AIが変える仕事

 AI(人工知能)が進歩すると多くの仕事が奪われ失業者が続出するという話をよく耳にする。これまでも技術の進歩で多くの仕事が姿を消して来たが、AIによる影響はそれらと比較にならないほど大きなものになりそうだ。将来、われわれの仕事はどうなるのだろうか。

 仕事においてAIが代行するのは人間の頭脳労働である。従ってAIの導入は肉体的な作業を必要としない情報分野でまず進んだ。

 ネットの世界においては、グーグルなどは誰でもネットで簡単に必要な情報が得られるように早くからAIを利用して検索エンジンの改良を行なって来た。その他にもネット広告の効果を高めたり、通販で価格や在庫の最適化を行うなど、AIはすでに広く用いられている。

 お金をデータとして扱う金融分野においてもAIの活用はすでに不可欠となって来ている。株にしても債券にしてもAI同士が凌ぎを削る熾烈な競争が始まっており、AIを駆使する先端エンジニアの需要は高まるばかりだ。一方、従来の人間の経験や勘といったものは急速に廃れつつある。

 教育も一種の頭脳労働であり、AIによって大きく様変わりしそうな分野だ。AI教師は、各生徒の個性に合わせて細やかに対応し、生徒の質問にも丁寧に答えてくれるだろう。人間の教師の役割は大きく変わるに違いない。

 翻訳も頭脳労働だ。先日、久しぶりにスマホの翻訳機を使ってみて、その進歩に驚かされた。専用のヘッドフォンがあれば誰もが簡単に同時通訳を利用できる日は近そうだ。そうなれば言語の壁は格段に低くなる。外国人との相互理解は深まり、国という概念も変わっていくかもしれない。人間の翻訳家はより質の高い翻訳を求められるようになるだろう。

 ところで、自動車の自動運転の実用化が目前に迫って来ている。運転は肉体労働のように思われがちだが、本質的には頭脳労働だ。ハンドルやブレーキを操作する前に、行き先までの道順を考えたり周りの安全を確認するなど常に頭を使っている。AIが代行するのは、まさにそうした情報処理と状況判断なのだ。

 自動運転は、機械を操作する人間の作業をAIが代行する例の一つだが、運転以外でも機械、あるいは工場全体を操作するような仕事は、今後AIによって自動化が進むだろう。

 一方で職人技を伴う仕事をAIで代行するのは簡単ではない。例えば美容師の仕事を考えてみよう。カットやブローなどを行うAIロボットを開発することは原理的には可能かもしれない。だが、そうした仕事においては、AI以前の問題として職人の微妙な手加減を再現できるロボットをゼロから作らなければならない。それには莫大な費用がかかる。

 永年、肉体労働は頭脳労働より下に見られて来たが、その頭脳労働もAIに取って代わられるとなると、大きな顔はしていられなくなる。AI社会を生き延びていくのは、頭脳と肉体両者を同時にこなす仕事、つまり自分の頭で考え、発想し、判断しながら自分の肉体を微妙にコントロールすることが求められるような仕事なのかもしれない。

再生可能エネルギー

 東日本大震災にともなう福島原発の事故の直後、原発に対する不信感が増し、日本各地で反原発運動が起こった。それに対して日本経済新聞は毎日のように原発の必要性を訴えていた。もし原発をやめば、日本のエネルギーコストは増大し、海外からの投資は控えられ、日本経済は衰退すると脅しまがいの主張を繰り返したのだ。一方で再生可能エネルギーの推進に対しては、現実を見ない夢物語扱いをしていた。だが、その日経も最近では日本の再生エネルギー開発の立ち遅れを嘆く記事が目立つようになって来た。

 2007年から2016年までの10年間の世界の再生可能エネルギーの推移を見てみよう。すると風力発電は7倍の4億8,700万KWに、太陽光発電は48倍の2億9,100万キロワットになり、2016年時点で両者の合計は7億7,800万キロワットとなっている。これは、全世界の原子力発電量の約4億キロワットをすでに上回っている。

