先日、将棋の藤井聡太7段が史上最年少で8大タイトルの一つ棋聖位を獲得した。だが、コロナウイルスが流行り始めていた頃、その実力はすでに一流だと誰もが認めていたが、強豪ひしめくタイトル保持者からの奪取となるとそう簡単ではないと思われていた。今回の勝利の原因について藤井棋聖自身は、コロナによる対極自粛期間中に自分の将棋をじっくり見つめ直すことができたことが大きかったと述べている。
それを聞いて自分でも思い当たるところがあった。2月に母が亡くなり頻繁に名古屋と東京を行き来する生活が終わると入れ替わるようにコロナによる自粛が始まった。予定していた行事はことごとく取りやめになり、人との交流もパタリと途絶えた。
だが、そうしたある日、ふと自分の肩が軽くなっているのに気がついた。それまで特に不安や憂鬱を感じながら暮らしてきたつもりはないが、どうやら普段の生活の中にもさまざまなストレスが隠れていたようだ。コロナのような大きな環境の変化がなければ、ずっと気づかなかったことだろう。
さらにしばらくすると、まるで深い湖の底にゆっくり横たわっているかのように自分の心が静かになっているのに気がついた。自分が感じていることを手にとるようにはっきりと意識することができる。
それまで意識と心の間に挟まっていた何か目に見えない板のような障壁が急に取り払われ、自分の心に直接触れることができるようになったような感じだった。僕は何か非常に大切なものを見つけたような気がした。同時にそれまで心の中にあった漠然とした不安感も薄れているのに気がついた。
人はいつも安心を求めている。何か少しでも心配なことがあればそれに備えようとする。いい大学に入ろうとするのもお金を貯めようとするのもそのためだ。それによって心の中から不安を取り除こうとする。だが、老いや死などのような不安はそうした保険をかけても解消しない。消そうとすればするほど不安は増すばかりだ。
心が静かになって不安が薄らいだのは、そこに何ものにも替えがたいものを感じたからだ。人生で大切なことは、成果を出して人に認められることでも不安を解消することでもなく、自分の心と触れ合い感じることではないのか。生きるというのは実は自分との出会いではないのか。
ソーシャルディスタンスがとやかく言われている昨今だが、自分との距離ならいくら縮めても構わないだろう。人生において、今、コロナ禍に見舞われるのも何かの運命だろう。これを機に自分と静かに向き合って行きたい。