巨大エネルギーの解放

プレートが蓄えた膨大なエネルギーの解放が3・11の巨大地震を引き起こしたが、日本を襲う巨大なエネルギーは地震だけではないようだ。

このところ世界中であまりいい話は聴かない。アメリカ発の経済危機から回復する間もなくヨーロッパではギリシャやポルトガルなどの財政危機問題に直面している。エジプトを始めアラブ諸国でも次々と革命により政権が交代し時代の転機を迎えている。これまで好調だった中国経済も、物価の高騰、格差の急拡大で先行きに陰りが見え始めている。こうした世界の動きは、一見ばらばらに見えるが、実は資本主義市場の巨大エネルギーの解放によって引き起こされているのだ。

そのきっかけとなったのは、22年前の東西冷戦構造の終結である。冷戦の終わりは新興国台頭の幕開けとなった。中国を例に取れば、改革開放が一気に進み、堰を切ったように外資が流入し、瞬く間に世界の工場に登りつめた。中国の安い人件費を求めて先進国が押し寄せたのである。冷戦によって堰きとめられていた資本主義の巨大エネルギーが一気に解き放たれたのだ。

その余震は未だに収まる気配を見せていない。資本主義のエネルギーは、富を求めて世界中の新興国に流入し続けているのだ。その勢いはあまりに強く、もはや国家の統制を越えている。グローバル化といえば聞こえはいいが、制御不能の暴走なのだ。

企業は1つの国に縛られる必要はない。市場、労働力、資金、いずれを得るにも世界中の最も適した場所を選べばよい。しかも、日産やソニーのようにトップが外国人になり、さらに将来、本社機能も海外に移転することになれば、もはやその企業の出身地がどこであるかは重要ではない。企業は多国籍化し、世界を舞台に最も利益が上がる体勢を模索するのみである。企業の世界地図と国家の世界地図ではすでに大きなズレが生じている。

国家は法によって国を治めようとするが、その運転の原資となる税金は企業が稼ぎ出した利益だ。その企業が海外にどんどんシフトして行けば、税収は減り国力は弱まっていく。この15年ほど日本のGDPが全く延びないのは、企業の海外シフトの顕著な表れだ。とはいえ、税収を増やすために増税すれば、海外流出はさらに加速する。社会保障を国債でまかなうしかない日本は、すでに国家としては機能不全に陥っている。

企業は企業で、グローバル化した経済の中でかつてない厳しい国際競争に晒されている。油断すればあっという間に倒産の憂き目にある。今後、事業の海外移転はますます加速していくだろう。国内でも正社員は姿を消し、派遣社員が急増するに違いない。

今回の震災は、奇しくも政府の弱体化を露呈し、企業の海外シフトを加速させている。だが、これは日本だけの問題ではない。新興国の成長が一段落し、競争力が落ちてくれば、厳しい競争も少しは和らぐだろうか。いずれにせよ、国や企業に頼った価値観だけでは、これからの世界を生き抜いていくことは難しそうだ。

日光沢温泉

旅行で同じ場所に何度も訪れることはなかなかないものだが、その数少ない例外の一つが日光沢温泉である。鬼怒川の源流域に位置する秘湯で、女夫渕温泉で車を降り、川沿いを2時間ほど歩いて行く。途中、八丁の湯と加仁湯があるが、この両者は林道を利用したバスでの送迎があるため、徒歩でしか行けない日光沢温泉とは全く客層が異なる。

 最初にここを訪れたのは、もう20年以上も前の5月初旬だ。その時の目的地は日光沢温泉ではなく、その先の鬼怒沼という高層湿原だった。家内と二人で雨の中、テントを担いで雪道を3時間ほど登って行ったが、湿原にはテントを張る場所がなく、避難小屋に泊まることになった。その晩、上空を前線が通過し、ものすごい風が一晩中鳴り止まず、真っ暗な中、2人だけで不安な一夜を過ごした。

夜が明けても、まだ猛烈な風が残っていた。しかし、おそるおそる外に出てみると、そこには息を呑む光景が広がっていた。真っ青な空に白い雲が切り裂かれるように千切れ飛び、周りを雪に縁取られた湿原が朝日の中でこの世のものとは思えないきらめきを見せていた。湿原の向こうには、頂上付近に雪煙を舞い上がらせる「日光白根」が迫り、振り返れば、尾瀬沼の主「燧ヶ岳(ヒウチガタケ)」が、まだ深く雪に閉ざされた尾瀬の静寂を守るようにじっと佇んでいた。

