生産消費者

新年は毎年、世界を様々な側面から分析する特集番組が多い。無くならない国際紛争や貧困。環境汚染や地球温暖化の問題。中国などの台頭に、日本は果たして生き残っていけるのか、などなど。しかし、今年はそうした問題にあまり目を向ける気がしない。世界が置かれている難しさは、その根本に富をめぐる熾烈な競争があり、それがなくならない限り、何をやっても無駄なような気がするからだ。冷戦終結後の新興国の台頭により、世界的に競争が激化している。旧来の先進国も、かつての優位を守ろうと必死だ。節度のない競争が、イラク戦争の泥沼を招き、弱者がその皺寄せを被っている。世界中に横行する無理は、いたるところに歪のエネルギーを蓄え、テロという形で爆発する。こうしてつかんだ富は、果たしてその人を幸せにするのだろうか?富をめぐる競争は、地獄に向かってまっしぐらに進んでいるように見えるのだが。

新聞に目を落とせば、最近は消費行動が複雑化して、消費者のニーズが読めないと大袈裟に嘆いている。99円ショップでキャベツを売ったところ、同じ99円なのに丸ごと1個より半分に切ったもののほうが多く売れたそうだ。単に、要らないものは買わない正常な行為に見えるのだが...。要らないものを無理やり売ろうとするから、消費行動が複雑に見えてくるのである。

そんな中、ある番組の「生産消費者」という言葉が目に留まった。もともとガソリンスタンドでガソリンを消費者自ら入れるような場合を指す。従来、売る側、つまり生産者が行っていたサービスを消費者が肩代わりする。要はセルフサービスである。しかし、最近、この生産消費の拡大は、生産者と消費者の壁を壊し始めている。

安全でおいしい有機野菜を食べるため、スーパーに頼らず、何人かで集まって生産者から直接買う人がいる。さらに、休日に自ら畑を耕して、自宅で食べる以外にも、インターネットで販売を始めている人も現れた。ボランティア活動も生産消費行為だ。定期的に自費でアフガニスタンに医療活動に出かける医師がいるという。自分にしかできない人助けは、何ものにも変えがたい充実感をもたらす。かつてなら、「趣味」という言葉で片付けられていたこうした行為は、生産でもなく消費でもない新しいパワーとして、徐々に世の中に浸透しつつある。

生産消費者は、自分が本当にやりたいことに時間を使う。要らない人に無理やり売るようなこともしなければ、競争で人を蹴落とすこともない。インターネットも、彼らを全面的に後押しする。生産と消費の意味を変える生産消費者は、将来、世界的な紛争を解決する切り札になるかもしれない。生産消費者ネットワークが育てたリナックスが、商業主義の権化マイクロソフトを震撼させたことは、それが夢ではないことを物語っている。

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