエリアに大きな制約がある。さらに、広さ、間取り、日当たり、外観、セキュリティーなどの諸条件が、現在の賃貸マンションより改善しないと、家族は納得できないらしい。駅からあまり遠いのも困る。しかも、住居費が現在より下がらなければならないとなると、これはもう、そう簡単に見つからない。間取り図と地図をにらみながら悪戦苦闘する日々が始まった。

そんな矢先、TVで建築家の藤森照信氏を紹介する番組があった。氏はもともと建築史家であったが、15年ほど前に、ある資料館の設計を依頼されたのをきっかけに、設計を手がけるようになった。徹底的に自然素材にこだわる氏の建物は、現代のモダニズム建築とは全く逆を行く。縄文人はかつて、竪穴式住居のなかで、どんな気分で暮らしていたのだろうか?住居が持っていた、原始的な肌触りを現代の建築に取り入れたい。氏の思いはひたすら非工業的なものに向いて行く。その結果、住居の壁や屋根一面に植生を生やし、毎日の水遣りを欠かせばたちまち枯れてしまう住居ができあがる。果たして住みやすいかどうかは疑問である。しかし、そこでは家は単なる「箱」ではない。家自体と強く係わるうちに、ついにはそこに住む人の心に棲みついてしまう、そんな家なのである。

藤森氏によれば、人は自分が生まれ育った家や路地などを前にしたとき、最も強く「懐かしい」という感情を抱くそうである。家は、知らず知らずのうちに、そこに住む人の心に深く入り込んでいるのである。今回、いろいろ観てみて、分譲マンションと言えども、それぞれ個性があり、驚くほど違った印象を覚えた。今回のマンション巡りは、どうやら我が家のメンバーが、自らの心の住みかを探す出発点になりそうである。

発想の転換

先日、ピアノの練習で画期的な進歩があった。僕は昔から、譜面を睨んだまま、できるだけ手元の鍵盤は見ないで弾くようにこころがけてきた。大人になってから自己流でピアノを始めたため、それが正しい練習方法だと信じてきたのである。しかし、音程が大きく飛ぶような場合、鍵盤を見ないとどうしても音をはずすことが多くなる。先生は、そうしたときだけ手元を見るように勧めるのだが、永年見ない癖がついているので、下手に見ようとすると余計に間違える。先生と対策を練った結果、思い切って暗譜してみては、ということになった。譜面を全部覚えてしまえば、後はずっと鍵盤を見て弾けばよい。しかし、子供にとっては発表会の前に必ずする「暗譜」という作業を、僕は一度もしたことがなかった。案の定、やってみると大いに戸惑った。譜面を睨んで指の位置を探るのと、音を覚えて鍵盤を見て弾くのでは、全く異なる作業である。そもそも鍵盤を見て弾けば、間違えないのは当たり前ではないか。これでは練習した気がしない。満足感がないのである。

ところが、暗譜を始めるとすぐに思わぬことが起こった。単に音をはずさなくなっただけでなく、演奏が急に表情豊かになったのである。これには先生も驚いた。それまではどうやら、譜面を見て指に指示を出すのに、脳の全パワーを使い切っていたようである。簡単なところは問題ない。しかし、弾きにくい箇所に差し掛かると、指で鍵盤を探ることに集中しなければならない。肝心の音楽がお留守になるのは、考えてみれば当然のことである。傍で聴いていた先生は、僕の演奏が時として急にぶっきらぼうになるのになんとも言えぬ違和感を覚えていたようである。何かが欠けている。しかし、その何かが鍵盤を見るなどという初歩的なことだとは思いもよらなかったのだ。最近では、ピアノを弾く際、今まで感じたことのない音楽の豊かさを感じるようになった。一つ一つの音に気を配るようになり、フレージングは滑らかに、かつダイナミックになった。演奏に表情がないという永年の課題に対して、思わぬ形で大きく前進したのである。

一生延命やっているのに、なかなかいい結果がでない。今度こそ頑張ろうとよりいっそう努力はしてみるが、結果はやはり芳しくない。そうした場合、本人は自分なりに工夫しているつもりでも、実は根本的な問題には手がついていない場合が多い。永年やってきた自分のやり方に慣れ、工夫の仕方がいつしかパターン化しているのだ。実はそうしたことが知らず知らずのうちに自分の可能性を狭めているのではないか。無闇に頑張るだけでなく、たまには立ち止まって発想の転換を図ってみてはどうだろうか。