ニュートン的「時間」の功罪

ニュートンは、物理学における時間を「時計で測る量」であると定めた。時計で時間を測るといっても、もちろん時計に時間を感知するセンサーがついているわけではない。時計はただ一定の速さで針を動かす機械である。時間を測ると言うが、時計の針がどれだけ動いたか、それを測っているだけである。時間があるから時計が進むのではない。時計の進みが時間を刻んでいくのである。ここにはニュートンの巧妙なトリックがある。彼は「一定に変化するものの変化量」を「時間」と定義することによって、あえて時間そのものについての言及を避けたのだ。ただし、これだけでは物理法則としては成り立たない。彼はもう一つ巧妙なトリックを使っている。それは、正確に作られた時計は、宇宙のどこにおいても、同じ速さで針を動かし続けるというものである。これは一見当たり前な仮定と思われる。全く同じ性能の時計ならば、特にそれに力が加わらない限り、それがどこにあっても同じように時を刻むというのはもっともらしいことである。この仮定は、後にアインシュタインの相対性理論の中で否定されることになる。時計の進む速さは座標系によって変わるとしなければ、矛盾が生ずることがわかったのである。しかし、いずれにせよ、それはあくまでニュートンの時間に対する「修正」であって、時間の測り方と定義についてはニュートンの用いたものと同じなのである。

こうしてニュートンは物理学に時間という客観的な量を導入することに成功した。一旦「時間」が定義され、運動方程式のなかの1変数として定められると、その数学的な取り扱いやすさによって自然科学は急速に進歩を遂げた。天才ニュートンの慧眼はまさに恐るべしと言えるが、同時にこの宇宙には一定の速さで時間が流れているという世界観が、いつしか当たり前のものとなってしまった。もちろん、こうした物理的世界観はエレガントでわかりやすく、しかも常に厳密に成り立っている。いまやこのニュートンが導入した時間の概念と高精度の時計なしでは、現代社会は成り立たないと言っても過言ではない。現代人はすっかり彼の「時間」に支配されてしまったのである。

しかしこの有様を見たら当のニュートンは驚くに違いない。物理学者であると同時に神学者でもあった彼にとって、「時間」はあくまでも物体の運動を正確に、しかも簡潔に記述するためのもので、宇宙の仕組みを明らかにするような大それたものではなかった。「時間」の導入に際して、一切の主観を廃した彼が、時間というものをどのように考えていたかは、実は知れたものではないのである。

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