武器としての脱力

以前にピアノにおける脱力について何度か書いたことがある。脱力はしようとしてできるものではなく、脱力できる弾き方を見つけて初めて可能となったのだった。

だが、その後、一気に上達したかというとそうは問屋が卸さなかった。脱力しても弾けない所がいくらでも出てきたのだ。脱力だけではダメなのか。思わずため息が出た。だが、しばらくしてそうではないことに気がついた。脱力をしても弾けないのではない。そうした箇所では脱力できていないのである。つまり僕が見つけた弾き方は易しいところでは通用したが、少し難しくなると途端に力が入ってしまっていたのである。

ピアノ本来の魅力を生かすためには脱力は必須だ。従って作曲家はピアノの機能を徹底的に研究した上で、脱力して弾ける曲を作っている。いくら難しいところでも、正しい弾き方をすれば必ず脱力して弾けるはずなのだ。だが、どうやれば脱力できるかまでは譜面には書かれていない。あれこれ試して見つけていくしかないのだ。

そこで、これまで力づくで突破しようとしていた難しい箇所でも脱力できる弾き方を必ず見つけ出すという信念で臨むことにした。すると最初は絶望的に感じたところでも徐々に力が抜けるものだ。音色も表現力も目に見えて変わり、ピアノ本来の理にかなった弾き方が徐々に身につき始めていると実感している。また、こうして身につけた弾き方は簡単には忘れず、別の曲でも生かされていく。やっと長年の夢だった実力がつく練習になってきたのだ。

こうした脱力の重要性はスポーツや楽器演奏の世界では常識だろうが、 最近、全く別のことで効果を発揮した。僕には学生の頃から考え続けている物理学におけるある問題があり、今でも専門家の友人と定期的に議論を行っている。ところがいくら集中して考えても堂々巡りするばかりで最近は行き詰まりを感じていた。そこで、先日、ふと脱力を意識して考えてみようと思いついたのだ。

呼吸を整え自分の考えのどこに無理があるのか心の中を探ってみる。すると物理の世界では常識と思われているあることが実はあまり根拠がないことに気がついた。それに縛られていたのだ。そこで発想を変えてその常識を思い切って取り払ってみることにした。するとそれまで頭の中でもつれていた思考が整理され、霧が晴れるように前が見えてきたのである。それはまさにピアノでやっていることと同じだった。

ストレスで肩こりを感じる時などは誰もが脱力したいと思う。だが、脱力の効用はそれだけではない。脱力を目指して努力することで、理にかなったやり方に到達できるかもしれないのだ。しかもそれはピアノやスポーツだけの話ではない。俳句や文章のような精神的な表現においても強力な武器となりそうだ。

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