 では、世界のどの国が再生可能エネルギーに力を入れているのだろうか。2016年時点では、風力発電においては世界全体の35%を占める中国が1億6,900万KWで第1位である。ちなみに日本は1%にも満たない340万KWである。太陽光発電では、かつて世界をリードした日本が4200万KWと第2位につけているが、こちらも中国が7700万KWで1位となっている。しかも中国では年々導入が加速しており、太陽光発電では2016年1年間で日本のこれまでの累計導入量に匹敵する量を導入し、風力、太陽光いずれでも世界の増加量の半分近くを中国1国が達成しているのだ。

 この中国が2016年までに導入した風力と太陽光を合わせた累計は2億4,600万KWである。原発1基の発電量を約100万KWとすると、これは原発250基分、日本の全原発の発電能力の約5倍に相当することになる。

 福島原発の事故直後、再生可能エネルギーの将来性について調べたことがある。すると電力会社への接続(系統連系)の問題を考慮しても、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理に比べれば、再生可能エネルギーのコストを原発より下げ、原発並みの発電量を達成するのは技術的に(もちろん安全の面からも)はるかに容易に思われた。しかも、それは日本が環境ビジネスで世界をリードするまたとないチャンスだったのである。

 だが、日本政府はその後も原発再稼働に固執した。一方、自国で福島原発並みの事故が起きた場合のリスクを直視した中国は、再生可能エネルギーに一気に舵を切ったのである。

 しばらく前にNHKのグローズアップ現代プラスで、日本の再生可能エネルギー事業が電力固定価格買取制度を狙った中国の業者に次々と買収されている状況が紹介されていた。原発の再稼働を最優先する日本では、再生可能エネルギー事業を立ち上げようにもさまざまな規制が立ちはだかり、多くの業者が経営に行き詰まっている。それをコストダウンに優れ豊富な資金力を背景にした中国企業に買い取ってもらっているのだ。政府に原発リスクを押し付けられた日本国民にとって、思わぬところから救世主が現れたということだろうか。

工業化と国家の盛衰

 かつてトルコを旅行していた時、あれほどの隆盛を誇ったオスマン帝国はなぜ衰退してしまったのだろうかという疑問が頭を離れなかった。

 オスマン帝国の強みは騎馬民族ならではの機動力だった。情報伝達と流通のスピードがアラブからヨーロッパに至る広大な領土の支配を可能にしたのだ。彼らにとって1000年間の永きにわたり停滞する当時の中世ヨーロッパは如何にも時代遅れと映っただろう。

 オスマン帝国によるコンスタンチノープル征服は、眠っていたヨーロッパを刺激し、その後のルネサンスや大航海時代、ひいては産業革命へとつながる発展の引き金となる。そして、皮肉にも産業革命がヨーロッパにもたらした工業化の波は、オスマン帝国の強みであった騎馬による機動力を次第に無力化し時代遅れにして行くのである。オスマン帝国の衰退にはさまざまな要因があろうが、工業化の立ち遅れが主因であることは間違いない。

 その後、今日に至る2世紀余りの欧米主導の世界はこの工業力によって支えられてきた。工業力の発達は経済、軍事双方を発展させ、工業力の差は国力の差を急拡大させた。その結果、いち早く工業化を達成した欧州列強の帝国主義により世界は分割されていくのである。

 工業化はまず18世紀の動力革命から始まった。それまでの人類にとって動力といえば人力と牛馬の力が主だったが、蒸気機関の発明で桁違いの馬力が得られるようになった。

 20世紀になると電気の時代が来る。電線を引っ張って来るだけでどこでもエネルギーが得られるようになり、工業化の利便性を飛躍的に高め、生活のすみずみまで工業化の恩恵を直接受けることができるようになる。

 オスマン帝国も自国においてそうした工業化を必死に推し進めようとした。だが、国内のさまざまな要因が速やかな工業化を妨げた。スルタンを頂点とするイスラム帝国の社会構造は工業化に馴染まず、また工業化により自らの利権を失う勢力の抵抗も大きかった。

 一方、いち早く工業化が進んだイギリスでは、技術革新を起こし工業化を進めていく人材に恵まれ、またそうした人たちが活躍できる社会構造があった。その後、ヨーロッパ各国が追随するが、20世紀になるとアメリカが台頭し世界最大の工業国に躍り出る。

 20世紀後半になると工業化は新たな段階に入る。エレクトロニクスの時代の到来だ。ラジオやテレビにトランジスターが応用され、コンピューターが急速な進歩を遂げる。さらにIT技術が発達し、20世紀末にはインターネットが登場する。そして今日、AIとI o Tがキーワードとなり、工業化はさらに新たな段階を迎えようとしている。

