便利さが奪うもの

かつてLPレコードというのはかなり高価なものだった。小遣いをはたいて買ってきたレコードを、傷つけないよう慎重にジャケットから取り出し、静電気で付いた埃を入念に取り除く。演奏中のプツプツというノイズを減らすためだ。そして静かにレコードが回り始める。針が落ち、曲が始まるまでの数秒間、呼吸を整え、一気に集中力を高めたものだ。

CDが登場すると、傷も埃も気にする必要はなくなった。音質は向上し、操作も手軽になった。気がつけば、かつては宝物のように大切にしてきたレコードも全く出番がなくなってしまった。しかし、先日、ふと思った。CDで音楽を聴くようになって久しいが、かつてレコードから受けたような感動を受けたことがあるだろうか。心を揺さぶられた演奏の記憶はなぜかレコードの頃のものばかりなのである。

レコードがCD、さらにはiPodへと移り変わってきたのと同じように、現在、フィルムカメラはデジカメに変わりつつある。フィルムが不要で、撮ったその場で見られ、しかも失敗しても何度でも撮り直しが利くデジカメは、フィルムカメラに比べ遥かに便利である。何の気兼ねもなく、パシャパシャといくらでもシャッターが切れる。しかし、いざ本気で撮ろうとすると、逆にこの手軽さが邪魔になる。なんとも気合が入らないのだ。

便利さは煩雑さを取り除いてくれる。それ自体は悪いことではない。しかし、何か肝心なものまで失われてしまっているのではないか。便利だが質は劣るという場合はまだ良い。例えば、冷凍食品の味は、まだちゃんと作った食事には及ばない。しかし、冷凍食品の方が断然おいしく、しかも安くなったらどうなるのだろうか。CDやデジカメのように、手作りの料理に取って変わってしまうかもしれない。しかし、料理に手間をかけるのは、ディメリットばかりではない。自分で作るからこそ、味に個性が出る。自分でこだわって作るからこそ、おいしそうに食べる顔を見る喜びがあるのである。便利さは、そうしたものまで同時に奪ってしまうのである。

最近のテクノロジーの進歩は、便利さを生活の隅々にまで行き渡らせつつある。人間は元来、怠け者である。より便利なものが現れると、それまでのものは急に不便に感じられ、たちまち淘汰されてしまう。そして麻薬のように、一度慣れてしまうと、もう後には戻れない。今や便利さは消費行動を決定する最大の要因なのである。

このところ、元旦から開くスーパーも現れた。確かに正月も開いているとなれば、年末にたくさん買い込む必要もない。しかしその便利さは、正月独特のゆっくりとした時間の流れを奪い、普段と変わらぬ生活を押し付ける。いったい何のための便利さなのか。

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