物理学者のおごり

 先日、相対性理論について調べる必要があり、学生時代に使っていた教科書を引っ張り出してきてみた。しかし、ページを開くと当時の自分に対する同情と無念さが沸き起こってきた。その頃はわけがわからず、ひたすらもがいていたが、自分のめざす物理学は、当時の環境ではやりようもなかったのである。

 物体の速度というのは、それを測る人と物体の相対的な速度である。同じ野球のボールでも、それに向かっていくのと遠ざかるのとでは速さは異なってくる。しかし、光の速度に関してはこうしたことが成り立たない。どのように測っても常に同じ速さなのだ。19世紀末、物理学者はこの奇妙な現象をいかに説明するかに苦労していた。そこに現れたのがアインシュタインである。彼はこの「光速不変」を絶対的事実として受け入れ、代わりに従来のニュートン物理学に根本的な修正を加えるという英断を下したのである。

こうして生まれた相対性理論からは、常識を覆すさまざまな結果が導かれた。動いている人と止まっている人では時間の進み方が異なり、同じものを測っても長さが違ってくる。アインシュタインは、ニュートン物理学の基礎であった時間と空間の絶対性をあっさりぶち壊したのである。

相対性理論を発表した当時、アインシュタインはその数学的な取り扱いについてはあまり関心がなかった。彼の学生時代の指導教官であり、数学に秀でたミンコフスキーがどんどん理論を発展させるのを見て、「それは数学であって、物理学ではない」と不快感を露わにしたほどだ。彼にとって相対性理論は、物理観の革命である点にこそ価値があったのだ。

しかし、僕の教科書では、彼が光速不変に至る経緯についてはわずかに触れているだけで、大半はニュートン物理学を修正する数学的手法についての説明だ。相対性理論はすでに常識であり、学生の仕事は黙って演習問題を解くことなのだ。

その後、相対性理論はもう一つの奇妙な理論、量子力学と結びつき、相対論的量子力学へと発展して行く。しかし、それが一応の完成を見た1970年代以降、物理学の進歩は行き詰まってしまった。物理学者たちはひたすら完成をもとめて理論を発展させようとしたが、結局、理論自体がはらむ矛盾に動きが取れなくなってしまったのである。本来ならば、光速不変の意味、さらにはニュートン力学の意味を再考してみるべきではないか。しかし、物理学者たちに後戻りする気はなかった。一旦、数学的世界に慣れてしまうと居心地が良いため、物理学者は簡単にはそこから抜け出せなくなる。数学は科学の最大の武器だが、その便利さは真の物理的な思索を怠らせる禁断の果実でもあるのだ。

昨今の原発事故は、科学に対する過信が人類をとんでもない不幸に陥れかねないことを思い知らせた。しかし、そうした過信は、当の物理学にもはびこっているのではないだろうか。自然に対する謙虚さを忘れ科学万能主義に傾けば、物理学自身が成り立たなくなるのである。

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