 現在でもアメリカはさまざまなイノベーションを起こし工業化の最先端を走っている。それを独自の戦略で急速に追い上げているのが中国だ。工業化の進歩には、その国の社会構造や教育レベル、市場の有無、さらにはそれらを主導する国の指導力が関わって来る。一方、IT化などでもたらされた社会環境がその国の欠点を補い、それが工業化を急加速する場合もある。現在の中国ではそうした条件が非常に効率的に機能しているように見える。

衰退する日本

 先日の衆議院の解散総選挙で、希望の党の小池百合子氏は、この20年余りの日本の競争力の低下を指摘し、何とかしなければ取り返しがつかなくなると訴えていたが、覚えている人はいるだろうか。小池氏の訴えは直後に勃発した野党再編のゴタゴタによってかき消されてしまったが、バブル崩壊以降、日本の国力が衰退の一途をたどっていることは事実だ。

 選挙後、11月1日の日経新聞の1面に「瀬戸際の技術立国」と題して、日本の技術開発力の低下を示すさまざまな指標が示されていた。それによれば、基礎研究力の目安となる科学技術の有力論文の数は中国の4分の1以下で、まもなく韓国にも抜かれる状況にある。応用開発力の指標となる国際特許出願数でも今年中にも中国に抜かれるようだ。

 多くの日本人は日本はまだ技術大国だと思い込んでいるが、中国の若い人に聞くと誰もそんな印象を持っていない。なにしろ今の中国で見かける日本ブランドは数えるほどしかない。かつて世界を席巻していた日本の家電も今ではソニーあたりがかろうじて残っているだけで、それもサムソンやアップルの前では存在感が薄い。自動車はそこそこ頑張っているが、ホンダ、トヨタ、日産の販売数を合わせてもフォルクスワーゲンに並ぶ程度だ。

 確かに日本製品は不良品が少ないと評判だ。しかし、それはズルをせず真面目に作っていることに対する評価であって技術の高さに対するものではない。今や日本と言えば漫画やアニメなどのオタク文化の中心であり、安全・清潔で興味深い国ではあるが、技術大国の看板はとっくに色あせているのである。

 昨今、東芝や神戸製鋼など、次々と日本企業の不祥事が相次ぐが、そこにも技術力の低下が影を落としている。海外との厳しい競争に晒された企業はじわじわと利益を出すのが難しくなり、随所で越えてはならない一線を越えざるを得なくなっているのだ。不正規雇用の増加や格差の拡大も、そうした企業の弱体化のしわ寄せの結果といえる。

 安倍政権は苦しい輸出企業を助けるために金融緩和により円安誘導を行なった。だが、そうした優遇策はカンフル剤のようなもので、一時的に企業を楽にするが、その間に企業が変われなければ元の木阿弥である。自動車業界は最も円安の恩恵に預かって来たはずだが、結局、世界的な電気自動車への転換に出遅れる結果となってしまった。自動車もダメとなると日本の衰退はいよいよ深刻なものとなってしまう。

 現在、ネット関連の技術は黎明期を経て新たなI o Tの段階に入りつつある。AIにおける革新はそれにさらに拍車をかけるだろう。そうした技術やサービスに対する投資の規模もかつてとは桁違いの大きさになっている。日本はそうしたダイナミックな動きに全くついていけてないように見える。

 こうした事態に陥ったのは、豊かさに安住しリスクを取った挑戦を避けるようになったからではないか。確かに小池氏の言う「日本のリセット」は喫緊の課題なのだ。もっともそれをどうやって実現して行くかは容易ではないのだが。

何のための憲法改正か

今年の憲法記念日、安倍首相は2020年までに憲法改正を目指す意向を示した。だが、その改正案は意外なものだった。

 日本におけるこれまでの憲法改正論議は、そのほとんどが第9条、特にその2項の改正についてのものだった。9条2項には、「前項(平和主義)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。これを改正して軍隊を持てるようにするか否かが主な争点だったのである。

 ところが、今回の安倍首相の提案は、2項をそのままにして新たに3項を設け、そこに自衛隊の存在を明記するというものだった。現行憲法では自衛隊を違憲とする意見があるので、憲法に自衛隊の存在を明示し、自衛隊の存在を保障しようというのだ。

