かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。
ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。
しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。
その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。
本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。
しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。
コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。
携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。
コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。