美しいといわれる鬼怒沼でも、これほど美しさを見せる瞬間はそうはないだろう。それを妻と二人で独占している。感動が何度も全身を貫いて行った。

その時のような絶景は望めないが、その後、日光沢温泉に来るたびに鬼怒沼に登っている。ここの魅力を全身で味わうためには、鬼怒沼まで汗をかくことは不可欠なのだ。

日光沢温泉を切り盛りされる若いご夫婦のサービスは誠実かつ意欲に溢れており、独自の充実感を与えてくれる。登山で適度に疲労した体を温泉に浸し、掃除の行き届いた板の間の廊下を裸足で歩くと、足の裏から気持ちよさが全身に広がっていく。小屋付近で採れた山菜と岩魚を使った料理は野趣に溢れ、素朴だが滋味があり、全身に命を吹き込んでくれる。かつては辺りを散策したり渓流釣りもしたが、最近は鬼怒沼に登る他は何もせず、ここでゆっくりするのが最高だと悟った。

最近、若いカップルも目立つが、猛者もいる。風呂場で一緒になった60過ぎのお年寄り。金精峠から根名草山を越えて来たという。「雪が多くて大変だったでしょう」と聞くと、道に迷って一晩ビバークしたという。全く、命知らずもいたものだ。したたか酒を飲みながら、「カモシカの肉は牛のような味がするんだよ」と上機嫌で話してくれる「マタギ」の斉藤さんも常連の一人。唖然とするような話には、自然と共に生きるパワーが溢れている。

夜も更け、天の川を見上げながらぬるめの露天風呂にゆっくり浸かると、すぐ下を流れる沢の音にけだるさを誘われ、次第に心地良さに包まれて行く。

日光沢温泉は、訪れるたびに魅力が増す不思議な場所なのである。

コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。

生き方さがしの出版記

 昨年12月、これまで『月』に投稿してきたエッセイをまとめて、「生き方さがしという選択-発見と考察のバリエーション」として出版した。

当初は、これまで書き溜めてきたものをまとめるだけだから大したことはないと考えていたが、出版が終わってこの1ヵ月半あまりを振り返ると、その前後で自分の中で大きな変化があり、改めて出版ということの重みを感じている。

 今回、最も苦労したのは本のタイトルだった。この7年余り、特にテーマを定めずに書きたいことを書き散らしてきた。むしろ自分の中にあるさまざまな面を満遍なく出そうと心がけてきた。それを一つのタイトルでくくることなど不可能に思えた。代表的なエッセイのタイトルをそのまま本のタイトルにしてしまうという手もあったが、それではこれまでのエッセイをただまとめただけに終わってしまう。せっかく本として出版するからには、新たな「作品」として世に問いたかった。

 タイトルを考えながら過去のエッセイを読み返しているうちに、エッセイをいくつかに分類することができたので、それを元に章立てを行った。しかし、それらを統一するテーマとなると、やはり適当なものは思い浮かばなかった。代わりにある疑問が浮かんだ。そもそも自分は何のためにエッセイを書いてきたのだろうか。するとそれに対して、「生き方さがし」という答がすぐに浮かんだのである。僕はこのエッセイを書きながら、自分の生き方をさがして来たのだ。生き方さがしの軌跡として見直すことで、これらのエッセイは新たな価値を持ち、次のステップへとつながっていくのではないか。「生き方さがしという選択」というタイトルはそうした経緯で生まれたのである。

 逆にこのタイトルは、僕に改めて「生き方さがし」について考えさせることになった。偉そうなタイトルをつけてしまったが、僕の生き方さがしはどれほどのものだろうか。生き方をさがしてソニーを辞めたことは確かだが、自分は何か確固としたものを見つけたのだろうか。いま、自分がやっている仕事で、自慢できるような成果は何もないではないか。

 しかし、そんなことを思い悩んでいるうちに、仕事を成功させようと焦っている自分が一歩離れたところから見えてきたのだ。問題は、仕事がうまく行くか行かないかではなく、仕事に対して自分らしい取り組みをしているかどうかということではないのか。相撲でも、「大切なのは勝敗ではなく自分の相撲を取りきること」と言うではないか。自分らしさを存分に出したときに結果はついてくるものなのだ。手詰まりなのは、本気で自分の生き方を追求していないからなのだ。

