毎日モーツァルト

今年はモーツァルトの生誕250周年である。NHKではそれにちなんで、「毎日モーツァルト」という番組をやっている。文字通り、1年を通して毎日1曲モーツァルトの曲を紹介していく番組である。当初は110分ではどんなものかと思ったが、毎日毎日、モーツァルトの曲が、その頃の生活とともに淡々と紹介されていくのを観るうちに、いつの間にか自分のなかに今までとは違ったモーツァルトが棲み始めているのに気が付いたのである。

ベートーヴェンやバッハの音楽は、彼らの人格と良く釣り合いが取れているように見える。しかしモーツァルトにおいては、その偉大な作品に比べ、あまりその人物像が浮かび上がってこない。永年の間にモーツァルト愛好家は、彼の音楽に対し、「完璧な調和」「無限に溢れる楽想」といったレッテルを貼り、彼を人智を超えた超人的な存在として崇めてきた。音楽の神童に、いつしか肉体は似合わなくなってしまったのである。

しかし、「毎日モーツァルト」における彼は、まさに生身の人間である。故郷のザルツブルクを飛び出し、職探しに奔走する彼は、今か今かと朗報を心待ちにする。職に就けない彼は、遂に恋人のアロイジアにも振られてしまう。父へ手紙を書くことすらできないほど落ち込むモーツァルト。そこには、傷つきやすく、しかし決して自らを偽ることのない、まさに彼の音楽そのもののような人間が横たわっているのである。

1887年、彼は大きな不幸に見舞われる。妻のコンスタンツェとザルツブルクの父の元に息子の誕生を報告し、ウィーンに戻ってきたときのことである。乳母に預けてあった幼い息子が、その旅の間に死んでいたのである。驚くべきことに、あの明るいK333のピアノソナタは、その直後にかかれたものらしい。番組で静かに流れ始めた第2楽章に、僕の心は惹き付けられる。

方向性のない主題は、まるで茫然としたモーツァルトの心を映しているようだ。穏やかだが、何かを回想するかのようなメロディーが胸をつまらせる。一瞬、曲は淀み、突如として抑えがたい激情がほとばしり出る。が、すぐにそれを振り払うように、音楽は再び前に進み始める。あたかも幸福は常に悲しみと隣りあわせであり、しかし、どんな悲しみも新たな希望への始まりだと言い聞かせるように。

モーツァルトの音楽の最大の魅力、それは、あらゆる苦労も美談も、その前ではわざとらしく見える程の、彼の音楽の説得力にある。しかし、それは空想の中で生まれたのではない。キリストに肉体があったように、モーツァルトという一人の人間がいたからこそ、彼の音楽がこれほど多くの人の心を動かすことができるのである。

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