このところ新年を迎えるたびに、時の流れの速さにため息をつく。以前はそれほどでもなかったのに何かが変わったのだろうか。
昨年あったことを1つ1つ思い出してみると、例年に比べてもなかなか面白いことが多い年だった。特に昔の友との再会は驚くほど実りあるもので、人生観が変わったといっても大袈裟ではない。昨年、大学に入った我が娘たちの成長も、自分の人生観に少なからぬ影響を与えた。こうしてみるとまんざらでもない。むしろそうしたことをじっくり味わう余裕のなさが、時の流れを速く感じさせるのかもしれない。
寿命が永遠に続くなら1年が長かろうが短かろうがそれほど問題ではない。限りある人生だからこそ、時間は出来るだけゆっくり過ぎて欲しいのだ。だが、その貴重な時間をいくら費やしても、それに勝るようなすばらしい体験というのはある。それは困難なことを成し遂げた瞬間かもしれないし何か大切なことを理解できたときかもしれない。あるいはすばらしい出会いに恵まれたときかもしれない。自分が生きてきたのはこれを体験するためなのだと納得できれば、その換わりにいくら時間が過ぎたとしても惜しくはない。そんな充実した体験に満ちた1年であれば短かいと感じることもないに違いない。
それにしても最近の日本では、そんな時間も忘れるような体験をする機会は少なくなってきている。かつての上り坂の経済に慣れてしまった日本人にとって、このところの退潮はことのほか応えている。かつて世界に敵なしだった日本のハイテク企業の落日はまさに悪夢のようだ。国のやることも、年金問題にせよ財政問題にせよ解決できるとはとても思えない。将来のビジョンが見えない中、この数年、日本中が漠然とした不安にすっぽりと覆われてしまった。
不安な社会では誰もがまず安心を求める。大学を卒業してもろくな就職先がないのでは、将来の夢を語るどころではない。不安が人々を萎縮させ、不安から逃れるために目先のことばかりに注意が行く。社会的不安の増大は1年を短く感じさせる一因に違いない。
そんな不安な社会にあって、人々はいつもスマートフォンを覗き込み、ネットやSNSに余念がない。これらは確かに便利だ。昔だったら絶対にありえなかった交流がいとも簡単に実現するようになっている。しかし、とかく便利なものは不便だからこそ得られていた大切なものを失わせるものだ。メールに慣れれば電話をかけるのが億劫になり、声を聞くことで感じられた相手の心をシャットアウトしてしまう。便利さとは裏を返せば何も意識せずに済むということだ。その結果、時間が過ぎたことにも気がつかない。そして気がつけば1年経っているのだ。
1年が短く感じられ原因はいくつかあるようだが、いずれにせよ地に足の着いた生き方ができていないからだ。1年後、充実した1年だったと感じられるよう、今年は濃い時間の過ごしかたを心がけてみようと思う。