ソニーを辞めて生き方さがしの旅に出たと言えば悲壮な選択に聞こえる。しかし、自分らしく生きることは、実は最も力強い生き方ではないだろうか。そのことに気がついたことで、僕は自分の中で新たに力が湧き起こるのを感じているのである。今回の出版は、改めて自分の生き方を見直す貴重な機会となったのである。

格差と平等

上海でも日本の焼肉は人気だが、価格は日本並みかそれ以上である。しかし、そこでバイトしている人の時給は10元(130円程度)にも満たない。これでは、いくら頑張っても焼肉を食べられるような身分にはなれそうもない。

だが、こうした人件費の安さは、雇う側にとっては大きな強みとなる。安い労働力は、高い利益率を生む。中国でもし高品質の商品やサービスを扱って成功すれば、短期間に日本では考えられないような巨大な富を築くことができるのだ。安い労働力は、ただ輸出競争力を高めるだけでなく、中国の人々に成功のチャンスと意欲を与えているのである。

一方、日本では何をやっても人件費が重くのしかかる。企業は、この数年、本格的に人件費の削減を進めている。終身雇用をやめ、また、正社員を減らして派遣社員に切り替えた。最近では、かつては当たり前だった社内研修の費用を抑えるために、あえて新卒者を採らず、即戦力となる社員のみを中途採用で採るケースも増えているらしい。その結果、日本でもじわじわと格差が広がり始めている。中国に対抗しようとするうちに、中国の格差が回りまわって日本に輸入されてきているのである。

しかし、果たしてこれで良いのだろうか。目先のことばかり考えて人件費をカットすれば、結局、日本全体の購買力が低下し、自分で自分の首を絞めることになる。確かに、周りが全て非正規雇用者を多用するなかで、自分のところだけ終身雇用を続ければ倒産してしまうかもしれないが、長い目で見れば、非正規雇用者が増えることは企業にとっても日本経済にとっても決してプラスではない。

人経費だけではない。コストダウン、合理化努力と言いながら、やっているのは仕入先への値引き要求ばかりだ。もちろん、無駄が多く合理化余地が十分あった時代はそれで良かったが、限度を超えた値引きの強要は、仕入先の経営を圧迫し、品質の低下を招く。確かにビジネスは厳しい。だが、人件費を削ったり、仕入先いじめをする前にやるべきことはないのだろうか。中国の安い労働力に対して、そうしたコストダウンだけで対抗していては、日本経済は自滅の道を歩むしかない。

ところで、ここ数年、日本の温泉ツアーが人気だ、日本の洗練されたもてなしは決して中国では味わえないものだ。マンガやゲーム、若者のファッションなども中国人を惹きつける日本の文化の一つだ。中国から見れば、日本にはすばらしいものがたくさんあるのである。しかも、彼らが知っているのは日本の魅力のほんの一部に過ぎない。

こうした日本独特の文化が発達したのは、誰もが平等に暮らせる日本社会があったからではないだろうか。格差を利用して発展を続ける現在の中国のような社会では、そうした成熟した文化が大衆から生まれることは当面ありそうもないからだ。

そろそろ安易なコストダウンから脱却し、自分たちの強みを活かした新たな付加価値の創造を、今こそ真剣に考えるべきときではないだろうか。

生き方さがし

 最近テレビで、世界に飛び出して活躍する日本人や何か手に職をつけた人を特集した番組が目につく。仏像の番組も多いし、書店には宗教本のコーナーも目立つ。どうやら、世代によらず、多くの人が生き方を求めてさまよっているようだ。

現代は科学の進歩により経済が飛躍的に発展した時代だ。かつて人々に大きな影響力を持っていた宗教や道徳といったものは力を失い、世界中が経済を中心に動くようになった。確かにこうした経済的な発展はかつての貧困や病気の恐怖から人類を開放し、人々の暮らしを豊かにしたかもしれない。しかし、経済が発展すればするほど、その代償を払わなければならない。競争だ。そして競争を勝ち抜くためには、より経済に力を入れざるを得ない。こうして気がつけば人類は経済に支配されてしまったのである。

ところが日本のような先進国は、中国やインドなどの新興国の台頭により、このところ競争力の低下が著しい。経済成長に陰りが見え始めたとき、それまでの競争に対して疑問が芽生えた。だが、それに代わる確固とした価値観もない。経済が全てではないと口では言ってきたが、まじめには考えていなかった。多くの人が生き方を見失い、さまよい始めたのにはそうした背景がある。

