時計は時間を測るための道具だが、われわれは普段どれだけ時間が経ったかを測るために時計を用いることは少ない。通常は今何時か知るために用いている。時計の精度が増した現代社会では世界は時事刻々と動いており、かつての日時計の時代に比べわれわれは時刻に対してはるかに敏感になっている。
一方、物理学では時刻を知るために時計を用いることはあまりない。あくまでも時間の経過を測るために用いる。物理では今何時かを知る必要はなく、ある現象が起きるのにどれだけ時間がかかったかが重要なのだ。
もっとも時計は時間を感知する特殊なセンサーではない。地球が一回転する間に短針が2周するように作られたただの機械だ。ただし、厳密に同じように作られた機械は宇宙のいつどこでも同じ時間を示すことが大前提となっている。物理学では観測できるもの以外は考えてはならない。われわれが漠然と思い描く時間はそのままでは意味がなく、時計の針が指し示す数値になって初めて意味を持つ。
特殊相対性理論によれば、自分に対して動いている人の腕時計は自分の腕時計より遅れることが示される。その遅れは相手の動く速さが速いほど大きくなり、速度が光速に近づくとほぼ止まってしまう。これは時計の機械に何か負荷のようなものがかかって遅れたわけではない。時計は全く正常に動いている。物理学では時計が示すものが時間であるから、時計の遅れは時間の遅れと解釈するしかない。自分に対して動いている人の時間は自分の時間より遅れるのだ。時間は宇宙のどこでも一様に流れているわけではない。
相手が動く速さが小さい場合はこうした遅れはわずかなものだが、もし光速に近い速さで動いているとすると個々の時計が示す時刻は大きく異なってくる。しかし、各人にとっては自分の時間は普通に流れている。あくまでも、自分から見て動いている他人の時間がゆっくり流れているのだ。自分にとって静止している限り宇宙のどこでも時間は同じように流れており、自分にとって動いている世界では別の時間が流れているのだ。
では、自分の時間の進む速さはにはどのような意味があるのだろうか。もし時間の流れる速さが遅くなったら何が起きるだろうか。周りの動きがゆっくりになるのだろうか。いや、その時はあらゆる物理現象の速さが変わり、脳の働きも変わるので何も気づかないだろう。そもそも時計で時間を測るとすれば、その時計の進む速さなど測りようがない。自分の時間の進む速さという概念には意味がないのだ。
では、われわれが常に時間が進む速さを意識するのはなぜだろうか。恐らくそれは、われわれが日々時間に追われているからではないだろうか。時間が速く経つと感じる場合も、決して時計の針が進むのを見てそれが速いと感じるからではない。あくまでも自分に必要な時間と残された時間との比較から時間の経つ速さを意識しているのだ。時間が進む速さという概念は、時間に縛られるようになった人間が生み出した想像なのである。