時間感覚

「年々一年が短くなっているような気がする」と年賀状に書いてくる人がこのところ目立つようになった。我が友人たちも大分歳を取ったということだろうか。

現代では、時間はいつでもどこでも一定の速さで流れていると思われているが、こうした時間の概念を最初にはっきりと示したのはニュートンである。彼は宇宙のどこでも一様に時間が流れると仮定することによって、天体の運行と木から落ちるリンゴを同じ運動方程式から導いたのである。こうして創られたニュートン物理学は、その後の科学の飛躍的な発展をもたらした。一定の速さで流れる時間という概念は、科学の時代の象徴となったのである。

一方、日常生活における主観的な時間感覚においては、時間は決して一定の速さで流れているわけではない。だが、そう感じるのはあくまでも心理的なものであり、時間そのものは一定に流れているという立場を取っている。われわれの主観的な時間感覚は、物理的な時間を優先させながらも、適当な自由度を保っているのである。

普段、われわれは、常に時間が経過していると感じており、それこそが時間感覚であると思っている。では、われわれは五感のどれを使って時間の経過を感じているのだろうか。確かに五感はさまざまな変化を感じ取っている。しかし、もし五感を全て失ったとしても、なお時間感覚はあるのではないだろうか。われわれの時間感覚は、外からの刺激を感じ取るというよりは、われわれの意識にもともと内包されているものなのである。

そもそも時間感覚のない意識というものは想像しにくいが、木村敏著の「時間と自己」によれば、離人症という病気になると時間感覚がなくなるという。あと何分あるとか、あれから何分経ったということが、頭では明瞭に理解できても、実感として全く感じられなくなる。興味深いのは、「現在」を感じるのが時間感覚ではなく、実は現在に至る過去の時間と、現在から未来に至る時間を感じることが時間感覚の本質だということである。

しかも、「あと何分」という感覚は、単にあと何分という感覚ではない。つまり、「もう何分しかない」のか、あるいは「まだ何分ある」というように、その時間を短く感じて焦ったり、逆に長く感じて余裕があるなどと感じている。つまり時間感覚には、単に時間の長さだけでなく、その時間が自分に持つ意味も同時に含まれているのである。

さらに、われわれ現代人は、時計を見ることにより、一定に流れる物理的な時間も取り入れている。時計を見て「あと何分」と感じながら、われわれの時間感覚は常に物理的な時間と意識内の時間のずれを調整しているのである。

年賀状を書きながら、「年々一年が短くなっているように感じられる」のは、自分の中の一年と客観的な一年のずれを感じることであり、そういう意味では、正常な時間感覚が働いているのである。

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