経済的な状況が引き金となっているとはいえ、経済的な弱者だけが生き方に悩んでいるわけではない。かつてのオウム真理教事件では、その異様さ、不気味さが世間を戸惑わせ、犯人たちは厳しく糾弾された。しかし、オウムに入信した人たちは、自らの生き方を求めて行動を起した人たちであり、何もしない人に比べれば生きることに真剣だったとも言えるのである。しかし、彼らは社会から一方的に拒絶され、単なるカルトの脅威として片付けられてしまった。だが、今日の状況を見るにつけ、こうした対応は実は社会の未熟さの表れではなかったか。今、多くの人が生き方を見失うことになった本質的な問題は、経済的な発展に比べて未成熟なこの社会に隠されているように思えるのである。

 もちろん、生き方に対して悩むのは今に始まったことではない。生きる意味についてはあらゆる宗教家も哲学者も昔から悩んできた。それは人間にとって根源的な悩みなのだ。しかし、今、生き方に悩んでいる人々の状況は少し異なっている。かつての宗教や哲学は、少なくとも人々に自らと向き合い生き方を見つめる「場」を与えてくれたが、今の人たちにはそれがないのだ。人々はどうしてよいかわからぬまま、漠然とした不安に苛まれているのである。

考えようによっては、生き方に悩むなどということは人間だけに与えられた特権である。経済成長に陰りが見えるにせよ、食べるものもない貧しい時代も、悩む間もなく働き続けた高度成長時代も終わり、生きる意味について悩むことができる時代がやって来たのである。生き方を見つけるために生きている、そう自覚できれば、また悩み方も見えてくるのではないだろうか。

消費者の質と市場原理

先日、マクドナルドの新製品を手にした女子高生たちが、「コレ、チョーウマイ」と盛り上がっている様子を見て、このところずっしりと手ごたえのあるものに出会っていないと、ふと思った。どうも世の中そういう雰囲気ではなさそうだ。

メーカーより流通が強いといわれて久しい。家電メーカーの営業は家電量販店に出向いて頭を下げ、どういう液晶TVが売りやすいかお伺いを立てている。食品メーカーも、味やパッケージデザイン、さらには賞味期限までもスーパーやコンビニの意向に神経を尖らせる。売りやすさとはお客様のことを考えてのことだから、一見、消費者のニーズに応えているように見えるが、実はそうでもない。

いかに買う気にさせるかということは、昔も今も商売の基本であることに変わりはない。かつては良いものを作って消費者の心をつかむというのは当たりだった。そこには売る側と買う側の真剣勝負があった。しかし、最近では売る技術の高度化にともない、商品の質は買う気にさせるためにあまり大きなウエイトを占めなくなっているように思える。消費者が手を伸ばすかどうかは、むしろ販売促進のためのさまざまな工夫によるところが大きいのだ。

コンビニはその典型だろう。24時間営業、行きやすい立地、入りやすい雰囲気(これには立ち読み客が一役買っているが)。スイカやパスモはお金の出し入れの手間さえ省く。もちろん商品自体にも客の興味を誘う仕掛けが満載である。手ごたえのある商品などとは無縁のコンビニが現代の小売業界の雄なのだ。

売る技術の高度化は何も物品の売買に限らない。かつては玄人に限られた世界だった株取引も、今ではパソコンやケータイからのネット取引が当たり前になり、学生や主婦も気軽に参加できるようになった。ゲーム感覚だから損をしても実感が薄い。手軽さだけでなく損を重く感じさせないことも金を使わせるためのミソなのだ。

市場原理とは本来、安くて良いものが勝ち残り、その結果、生活が豊かになる仕組みだったはずだ。つまり、売る側と買う側のバランスの上に市場原理は成り立つのである。だが、売る技術の進歩により、消費者はニーズもないのに購買意欲を喚起されるようになった。逆に商品の質は落ち、消費者の満足度は落ちる。メーカーは商品の寿命が短くなったと嘆くが、自らそうした結果を招いていることに気がつかない。金融資本主義ばかりが槍玉に挙げられているが、今回の世界的不況は、売る技術の過剰な発達によって市場経済のバランスが崩れ機能不全に陥ったことが根幹にあるのではなかろうか。