 しかし、この3項が2項に矛盾しないためには、自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないことが必要だ。だが、これまで9条改正派は、自衛隊を「陸海空軍その他の戦力」であると認め、それに合わせて9条2項を改正すべきだと主張してきたのである。

 実際には現行憲法においても海外からの侵略に対して自国を守る権利、つまり個別的自衛権は認められている。自衛隊が自衛のためだけの戦力である場合には違憲ではないとされているのだ。つまり自衛のためだけの自衛隊なら、わざわざ3項を加える必要はないのだ。

 安倍首相は2年前に集団的自衛権の行使を容認する安保法案を可決させている。その彼が自衛隊を個別的自衛権の範囲に留めようとするはずがない。ただ、多くの憲法学者が、個別的自衛権の範囲内ならば合憲とされる自衛隊も、集団的自衛権を行使すれば違憲であると主張している。安倍氏はその点を何とかしたいと考えているのかもしれない。

 9条改正派は、現行憲法は敗戦直後という特殊な状況下でGHQによって無理やり押し付けられたもので、その結果、日本は軍隊を持てず一人前の独立国家たり得ないと主張する。さらに北朝鮮のミサイル問題や中国による海洋進出などを引き合いに出し、日本を取り巻く環境は急速に悪化しているなどと危機感を煽っている。だが、だからと言って果たして9条を改正する必要があるのだろうか。

 たとえ「軍隊」を持ったとしても日本単独で自国を守れる訳ではなく、日米安保に頼る体制は変わらない。また、最近では直接的な軍事衝突よりもテロやサイバー攻撃の脅威が急速に増しており、強力な軍隊で国を守るという考え方は陳腐化しつつある。そして何よりも、もし軍隊を持てば、日本は「戦争をしない国」の看板を下ろさざるを得なくなる。その外交的な損失は計り知れない。それによって軍事バランスが崩れれば周辺国を刺激し緊張が高まることは間違いない。テロの標的になるリスクも高まるだろう。むしろ戦争放棄と平和主義を積極的に掲げ、現在の防衛体制を強化する方がはるかに現実的ではなかろうか。

 何れにせよ憲法はオリンピックに合わせてあわてて改正するようなものではない。いったい何のために憲法を改正するのか、国民一人一人がよく考える必要がある。

アフィリエイター

 ネットであることを調べようとすると、記事はいくらでも見つかるのだが内容に大差がない。もっと深く知りたいと思っても、そうした記事は見つからない。まるでどこかに大元があって、大勢に人がそれをコピーしてUPしているとしか思えない。不審に思ってネットに詳しい友人に話すと、「それはアフィリエイトだよ」と教えてくれた。

 ネットを検索していると、そのサイトには記事に関連したさまざまな広告が出ている。アボカドダイエットを調べると、痩せるサプリメントの広告が多数出てくる。このサイトを検索した人は痩せたい人が多いだろうから、そうした広告をクリックすることは多いはずだ。

 だが、どうしてその記事に都合よく関連した広告が貼り付けられているのだろうか。これはそうした記事を選んで誰かが広告を載せているわけではない。広告を載せるために記事を書いているのだ。これはアフィリエイトと呼ばれる行為で、ダイエット法やお金の増やし方、旅行など話題について記事を書き、そこに広告を貼り付けているのだ。

 そうした広告のバナーはAmazonなどから提供されており、それを自分の書いた記事に貼り付けておいて誰かがクリックするとその人にお金が落ちる仕組みなっている。

 こうしたアフィリエイトが成功するためには、まず自分の記事をユーザーに検索してもらわなければならない。そのためにはGoogleでいかに上位に表示されるかが最も重要だ。Googleで上位に表示されるためには検索者が用いる話題のキーワードを漏らさず含んでいる必要があるが、それだけではだめだ。Googleはユーザーにできるだけ質の高い情報を提供できるようAI(人工知能)を用いて、日夜、記事をチェックしており、ユーザーの誘導を目的としてキーワードばかりを散りばめたような記事はすぐに見抜かれ除外されてしまうからだ。従って、それなりに評価されるためのツボを押さえた記事を書く必要がある。

