自分作り

今年の6月、久しぶりに小学校の同窓会に出席した。最初の同窓会は20年前にあり、その後4年ごとに開かれているが、第1回、第2回と出席して以来、久しぶりの参加だった。第1回の時は少年時代の思い出と目の前の姿のギャップに戸惑わされたが、今回は16年経っている割には、皆、意外なほど変わっていなかった。とはいえそれは外見上で、30代だった前回と比べれば何かが大きく変わっていた。

当時は仕事においても脂の乗り切った時期で、子供も小さく、将来に向けてやる気と希望に溢れていた。会場では相手の話を聞くより、自分のことをまくしたてる姿が目立った。しかし、今や50代も半ばに差し掛かり、そうした気張りは影を潜めた。特に地元に住んでいる連中は、気の置けない幼馴染の集まりに何にも増して安らぎを感じている様子だった。中には親しさのあまり、しばらく前に喧嘩をして絶交中だなどという子供の頃さながらの話まであった。

そうした中で、僕はあることが気にかかっていた。長い年月を経て再会した友人たちのなかで話が面白いのは、必ずしもかつての優等生でも社会的に成功したやつでもないということだ。どちらかといえば問題児だったやつが、実に味のある人間になっているのである。

彼らは、その後、何か転機があって大成功したというわけではない。挫折はしょっちゅうのことで、人生譚としては特に人に自慢できるようなものでもない。しかし、眼の奥には何かきらりと光るものを持っているのだ。

かつて勉強ができ、有名大学に進み、その後も有名企業に就職して活躍している人の話はもちろんそれなりに面白い。彼ら優等生は人並み以上に努力し社会の要求に一生懸命応えてきた人たちだ。だが、彼らの口からはびっくりするような話はなかなか聞けない。

面白い連中に共通しているのは、自分の生き方に対するこだわりが強いことだ。彼らは社会に適合するよりも、自分の生き方を選んできたのだ。もっとも、若い頃から自分の生き方などわかるはずがない。むしろ社会に適合しようにもできなかったというのが正直なところだろう。周りから認められず悩んだ時期もあったにちがいない。彼らは自分の生き方が壁にぶつかるたびに、どこかで折り合いをつける必要があった。そうしたギリギリの選択を繰り返すことで、一歩ずつ自分を確立して行ったのである。

個性というのは人と違っていることと思われがちだが、それは表面的なことで、実はその人の内部に隠れていて、人生の時々で自分自身に選択を迫り、自分を形成していくための原動力なのである。

自分が本当の自分になるために積み重ねていく時間、それこそが人生なのではないか。何かを成し遂げることが重要なのではなく、挫折も成功も自分らしい自分になるための糧ではないか。自分は探すものではなく、作り上げていくものなのだ。

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