市場原理と環境問題

 先日、自動車メーカーのホンダが太陽光発電に本格参入すると発表した。ホンダの戦略は、将来、各家庭に太陽光発電装置を設置し、それにより水を電気分解して水素を作り、その水素を燃料として燃料電池車を走らせるというものである。これならCO2の発生は全くないが、しばらく前なら夢物語といわれた話である。しかし、石油がなくなれば、いずれガソリン車は走らなくなる。ホンダの決断には、将来への危機感がにじみ出ている。

最近、明らかに世の中の環境問題に対する意識が変わってきた。大きな転換点となったのは、3年ほど前から始まった原油価格の急激な上昇だろう。石油はこの100年余り、人類に便利さと快適さを与えてきたが、その代償として莫大なCO2が発生し、プラスティック製のゴミが世界中に溢れることになった。しかし、資本主義の原理は、企業に対し、環境を優先し石油の使用を止めるなどという選択を許さなかった。そんなことをすれば、たちまち市場で競争力を失ってしまうからである。企業の成長とはすなわちより多くの石油を使うことであったのだ。しかし、産油量に陰りが見え、原油価格が上昇を始めたことにより、石油の大量消費は必ずしも経済原理にそぐわなくなってきた。

しかし、国の環境対応は相変わらず遅い。1997年に京都議定書で、議長国日本は2012年までに6%のCO2排出量削減を掲げているが、逆にこの10年間に排出量は8%も増加している。先日の参院選でも、環境問題に関する議論など全く聴こえてこない。石油不足や温暖化の進行により、従来産業が成り立たなくなるような事態になれば、日本の経済は少なからぬ影響を受けるだろう。確かに年金問題も重要ではあろうが、環境の影響を無視して経済予測を立て、それをベースに年金計画を立てても、絵に描いた餅になるだけである。

 一方、企業の動きは速い。これまで、「業績の足を引っ張る」と環境対策にネガティブだった企業が、ここに来て一転して環境対策に力を入れ始めている。上記のホンダ以外にも、トヨタ自動車は主力の堤工場内に太陽光発電所を設ける。自動車が出すCO2を抑えるだけでなく、自動車の製造においてものCO2発生を抑えるためである。キリンビールはビールかすからバイオエタノールを生産する実験プラントを立ち上げている。従来、コストが合わなかったが、原油価格の上昇により採算が取れるようになったからだ。環境対策がビジネスになり、環境対策が企業の競争力を高める時代がやってきたのである。

一旦、そうした流れが始まると、今後、企業活動の隅々まで脱石油・CO2削減の動きが急速に進む可能性がある。そうなれば、その波に乗り遅れた企業は市場から姿を消すことになるだろう。かつて1970年代の石油ショックの後、いち早く燃費向上を図ったことが、現在の日本の自動車産業の隆盛をもたらした。今回の第2の石油ショックを契機に、環境対策への取り組みが、世界の企業の勢力地図をがらりと変える可能性は十分にある。

結局、市場原理が引き起こした環境問題は、市場原理によってしか解決できないということなのだろうか。その是非はさておき、今はそれが間に合ってくれることを祈るのみだ。

コンピューター将棋

1996年、世界最強のチェスのチャンピョンがIBMのコンピューター「ディープブルー」に敗れ衝撃が走った。しかし、相手から取った駒を打つことができ、敵陣では「成る」こともできる将棋においては、展開ははるかに複雑で、その後10年間、コンピューターは人間に全く歯が立たなかった。ところが、昨年、将棋には全くの素人のコンピューター科学者、保木邦仁氏が作った将棋ソフト「ボナンザ」が彗星のように現れ、世界コンピューター将棋選手権を制すると、その腕前はプロにも迫ると評判になった。

そのボナンザが、先日、棋界のエース、渡辺竜王に挑戦した。当初の予想では、さすがに竜王の楽勝であろうと思われていた。しかし対局が始まると、この対戦に向けて改良を加えてきたボナンザは想像以上に強く、勝敗の行方は予断を許さないものとなった。観戦するプロの棋士達からも、「これほど強いとは...」と一様に驚きの声が上がった。結果的に、辛くも竜王が勝利したが、あと一歩のところまで追い詰められたきわどい勝負だった。

ボナンザは、差し手を何手か先までしらみつぶしに計算する全幅探索という手法を取っており、1秒間に400万局面を読むことができる。さらに、過去の有名棋士の対局を50万局以上記憶しているという。この膨大な数字を聞くと、むしろ人間が勝てるのが不思議な気がしてくる。将棋は通常、百数十手程度で勝負がつくが、もし最後まで読み切れるとすれば、勝負をする前にコンピューターの勝ちとなってしまう。しかし、1手ごとに駒の動かし方は何通りもあり、さらに取った駒をどこに打つか、敵陣に入った駒が成るか成らないかなどということまで考えると相当な数になる。10手先ではその10乗通りになり、たちまち気の遠くなるような天文学的数字になってしまう。コンピューターといえども、とても最後まで読みきるものではない。となると、何手か先まで読んだところで全ての局面を比較し、最も有利な手を選択しなければならなくなる。そこでボナンザは、駒の損得などを評価基準とし、さらに自ら記憶した50万局のデータを考慮して最善手を決定するようプログラミングされている。