重要なのは、これは売る側だけの責任ではないということである。自らの思考を停止し、売る側に依存し切った消費者に実は問題があるのだ。最近の消費者には、本物をじっくり味わう余裕も忍耐も感じられない。市場を健全な状態に戻すために問われているのは、何よりもまずそうした消費者の質なのではないだろうか。

時間感覚

「年々一年が短くなっているような気がする」と年賀状に書いてくる人がこのところ目立つようになった。我が友人たちも大分歳を取ったということだろうか。

現代では、時間はいつでもどこでも一定の速さで流れていると思われているが、こうした時間の概念を最初にはっきりと示したのはニュートンである。彼は宇宙のどこでも一様に時間が流れると仮定することによって、天体の運行と木から落ちるリンゴを同じ運動方程式から導いたのである。こうして創られたニュートン物理学は、その後の科学の飛躍的な発展をもたらした。一定の速さで流れる時間という概念は、科学の時代の象徴となったのである。

一方、日常生活における主観的な時間感覚においては、時間は決して一定の速さで流れているわけではない。だが、そう感じるのはあくまでも心理的なものであり、時間そのものは一定に流れているという立場を取っている。われわれの主観的な時間感覚は、物理的な時間を優先させながらも、適当な自由度を保っているのである。

普段、われわれは、常に時間が経過していると感じており、それこそが時間感覚であると思っている。では、われわれは五感のどれを使って時間の経過を感じているのだろうか。確かに五感はさまざまな変化を感じ取っている。しかし、もし五感を全て失ったとしても、なお時間感覚はあるのではないだろうか。われわれの時間感覚は、外からの刺激を感じ取るというよりは、われわれの意識にもともと内包されているものなのである。

そもそも時間感覚のない意識というものは想像しにくいが、木村敏著の「時間と自己」によれば、離人症という病気になると時間感覚がなくなるという。あと何分あるとか、あれから何分経ったということが、頭では明瞭に理解できても、実感として全く感じられなくなる。興味深いのは、「現在」を感じるのが時間感覚ではなく、実は現在に至る過去の時間と、現在から未来に至る時間を感じることが時間感覚の本質だということである。

しかも、「あと何分」という感覚は、単にあと何分という感覚ではない。つまり、「もう何分しかない」のか、あるいは「まだ何分ある」というように、その時間を短く感じて焦ったり、逆に長く感じて余裕があるなどと感じている。つまり時間感覚には、単に時間の長さだけでなく、その時間が自分に持つ意味も同時に含まれているのである。

さらに、われわれ現代人は、時計を見ることにより、一定に流れる物理的な時間も取り入れている。時計を見て「あと何分」と感じながら、われわれの時間感覚は常に物理的な時間と意識内の時間のずれを調整しているのである。

年賀状を書きながら、「年々一年が短くなっているように感じられる」のは、自分の中の一年と客観的な一年のずれを感じることであり、そういう意味では、正常な時間感覚が働いているのである。

消費型社会の転換点

トヨタ自動車が本年度の決算で4000億円を超える赤字に転落すると言う。昨年度、2兆円以上の営業利益を上げた日本最強の企業がわずか1年でこのような事態に転落するとは誰が予想しただろうか。自動車メーカーは一斉に大幅な減産に入った。今後、売り上げのさらなる減少を見込んでいるためだ。

自動車の販売が急速に落ち込み始めたきっかけは、昨年のガソリン価格の高騰である。その後、ガソリン価格は下がったものの、販売の減少には歯止めがかからなかった。アメリカの金融危機が表面化し、消費者心理を冷やしたことも一因だが、ガソリンの高騰で消費者の自動車に対する考え方が、微妙に、しかし根本的に変わってしまったのではなかろうか。

買い物にも子供の送り迎えにも自動車はなくてはならない。金はかかるが自動車は必需品で、家計はその維持費を織り込み済みだった。ところがガソリン価格が急騰し始めると、スタンドに行くたびに想定外の出費を強いられる羽目になった。それまで疑問もなく乗っていた自動車が、急に重荷になり始めたのである。折りしも世界中で環境問題が取りざたされ、多量のCO2を排出する車はその元凶の一つとされた。健康診断で肺がんの疑いありと言われた途端、それまで何の気なしに吸っていたタバコが急に怖くなるというが、自動車も、ある日突然、当たり前のものではなくなってしまったのだ。一旦、そうした意識に目覚めると、消費者はすぐに車をやめないまでも、台数を減らしたり、買い替えを遅らせようとする。メーカーにとってはまさかの販売急減も、冷静に見れば当然の結果だったのだ。

