覚悟

 先日帰省した際、「死ぬのはやっぱり怖いなあ」と母がため息交じりに何度か繰り返した。

 これまでやりたいことはやって来た。人生には満足している。だが、このところ体も衰え、この先、生きていてもあまり良いことはなさそうだ。毎日、他人の世話になるのも辛い。もう思い残すことはない。そう自分に言い聞かせ死を受け入れようと思った瞬間、想像以上の恐怖に襲われたのだ。

 死への恐怖は、死ぬ間際の苦しさに対する恐怖と、死後、自分が消滅することへの漠然としたした恐怖の2つに分けられる。前者に対しては医学の進歩により緩和されるかもしれない。しかし、自分の存在がなくなるという恐怖に対してはそう簡単にはいかない。

 しばらく前にサーチュイン遺伝子というのが話題になった。その遺伝子のスイッチを入れると人類の寿命は一気に120歳くらいまで伸びるという。現在、世界中で多くの人がその実現を待ちわびているようだが、死をいくら先延ばしても死への恐怖はなくならない。

 ところで、こうした死への恐怖は人間独特のもので、犬や猫が将来の死を思い悩んで苦しむという話は聞いたことがない。なぜ、彼らには死への恐怖がないのだろうか。いや、逆になぜわれわれは死が怖いのだろうか。ひょっとしたら、本来怖くもないはずのものを恐れているだけなのかもしれない。

 死刑囚が苦しむのは、いつ告げられるかわからない刑の執行が彼らに常に死を意識させるからだ。一方、人を助るために自らの命を投げ打つ人がいる。彼らは決して死に対する恐怖が小さいわけではないが、助けなければという強い決意が死を恐れる暇を与えないのだ。死への恐怖は死を意識した際に想像によって生まれるものであり、人間だけが死を恐れるのは、そうした想像力は人間にしかないからだろう。

 かのモーツァルトは毎夜眠れないほど死の恐怖に取り憑かれていたという。彼が偉大な作品を生み出すことができたのは、作曲だけが死の恐怖を忘れさせてくれたためかもしれない。ただ、その彼も宗教音楽では多くが未完に終わっている。だが、それらは恐ろしいまでの緊張感に満ちているのだ。彼は音楽の中でその才能の全てを傾け死と対峙したが、ついにそれを克服することはなかったということだろうか。

 とはいえ、宗教音楽も含めモーツァルトの音楽が信じられないほどの精神的な高みに達することができたのは、彼が死を強く意識していたからに違いない。そもそも死は克服しなければならないものではない。死とどう向き合うかということが彼以外にも多くの天才の想像力を刺激し、人類に多くの芸術的遺産を残してきたのである。

 凡人にとっても死は限りある人生を充実させるための貴重な道標だ。ただし、そこから逃れようとすれば恐怖に取り憑かれてしまう。結局のところ、いつかはやって来る死に対して毅然とした覚悟を持って生きて行くしかないのではないか。

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