しかし、実はそこに将棋ソフトの最大の弱点がある。過去の名人達のデータに照らし合わせて判断するとはいえ、コンピューターはあくまでも定められた基準に基づき比較するだけである。それに比べ、棋士はいわゆる「大局観」に基づき判断し、時に瞬間的に思わぬ手筋がひらめく。その思考の仕組みは未だに謎であり、コンピューターでの再現は全く不可能である。全ての局面を読むことはできなくても、集中した竜王の頭脳は、ボナンザがカバーする領域を超えて、さらに有利な手を見つけ出すことができたのである。

近い将来、コンピューターに人間が勝てなくなる日が来るかもしれない。しかし、将棋の面白さは勝敗だけではない。人間の鍛え抜かれた頭脳が見せる思考の妙にあるのである。コンピューターの力技がいくら進化したとしても、天才棋士の繰り出す絶妙の一手が魅力を失うことはなさそうである。

生産消費者

新年は毎年、世界を様々な側面から分析する特集番組が多い。無くならない国際紛争や貧困。環境汚染や地球温暖化の問題。中国などの台頭に、日本は果たして生き残っていけるのか、などなど。しかし、今年はそうした問題にあまり目を向ける気がしない。世界が置かれている難しさは、その根本に富をめぐる熾烈な競争があり、それがなくならない限り、何をやっても無駄なような気がするからだ。冷戦終結後の新興国の台頭により、世界的に競争が激化している。旧来の先進国も、かつての優位を守ろうと必死だ。節度のない競争が、イラク戦争の泥沼を招き、弱者がその皺寄せを被っている。世界中に横行する無理は、いたるところに歪のエネルギーを蓄え、テロという形で爆発する。こうしてつかんだ富は、果たしてその人を幸せにするのだろうか?富をめぐる競争は、地獄に向かってまっしぐらに進んでいるように見えるのだが。

新聞に目を落とせば、最近は消費行動が複雑化して、消費者のニーズが読めないと大袈裟に嘆いている。99円ショップでキャベツを売ったところ、同じ99円なのに丸ごと1個より半分に切ったもののほうが多く売れたそうだ。単に、要らないものは買わない正常な行為に見えるのだが...。要らないものを無理やり売ろうとするから、消費行動が複雑に見えてくるのである。

そんな中、ある番組の「生産消費者」という言葉が目に留まった。もともとガソリンスタンドでガソリンを消費者自ら入れるような場合を指す。従来、売る側、つまり生産者が行っていたサービスを消費者が肩代わりする。要はセルフサービスである。しかし、最近、この生産消費の拡大は、生産者と消費者の壁を壊し始めている。

安全でおいしい有機野菜を食べるため、スーパーに頼らず、何人かで集まって生産者から直接買う人がいる。さらに、休日に自ら畑を耕して、自宅で食べる以外にも、インターネットで販売を始めている人も現れた。ボランティア活動も生産消費行為だ。定期的に自費でアフガニスタンに医療活動に出かける医師がいるという。自分にしかできない人助けは、何ものにも変えがたい充実感をもたらす。かつてなら、「趣味」という言葉で片付けられていたこうした行為は、生産でもなく消費でもない新しいパワーとして、徐々に世の中に浸透しつつある。

生産消費者は、自分が本当にやりたいことに時間を使う。要らない人に無理やり売るようなこともしなければ、競争で人を蹴落とすこともない。インターネットも、彼らを全面的に後押しする。生産と消費の意味を変える生産消費者は、将来、世界的な紛争を解決する切り札になるかもしれない。生産消費者ネットワークが育てたリナックスが、商業主義の権化マイクロソフトを震撼させたことは、それが夢ではないことを物語っている。

100円ショップウォッチング

 最近の100円ショップの充実振りには目をみはるものがある。文房具や台所用品などはもとより、自転車関連やガーデニング用品、防災グッズなど、何でもある。先日は、カメのエサも見つけた。あまり買ったことはないが、地図や文庫本、CDや英語の教材、おもちゃなども着実に品揃えが増えている。

10年ほど前に100円ショップが登場した頃は、品揃えは主に景品でもらうアイデア商品のようなものばかりで、品質も粗悪だった。安いからといって買ってきても、結局は使えず、100円の限界を感じたものだ。しかし、最近はサイズもデザインも実用に耐えるものになった。5mの金属製メジャーや自転車用のLEDライトなども、よく100円で出来るものだと感心する。元来得意のアイデア商品も健在である。台所用のゴミ箱には、スーパーのレジ袋を引っ掛けられる爪がついているし、水拭きで何でも取れる新素材の雑巾なども、なかなかの優れ物である。