 アフィリエイトを生業としている人たちはアフィリエイターと呼ばれているが、彼らがまった広告収入を得るためには、少なくとも毎日10本程度の記事を書き続ける必要があると言われている。多くの時間はかけられないので、どこかからの借用になる。一見、専門家が書いているように見える記事も、大半は大元の記事をアレンジしただけの使い回しなのだ。

 そうした記事には、商品の広告だけでなく「関連サイト」の広告も貼ってある。だが、そのサイトもそのアフィリエイターが作ったもので、そこに誘導して新たな広告を見せるのが目的だ。検索者は得たい情報を餌に引き回され、広告ばかり見せられることになる。

 それだけならいいが、問題は記事の信憑性である。あたかも専門家が書いているようでも実は素人だから、記事の内容が誤っていても当人にはわからない。その結果、誤った情報が流布され、例えば健康に深刻な危害を及ぼすようなダイエット記事が氾濫するような事態も起こりうるのだ。

AIが生み出す未来

 最近、I o Tという言葉をよく目にするようになった。身の回りの様々な製品が次々とインターネットにつながることで、われわれの生活が大きく変貌を遂げようとしている。

 I o Tは単に製品がネットにつながるだけの話ではない。自動車の自動運転は、自動車という従来の製品をネットを通じて制御することで実現するI o Tの代表的な例だが、ネットの向こうではコンピューターに搭載されたAI(人工知能)が運転中に得た情報を迅速に処理し、危険を回避するための指示を常に自動車にフィードバックし続けているのだ。

 街中で人型ロボット「ペッパー」が店頭に立ち接客をしている光景を目にすることがある。だが、人が彼に話しかけた言葉はペッパーに内蔵されたコンピューターで処理されるわけでない。ネットでつながれた先のAIが処理しているのである。つまり最近のI o Tの進歩はAIの急速な進化に支えられているのだ。

 ネット通販で何か買おうと検索すると、その後、画面に鬱陶しいほどその関連情報が表示される。われわれがパソコンやスマホでどのサイトを覗いたかは全てGoogleなどに情報として蓄積される。ネットの向こうのAIはそうした情報からその人が何に興味がありどのような生活をしているかを分析し、その人に必要な情報を広告として提供する。さらにその広告の効果を分析・学習することで、随時、より効果的な広告の打ち方を見出していくのだ。

 薬を検索すれば、その人が健康上何らかの問題を抱えているということがわかるが、それにあわせてサプリメントや運動器具を勧めるだけでなく、年齢や家族構成、他に何を検索しているかなどを総合的に分析し、ストレス解消が必要だと判断すれば、例えば薬とは一見関係のない旅行を勧める場合もありうる。

 さらにI o Tによってわれわれが日頃使ってきた製品がネットにつながるようになると、パソコンやスマホだけでなくその製品を通じてさまざまな情報がAIに吸い上げられる。健康管理を助けるI o T機器を使えば、われわれの体温、血圧、さらには睡眠中の寝返りの回数やいびきの大きさまで、日夜、AIに蓄積され分析される。自動運転車に乗れば、いつどこに行き何を買ったかも全て記録されるのだ。われわれの生活に関わる全てのデータがI o Tによって記録されAIによって分析・把握されサービスに反映される。さらに、そのサービスに対するわれわれの反応を分析・学習してサービスの質を限りなく改善し続けるのである。

 そうした情報収集・学習はまだ始まったばかりだが、そう遠くないうちに本人よりもAIの方が自分のことを詳しく知るようになりそうである。AIはわれわれの健康を管理し、人間関係の相談に乗り、注文しなくても必要なものを手元に届けてくれるようになるのだ。

 AIによって世の中がどう変わるのかは想像がつかない。ただ、生活の利便性が高まるだけには留まらないことは確かだろう。例えば、選挙の投票行動に影響を与えたり、株や為替相場などにも深く関わってくるかもしれない。どこかの国の大統領選やその後の金融相場の予想外の動きなどを見ると、すでにAIの影が忍び寄っているのかもしれない。

経済成長という幻想

 最近、ニュースでは経済成長という言葉が金科玉条のように毎日繰り返されるようになった。だが、経済成長は本当に必要不可欠なものなのだろうか。成長が滞るとととんでもないことになると誰もが思い込まされているが、果たしてそうなのだろうか。そんな疑問が募る中、世界の経済成長はすでに限界を迎えているという興味深い番組があった。

