記憶と時間

「もう少し記憶力が良かったら」と誰もが思う。受験でも仕事でも、英会話をマスターするためにも、常に記憶では苦労しているからである。しかし、人生を振り返れば、特に覚えようとしたわけでもないのに、さまざまな思い出が残っている。普段、思い出すことはなくても、当時の写真を見たり、昔の友に出会ったりすれば、堰を切ったようにかつての記憶が溢れ出る。自らの記憶力に不満を抱きながらも、われわれは日頃から、特に意識することなく、記憶の恩恵に与っているのである。

かつてイギリスの著名な指揮者だったクライブ・ウェアリング氏は、ウイルスの感染で脳に損傷を受け、重度の記憶障害に陥った。彼の記憶は7秒しか持たなくなった。病気以前の記憶も一部残ったが、それ以降、わずか7秒間の記憶が次々とリニューアルさるだけで、それ以上の蓄積はできなくなったのだ。病気の後、7年間、彼は延々と、自分の陥った境遇を知ってはショックを受けるということを繰り返した。何とか記憶力を取り戻そうと、日記に、「自分は、今、本当に目覚めた」と、繰り返し書き続け、極度の躁鬱状態に陥った。

その後、自らの境遇を受け入れられるようになったのか、彼は平静さを取り戻した。しかし、相変わらず彼の人生は病気になったときから7秒以上前に進むことはない。話をしながらも次々と内容を忘れ、たとえどんなに嬉しいことや辛いことがあっても、7秒後には全て忘れてしまう。彼は自らの状況を、「空虚なだけ。全く考えることができない。昼も夜もなく、夢も見ない。時間が存在しない世界。死んだも同じだ。」と語っている。

通常、記憶は時間の経過にともない薄れ、ぼやけていく。われわれが昔のことを昔と感じられるのは、時間の経過にともない記憶が変化していくからである。ウェアリング氏の場合、この変化はわずか7秒しか許されていない。彼にとっては、7秒より遠い過去は、感じることも想像することも出来ない世界なのである。

記憶の変化で時間を感じると言っても、時計のない真っ暗な洞穴のなかで、10日経ったか11日経ったかを区別するのは難しい。時間をより正確に感じるためには、記憶の変化を物理的な時間と結びつける必要がある。そこで我々は、しばしば腕時計に目をやり、どれだけ時間が経ったかを確認する。あるいは、「あれは、娘が小学校2年のときだったから...」というように、その記憶を客観的な日時に結びつけることによって、記憶による不正確な時間感覚を修正しているのである。記憶の変化を時計の進み具合と結びつけることによって、我々ははじめて正確な時間感覚を獲得することができるのである。ウェアリング氏の場合、こうした高度な記憶の働きはさらに困難だろう。想像するのは難しいが、彼が「時間が存在しない世界」を生きているというのは本当のことに違いない。

忘れないことが優れた記憶力だと思いがちだが、記憶が時とともに変化することによって、我々は時間を感じ人生を認識することができるのである。記憶は失われていくからこそ、その役割を果たしているのだ。

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