もちろん、必要なもの全てが100円ショップで揃うわけではない。特に、「良いものを永く」使う場合には不向きだ。ただ、普段の生活には、あれば便利なのだが、ないならないなりに済んでしまうものが以外にたくさんある。いちいち買い揃えると、結構、お金もかかるので、つい不便なまま過ごしている。そうしたものこそ、100円ショップの出番である。言ってみれば、生活をスムーズにするための潤滑油なのである。

ところで、100円という低価格を可能にしたのは、なんと言っても中国をはじめとする生産の海外シフトである。しかし、海外で作れば誰でも安くできるわけではない。100円ショップへの納品価格は35円程度であると言われている。その中には、製品本体だけでなく、包装コスト、現地の工場から日本の倉庫までの運賃、通関などの輸出入に伴う費用が含まれれる。そしてさらに、何よりも検品コストが必要となる。

確かに中国では、一袋100本入ったボールペンが100円で手に入るかもしれないが、そのうち何割かは、すぐに書けなくなってしまう。日本の品質基準をクリアするためには、必ず厳しい検品が必要である。しかし、品質に対する考え方が全く違う現地の人たちに任せても、なかなか品質の向上は難しい。場合によっては、日本人自ら、検品の陣頭指揮を執らざるを得ないだろう。しかし、それではコストは抑えられない。100円という制約の下で品質をクリアすることは、並大抵のことではない。

今や中国人自身が100円ショップで買い物をして帰るという。中国製にもかかわらず、日本で買ったほうがコストパフォーマンスが高いのである。100円ショップの製品は、まさに日本人がこの10年間に海外と協力して達成したコストダウンの結晶なのである。

マネーゲーム

 昨年は久々に株式市場が活況を呈した。そんな矢先、年明け早々、ライブドア事件が発覚すると、マスコミからはそのマネーゲームに対する非難が相次いだ。しかし、その論調には、素人相手の幼稚なあざとさを感じざるを得なかった。今や、マネーゲームという毒を飲まなければ市場は生きていけないというのは、社会の常識ではなかったのか。

 株はもともと企業が事業に必要な資金を獲得するための手段である。会社は株を発行することによって、投資家から資金を得る。投資家は見返りとして、投資額相当の経営権を獲得し、同時に会社が稼いだ利益の一部を配当として受け取ることができる。会社の業績が良ければ、株の価値は上がり、配当も増える。従って、より高い価格でもその株を手に入れたいという人が現れる。そのニーズに応えるため、株式を自由に売買できる株式市場が創られ、同時に株価の決定が市場に委ねられることになった。一方、企業は新株を発行する際、この市場価格を元に売り出すことができ、業績が良く、株価の高い会社は、有利に資金調達ができるようになったのである。

ところが、株式市場が一旦形成されると、そこで株を売買する人々の関心は、会社の経営権や配当から、株をいかに安く買って高く売るかということに移った。その点では、大掛かりに株式を運用して利回りを稼ぎ出す生命保険会社も、パソコンの前に張り付き、ネット売買に没頭する個人投資家も同じである。いずれも、いかに早く株価の変化を予測し、対応するかで勝負が決まるのである。

株価は買いたい人が多ければ上がるし、売りたい人が多ければ下がる。一見、単純に思われるが、多くの思惑が絡む市場は非常に曖昧で複雑な動きをし、株価の変動を正確に予測する方法は未だに存在しない。現在、株式の運用技術で最先端を走っているのは、ヘッジファンドと呼ばれる資産運用会社であろう。彼らは、先物取引などの金融派生商品を巧みに組み合わせ、金融工学の複雑な理論を駆使し、株価が値上がりしても値下がりしても利益が出せる運用方法を開発している。まさに現代の錬金術である。

高度化したマネーゲームは、巨額の資金を動かすようになり、東京証券市場では、毎日、何兆円もの取引が行われる。その結果、企業業績ではなく、マネーゲーム自体が株価に大きな影響を与えるようになる。さらにはその株価が企業業績自体に影響を与えるという逆転現象も起こってくる。マネーゲームに翻弄されて経営がおかしくなってしまう企業も出てくるのである。それでも株式市場は必要だというのが社会の認識である。世界規模のマネーゲームが、今後、ますます熾烈を極めることは避けられそうもない。