 250年前、アダム・スミスは「皆が己の利益を追求しても、『見えざる手』に導かれるように市場は調整されうまくいく」と説いた。資本主義の始まりだ。その後200年あまり、世界経済は好況と不況を繰り返しながらも成長を続けてきた。ところが20世紀後半になると成長率の鈍化が顕著になってきた。

 それを打破するためにさまざまな手が打たれた。その一つが金融ビジネスの発明である。様々な金融商品が開発され、以前とは桁違いのお金が動くようになった。だが、結局、行き着いた先はリーマンショックだった。その後も世界各国は何とか高い成長率を回復しようと大幅な金融緩和を行っているが一向に効果が現れない。その結果、資本主義の必然として経済は成長するという考え方自体が実は幻想ではないかと考える人が出てきたのである。

 そもそも成長と言えば聞こえがいいが、実は一部の先進国が後進国から搾取することで潤ってきただけではないのか、と彼らは指摘する。資本主義の推進力である競争は、未開の国に犠牲を強いることで先進国内ではかなり和らげられて来た。だが、今やかつての後進国は次々と発展を果たし、先進国のツケを押し付ける先がなくなってきている。

 そうした中で先進国が従来の成長を維持しようとすれば必然的に競争が激化する。その結果、どうなるか。これまで国外に強いてきた犠牲を国内のどこかに押し付けるしかなくなる。近年、世界中で格差が急速に広がりつつある背景にはそうした事情がある。

 格差はもともと資本主義の宿命でもある。競争では勝者がいれば敗者がいる。放っておけば勝者は1人だけになり、残りは全て敗者になりかねない。それを防ぐために国家はさまざまな規制を設けてきた。だが、国際競争が激しくなるにつれて、国も競争力確保のために国内でのそうした規制を緩め、格差容認に舵を切らざるを得なくなってきたようだ。

 安倍政権は常々、強者を富ませればそのおこぼれで弱者にも富が行きわたると説明し強者を優遇してきた。だが、そうした恩恵が弱者に及んだという話は聞かない。儲かっている企業に給与を増すよう奨励しているが、競争が激化する中で法的拘束力もないそんな呼びかけに応ずるわけがない。政府の本音は、経済成長を振りかざすことで社会の批判を巧妙にかわしつつ格差社会の定着を図ることなのではないだろうか。

 そもそも経済成長と幸福はイコールではない。成長を追いかけることで格差が広がり不幸になったのでは元も子もない。にもかかわらず政府はいまだに経済成長があらゆることを解決してくれると信じている。いい加減に幻想から覚め、もっと多様な視点で生活の質を向上させる方策を本気で考えるべきではないだろうか。

現実逃避

 かつて学生だった頃は、今に比べて日本人も謙虚で、「欧米人に比べると日本人は堂々と意見を述べることができず、相手を説得することが苦手だ」というような言葉をしばしば耳にした。ところが最近では逆に日本人の良いところを誇示するような報道が目立つようになった。そうした日本礼賛において必ず引き合いに出されるのが中国である。

 この15年ほど仕事で中国に関わってきたが、だからと言ってことさら中国の肩を持つつもりはない。当局の一方的な主張には、時にはムッとくることもある。しかし、それにしても日本のマスコミのあまりにも偏った無責任な報道には違和感を覚えるだけでなく腹が立つ。なぜなら、そうした報道によって損をするのは結局我々日本人だからだ。

 20年ほど前には中国に脅威を感じる日本人などほとんどいなかった。当時、日本の経済力は中国の5倍もあり、それを背景に政府も自信を持って中国に対応して。しかし、その後の中国の急拡大と日本経済の長期にわたる停滞により、今では中国のGDPは日本の3倍ほどになった。立場がすっかり逆転してしまったのである。

 政府としてはこうした自国の体たらくを国民にさらけ出したくはない。国民としても、かつて上から目線で見ていた中国に対して現実を受け入れるのには抵抗がある。そんな空気を読んでマスコミは反中意識を煽り、国民の自尊心をくすぐるような報道に力を入れるようになったのではないか。だが、自ら反省することなく他人のアラばかり探すのは現実逃避に他ならない。そのツケは必ず自分たちに返ってくることになる。

 中国は国土も広く政治体制も日本とは異なる。そこには日本人が想像できないような多様な価値観が存在する。それを「尖閣」「爆買い」「シャドーバンク」などのわずかな、しかも負の側面からばかり見たキーワードで理解することは到底不可能だ。

