物理学者はこの宇宙の森羅万象は物理法則で決定されていると信じているが、物理学は数学抜きでは語れない。言わばなくてはならない商売道具なのだ。一方、数学者は物理学に用いられると考えて数学を作ったわけではない。彼らにとっては、幾何にしろ代数にしろ、矛盾のない論理体系を築き上げることが目的なのである。ピタゴラスやユーグリッドなどが活躍したギリシャ時代には、数学はすでに高度なレベルに達していたが、彼らにとっての関心事は数の世界に隠された真理の探究であって、数学を何かに役立てようという考えは全くなかった。物理学が誕生して数学が本格的に物理に応用され、科学の時代が花開くには、それから2000年以上待たねばならないのである。
微分積分学をニュートンが考えたのは、運動する物体のある「瞬間」の速度を決めるためだった。移動した距離を時間で割ると平均の速度が出るが、ある瞬間の速度を求めるためには、時間を無限に短くしなければならない。しかし、その極限では時間も移動距離もゼロになり、ゼロでゼロを割ることになってしまう。これは数学ではご法度である。かつて、ギリシャの数学者はこの点に危うさを感じ、結局、運動の問題には手を出さなかったのである。しかし、ニュートンはゼロの代わりに、無限に小さいがゼロではない数、「無限小」で割ることにした。詭弁のような話だが、「えい、やー」とやってしまったのだ。彼は自身も偉大な数学者だったが、道具としての有用性を重視し、数学的な厳密さには目をつぶったのである。彼は数学者である以上に物理学者だった。
こうして、数学は本格的に物理学に用いられるようになり、その後の200年余りはニュートン力学の発展に力が注がれた。しかし、20世紀初頭にアインシュタインの相対性理論が登場すると、物理学は従来の数学の枠組みをはみ出し、直感的にわかりやすかったそれまでのニュートン的な宇宙は、奇妙なアインシュタインの時空へと変貌する。
さらに1925年に量子力学が発見されると、それまで目で追うことのできた物体の運動は、波動関数という直接には観測できない量に置き換えられた。この観測できない物理量は、物理学における数学的自由度を大きく拡げることになる。物理学は日常的な直感を離れ、数学によってのみ描かれる抽象的な世界に足を踏み入れていくのである。
すると物理学に必要な数学は、数学の世界にすでに用意されていたことがわかってきたのである。これは驚くべきことだった。宇宙を見る前から、人類はすでにその構造を頭の中だけで見出していたことになる。いつしか物理学者の仕事は、自らの理論を拡張のための答を過去の数学のなかに求めることになった。そして気がつけば、最先端の物理学は日常感覚とはかけ離れた抽象的な世界になってしまったのである。
確かに数学的な美しさは人を魅了する。しかし、高度な数学を身につけたごく一部の物理学者にしか理解できないものが、自然を理解する方法として妥当だろうか。物理学はどこかで袋小路に迷い込んでしまったのではないだろうか。