神経症的社会

かつて本と言えば文学作品を思い浮かべたものだが、最近、書店で目立つのはノウハウ本ばかりである。英会話や部下との付き合い方、頭の良い子どもの育て方から定年後の田舎暮らしまで、とにかく役に立つ本が目白押しである。

ノウハウ本を手に取る人は、一見、向上心の強い人たちに見える。だが、そうした本には、「簡単に身につく~」とか「15分で~」というようなフレーズがつきものである。読者は何とか楽をしてノウハウが身につかないかと期待しているのだ。競争社会にあってノウハウを身につけることで少しでも有利な立場に立ちたいという強迫観念と、しかし苦労はしたくないという気持ちの妥協点にノウハウ本は存在するのである。

一方で先日出版された村上春樹の新刊には書店で長い列ができた。村上氏の世界はノウハウとはまさに対極にある。主人公は、困難に直面してもそれに立ち向かうノウハウなど持たない。ただただ困難と向き合い、結末に至っても答はでない。ノウハウに従って生きることのつまらなさを村上氏はよく知っているのである。巷に溢れる過剰なノウハウにうんざりとした読者が、村上氏の世界に求めるのは、自分の心の鼓動を感じるための静寂だろうか。

ところで、かつてスポーツの世界では今よりはるかに根性が重んじられていた。しかし、さまざまな科学的トレーニングが導入されるにつれて、根性と言う言葉はすっかりすたれてしまい、むしろ非科学的で無茶な練習を連想させるというネガティヴな印象すら持たれるようになった。苦労して根性を鍛えるより、すぐれたトレーニング方法を身につけるほうが上達が速いとなれば、どうしてもそちらに逃げようとする。しかし、スポーツの目的は上達することだけではない。スポーツを通して人間的に成長することが何よりも大切なのだ。もしそれがなければ、たとえオリンピックで金メダルを取ったところで何の価値があろうか。だが、実際にはドーピングしてまでも勝とうとする選手がいる。いつから勝つことが自己の成長より優先してしまったのだろう。根性の軽視と無関係とは思えないのだ。

科学技術の進歩で、人々は次第に精神的にも肉体的にも苦労することなく生活できるようになった。特に最近では、それまでさして不便だと感じていなかったところにも無理やり不便さを見出し、新たな便利さを押し付けてくる。かつては、苦しんだ分だけ強くなるといわれたスポーツの世界でさえ、困難に立ち向かう姿勢は変わろうとしているのだ。だが、必要以上の便利さは、かえって人間の成長を蝕むのではないだろうか。人類はどこかで、越えてはならない一線を越えてしまったのである。

人間的な成長がなければ感動や喜びも小さく、わずかな困難にも大きなストレスを感じるようになる。今や社会全体がそうした神経症に苛まれ、さまざまな社会問題が噴出しているのだ。だが、対策は常に小手先の症療法ばかりである。しかし、本当に必要なのは、利便性への誘惑を絶ち、自らの生命力を鍛え直すことではないだろうか。

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