こうした消費者意識の転換は、自動車に対してだけではない。家電にせよ何にせよ、そもそも巷に溢れる商品は、どれほどわれわれの生活を豊かにしてくれているだろうか。かつて自分が始めてステレオを買ったときを思い出してみると、当時はとにかく欲しくて欲しくてたまらず、毎日カタログにかじりついていたものだ。それが今ではどうだろう。店まで見に行くのも億劫で、ネットで買い物を済ませることも珍しくない。すでに巷に物は溢れているのだ。メーカーは、その程度の興味しかない消費者相手に、必死に購買意欲を喚起しようと涙ぐましい努力を続けているのである。

先進国ではすでに物やサービスが供給過剰になっている。サブプライムローンは、購買力のない低所得者層に無理やり住宅を売ろうとして破綻したが、最近の世界経済は、極論すれば、要らないものを無理やり売りつけることで成り立っているのである。伸びきった腰は、砕けるときはもろい。

現代の大量消費型社会が石油に支えられていることを忘れてはならない。物質的な豊かさを追い求める時代は、すでに終わっているのである。今回の不況は、資本主義社会に本質的な転換を迫っているのだ。にもかかわらず給付金をばら撒く程度の対策しか持ち合わせていないとなると、先行きは相当暗い。

学歴社会

最近、ゆとり教育の反動で、高校も急速に受験教育に舵を切り始めている。だからと言って、都立高校に通う長女の話では、大学に行ってからのことや、就職を考慮してどの学部を選択すればよいかというような話は、やはりほとんどないと言う。教師たちの目は受験までで止まっていて、その先を見る余裕などないのだ。

かつて、学歴偏重が学生に強いる過酷な受験勉強を緩和しようと、高校入試に学校群制度が導入されたり、ゆとり教育が試みられてきたりしたが、結局、変わったのは高校の偏差値地図くらいのもので、相変わらず東大の威光が衰える様子はない。高校入試や小中学校教育をいくらいじっても、最後に控える大学入試がそのままでは何も変わるはずがない。そもそも国には学歴社会を本気で変えようとする気などないのである。

大学入試は、学歴社会を支えるために入念に準備された制度である。全国の生徒を一つの基準で判定する制度は他に類を見ない。全員が参加することは、一見公平に見えるが、そこで下される判定は、受験する本人に対しても、世間の眼に対しても、否が応でも序列の意識を刻み込む。小学校から高校まで、毎日のように勉強しろ!勉強しろ!と言われ続けたのも、ひとえに最後に入試が控えているからなのだ。

勉強ができる人を「頭が良い」と言う。そして本人も自分は頭が良いとか悪いとか思い込んでしまう。頭の良し悪しは学校の勉強だけで決まるわけではないのに、知らぬ間に勉強ができない奴は劣等生だとレッテルを貼られてしまうのである。学校教育の現場では入試と呼応して、子供の心に着々と学歴意識を植え付けているのである。

美術や体育などの教科は、英語や数学のような受験科目に比べて一段下に見られる傾向がある。これは、それらの教科が入試に組み込まれていないからである。実生活では、芸術鑑賞や健康の重要性は、英語や数学より劣るとは思えないが、記憶力と理解力を主に評価する大学入試には美術や体育はなじまない。一旦、受験科目からはずされてしまうと、そうした科目は無言のうちに差別され、軽視されてしまうのだ。

一旦、学歴社会ができると、親は子供を受験勉強に駆り立て、その子供が受験によって序列化されることによりますます学歴信仰が強まるというスパイラルが出来上がる。こうして学歴社会はますますゆるぎないものとなっていくのである。

学歴社会が生まれる背景には、権威に弱い日本人の国民性が透けて見える。自分で価値判断ができないから、お上が決めた価値観に従うのである。こうして見ると現代の学歴社会は、意外にも戦前の軍国主義教育の時代と、さほど変わっていないのかもしれない。

ゆとり教育が挫折し、再び復活の兆しが見える受験偏重教育。結局のところ、学歴社会を抜け出せないのは、単に教育制度の問題ではなく、東大ブランド以上の価値観を見出せない日本の社会の貧しさを象徴しているのではないだろうか。