コスト競争の落とし穴

先日、かつて勤めていたハイテクメーカーS社で展示会を行ったが、全体的に元気がない。かつては日本の強さの象徴だった彼らも、今では韓国や中国のメーカーに追い上げられ、口を開けばコストの話ばかりである。ハイテクに限らず、現在、世界の市場は供給過剰であると言われている。メーカーは消費者が必要とする何倍もの製品を生産し、それを無理やり売ろうとしている。当然、価格は下落し、メーカーは一層のコストダウンを強いられる。こうしたコスト競争は、一見、消費者にとってありがたいことのように見えるが、実は逆に消費者離れを促進する原因となっているように思える。

電気製品の急激なコストダウンが始まったのは、バブルの崩壊期と重なる。景気の低迷で購買力が低下しはじめた1990年代のはじめ、各電機メーカーは、コスト低減のために競って生産の海外シフトを図った。その際、どこで誰が作っても同じものができるように、部品の共通化、一体化を推し進めた。当時始まったデジタル化による技術革新がそれを後押しした。AV機器の心臓部は共通化され、安いものでも十分なクオリティーが得らようになっていった。そして今や、メーカーや価格帯によらず、蓋を開ければ中身はほとんど同じである。こうして先端技術を投入し、ひたすら画一化によりコストダウンを図ってきた各メーカーが、今、他社と差別化できずに苦しんでいるのである。

現在、市場では、低価格品と高級ブランド品との両極化が進んでいる。低価格品では、必要最小限の機能のみを残し、コストを極限まで抑える。しかし、そうした安物にすべての消費者が満足するわけではない。そこでコストは二の次にし、消費者の満足度を第一に考えた製品の市場、つまり高級ブランド市場ができる。ブランド品というと、それを所有するステイタスばかりが強調されがちだが、真のブランド品とは、低価格品では決してかけられないコストを十分にかけ、低価格品では決して得られない満足を与えることができる製品を言うのである。

かつてハイテクという言葉は、技術の先進性をブランド化した言葉であった。他人より優れた性能を所有することは喜びであり、それによる価格の上昇は、むしろ所有する者に一種のステイタスをもたらした。しかし今やハイテクは、すっかりブランド性を失い、むしろ画一化の同義語になりつつある。

コストダウンに反対する人はいない。それはあたかも錦の御旗のようだ。しかし、その結果、企業は製品に魅力を吹き込む術を忘れしまった。消費者から見放された企業を待つのは、さらに厳しいコスト競争だけである。

石油がなくなる日

このところ石油価格は不気味な上昇を続けている。これまでひたすら増え続けてきた産油量は、ここに来てそのペースに翳りが見え始めている。多くの専門家の間では、今後の採掘技術の進歩を考慮しても、石油の産出量は現状がほぼ限界で、将来的に減少に転じ、2050年頃には今の半分くらいまで落ちるのではないかと予想されている。限りある資源であるにもかかわらず、人類は石油を使い放題使い続けてきたが、産油量の頭打ちという事態に至って、市場もとうとうその重大さに気が付いたのである。

もし突然、石油の供給がストップしたらどうなるか。クールビズで省エネする程度で済む話ではない。そもそも、20世紀の世界の人口の急増は、食料生産や物流などの能力が、石油という地下から湧き出た恩恵によって飛躍的に向上したおかげである。石油がなくなれば、途端に現在の世界人口をまかなうことはできなくなる。さらに、20世紀に人々の生活の質を劇的に変えた科学技術、そしてそれによる世界的な経済の拡大は、石油なくしてはありえなかった。現代社会は石油の上に成り立っていると言っても過言ではない。

もちろん石油はある日突然なくなるわけではない。それに向かう過程でさまざまな対策が打たれるだろう。石油に代わる再生可能な資源として、昨今ではバイオマス(生物資源)の有効利用を叫ぶ声も高い。しかし、これまで石油に頼ってきたものを、バイオマスですべてまかなうことは、量的にも質的にも到底無理である。石油はそれだけ並外れて手軽で便利な資源だったのである。ポスト石油社会においては生活の便利さは間違いなく低下する。人類は生活と価値観を大幅に変える必要に迫られるに違いない。

今後、石油をめぐる争いはますます熾烈になっていくだろう。イラク戦争が石油利権の獲得を目的にしたものであったことは周知の通りである。今後、石油の争奪戦が人類を戦争にすら巻き込んでいかないとも限らない。一方で、企業においては石油を使わない技術開発もすでに始まっている。自動車メーカーが省エネカーや燃料電池車の開発にしのぎを削っているのはその典型だろう。ポスト石油への対応は、石油が不足してからでは遅い。石油不足にいち早く対応できた企業のみが優位に立つことができる。石油がなくなる日を見据えての、企業間の生き残りをかけた壮絶な戦いはすでに始まっている。

石油の不足は、社会のパラダイムシフトを引き起こすに違いない。これまでのように大量生産し大量消費させたものが勝つ時代は遠からず終わるからである。その結果、人々の関心が物質的なものから精神的なものに向かうと期待するのは楽観に過ぎるだろうか。