旅行で同じ場所に何度も訪れることはなかなかないものだが、その数少ない例外の一つが日光沢温泉である。鬼怒川の源流域に位置する秘湯で、女夫渕温泉で車を降り、川沿いを2時間ほど歩いて行く。途中、八丁の湯と加仁湯があるが、この両者は林道を利用したバスでの送迎があるため、徒歩でしか行けない日光沢温泉とは全く客層が異なる。
最初にここを訪れたのは、もう20年以上も前の5月初旬だ。その時の目的地は日光沢温泉ではなく、その先の鬼怒沼という高層湿原だった。家内と二人で雨の中、テントを担いで雪道を3時間ほど登って行ったが、湿原にはテントを張る場所がなく、避難小屋に泊まることになった。その晩、上空を前線が通過し、ものすごい風が一晩中鳴り止まず、真っ暗な中、2人だけで不安な一夜を過ごした。
夜が明けても、まだ猛烈な風が残っていた。しかし、おそるおそる外に出てみると、そこには息を呑む光景が広がっていた。真っ青な空に白い雲が切り裂かれるように千切れ飛び、周りを雪に縁取られた湿原が朝日の中でこの世のものとは思えないきらめきを見せていた。湿原の向こうには、頂上付近に雪煙を舞い上がらせる「日光白根」が迫り、振り返れば、尾瀬沼の主「燧ヶ岳(ヒウチガタケ)」が、まだ深く雪に閉ざされた尾瀬の静寂を守るようにじっと佇んでいた。
美しいといわれる鬼怒沼でも、これほど美しさを見せる瞬間はそうはないだろう。それを妻と二人で独占している。感動が何度も全身を貫いて行った。
その時のような絶景は望めないが、その後、日光沢温泉に来るたびに鬼怒沼に登っている。ここの魅力を全身で味わうためには、鬼怒沼まで汗をかくことは不可欠なのだ。
日光沢温泉を切り盛りされる若いご夫婦のサービスは誠実かつ意欲に溢れており、独自の充実感を与えてくれる。登山で適度に疲労した体を温泉に浸し、掃除の行き届いた板の間の廊下を裸足で歩くと、足の裏から気持ちよさが全身に広がっていく。小屋付近で採れた山菜と岩魚を使った料理は野趣に溢れ、素朴だが滋味があり、全身に命を吹き込んでくれる。かつては辺りを散策したり渓流釣りもしたが、最近は鬼怒沼に登る他は何もせず、ここでゆっくりするのが最高だと悟った。
最近、若いカップルも目立つが、猛者もいる。風呂場で一緒になった60過ぎのお年寄り。金精峠から根名草山を越えて来たという。「雪が多くて大変だったでしょう」と聞くと、道に迷って一晩ビバークしたという。全く、命知らずもいたものだ。したたか酒を飲みながら、「カモシカの肉は牛のような味がするんだよ」と上機嫌で話してくれる「マタギ」の斉藤さんも常連の一人。唖然とするような話には、自然と共に生きるパワーが溢れている。
夜も更け、天の川を見上げながらぬるめの露天風呂にゆっくり浸かると、すぐ下を流れる沢の音にけだるさを誘われ、次第に心地良さに包まれて行く。
日光沢温泉は、訪れるたびに魅力が増す不思議な場所なのである。