 日本のテレビなどで中国の不動産バブルや理財商品で大損をした人たちが紹介されると、中国人は強欲で愚かな人々であるかのような印象を受けるだろう。確かに中国人はお金に対して日本人より関心が高い。常にお金を増やすことを考えている。しかし、だからと言って彼らはいわゆる金の亡者ではない。お金に対する執着心はむしろ日本人のほうが高いのではないか。ある意味、彼らはお金を冷めた目で見ている。だが、マスコミは決してそうした価値観の違いを伝えようとはしない。

 一方で、中国の若者の多くは漫画やアニメを通して日本の文化を吸収し、日本人の微妙な心の機微にも通じている。日本文化に憧れ日本のことが大好きな人も少なくない。「だから日本は優れているのだ」と自己満足に浸る日本人も多いが、相手を知るという点では日本は中国に完全に遅れをとっていることを認識すべきだろう。

 日本に好感を持ち日本語も解する中国人が、日本のマスコミの報道を見てはたしてどう思うだろうか。相手の良いところを語れなければ、相手を批判する権利はない。もう少し大人になって現実を見据えてみてはどうだろうか。

人口知能

 先日、グーグル傘下のディープマインド社が開発した人工知能囲碁ソフト、アルファー碁が、世界最強囲碁棋士の一人であるイ・セドル9段との5番勝負に4勝1敗で勝利した。

 これにより、とうとう人工知能が人間の知能を凌駕する日が来たと嘆く声が聞かれる一方、すでに将棋ではプロ棋士に勝っている人工知能が囲碁で勝っても不思議はないという意見もあった。人工知能と一口に言ってもその意味は曖昧で、今回の結果をどのように評価すべきかは、一部の専門家を除けばよくわからないというのが正直なところではないだろうか。

 チェスにおいては20年ほど前にすでにコンピューターが世界チャンピオンに勝利しているが、その際、コンピューターはあらゆる手筋をしらみつぶしに計算した。しかし、囲碁や将棋においてはチェスに比べて指し手のパターンがはるかに多く、コンピューターといえども全てを読み切ることはとてもできない。そこで登場するのが人工知能の技術だ。先を読む計算に加えてコンピューターに過去の膨大な棋譜を記憶させ、それを参考にしての各局面を判断し最善と思われる手を打っているのである。

 こうした話をすると多くの人が、人工知能は自らの知識で状況を判断しているのだと思うだろう。だが、実はその判断基準を決めているのは人間なのである。あらかじめ様々な局面を想定し、打てそうな手を幾つか選び出し、一つ一つにどの程度有利な手か点数を付けておくのだ。その際の人間の判断が、事実上コンピューターの強さを決めているのである。

 当然、この作業は膨大で人間がやれる範囲には限りがある。そのため、将棋においてはこのところプロ棋士並みに強くなったが、さらに指し手のバリエーションが多い囲碁では、コンピューターは最近までプロ棋士には全く歯が立たなかったのである。

 人間に頼らず人工知能が自ら局面の特徴を判断し最善手を見つけ出すことはできないものだろうか。実は囲碁や将棋に限らず画像や言語などの認識においても、人工知能が自ら特徴を見つけ出し学習していくことは苦手なのである。たとえば、人は一度コアラを見ればすぐにその特徴をつかみ、次にコアラを見れば一目でコアラだとわかる。しかし、人工知能ではあらかじめコアラの特徴を人間がインプットしてやらなければならないのだ。この特徴を学習する能力の低さは人工知能の最大の弱点であり、人工知能の利用範囲を著しく狭めてきたのである。

 ところが、2012年にその状況を一変させる事件が起きた。「ディープラーニング」の登場である。トロント大学のJ・ヒルトン教授が開発したこの方法により、人工知能が自ら特徴を見つけて学習する能力が飛躍的に高められた。その効果は絶大で、囲碁ソフトは専門家も驚くほど急速に強くなったのである。

 ディープラーニングは、現在、人工知能に革命を起こしつつある。それは囲碁に限らず、自動車運転の自動化のような劇的な変化を日常生活に引き起こすと考えられている。われわれは、今、人類史上稀に見る変革の時を迎えつつあるのかもしれない。