モーツァルト小論

指揮者のニコラス・アルノンクールが、モーツァルトは「10代にして音楽によって人間のあらゆる感情を表現できた」と語っている。だが、彼はモーツァルトが単に人間の感情を自由自在に表現できると言いたいわけではない。自ら指揮棒を振りその音楽を演奏するやいなや、そこには日常的には感じることのない純粋でデリケートな感情が次々と溢れ出ることに驚嘆し圧倒されたのである。人間の心は本来これほど自由で豊かな可能性を持っているのか。彼はモーツァルトから人間の感情の奥深さを教えられたのだ。

モーツァルトがもっともこだわった音楽はオペラである。オペラは当時の音楽芸術の最高峰で、オペラで成功することは最高の音楽家である証しだった。だが、理由はそれだけではない。主役にも脇役にもそれぞれの役割があり、それらを音楽によって思い切り表現することができるオペラという形式はモーツァルトにぴったりだったのである。

ピアノコンチェルトもまたモーツァルトにとってはオペラだった。各パートの楽器は、プリマドンナであるピアノを控えめに支えていたかと思えば、時にはするりと前に出てきて愛嬌ある台詞を発する。どの楽器も人格を備え個性を競っている。絶妙なタイミングで合いの手を入れたかと思えば、突如、全ての流れを断ち切り劇的な展開に導いていく。そこにはまさに、人が日常で感じる「あらゆる感情」をはるかに越えた多彩な世界がある。

昔から、モーツァルトは天才で何の苦もなく作曲できたと言われてきたが、そうした考えは多分に天才への憧れやヒーローへの期待から来ている。なかなか就職が決まらず焦りまくり、失恋で落ち込んで容易に立ち直れない姿にはもとより天才の面影はない。確かに彼には音楽を操る特別な才能があったが、だからと言ってその才能で人の感情を嘘なく表現することは楽ではない。極度の集中を必要とし、命を縮めるほどの過酷な作業であったに違いない。無論、何時もうまく行くとは限らない。彼の作品といえども相当の出来不出来があるし、多くの作品が途中で行き詰まり完成できずに終わっているのである。

宗教音楽で特に未完が多いのは、一つには娯楽音楽に比べて自らに高い完成度を課したためであろうが、そもそもオペラが得意なモーツァルトにとって宗教音楽は彼の表現力を特定の領域に閉じ込めてしまうものだった。モーツァルトにはやはり生を表現する音楽こそふさわしい。レクイエムが未完に終わった理由についてもいろいろ言われているが、結局、彼の手には余ったということではないだろうか。

小林秀雄に「モオツアルト」という傑作がある。僕自身、そこで展開される渾身のモーツァルト論に大きな影響を受けてきた。しかし、最近、自分でピアノを弾いていると、小林のモーツァルトには見られない魅力に出会うことが多くなった。聴き手を喜ばせようとするちょっとした工夫がいたるところにあり、それらがなんとも言えず絶妙なのだ。「天才」を描こうとして小林が見せたような力みは、そこには全く見られない。

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