食在中国

ここは上海の中心部を走る南北高架道路の下。近くには高層マンションが建ち並んでいるが、大きな道路沿いのためか人通りは少ない。

昼を食べるために安食堂にふらりと入ってみたが、他に客は誰もいない。店員の視線が集中する中、レジの上にあるメニューをじっと見つめること5分、結局、小姐(店員)を呼び、「君が一番好きな麺は?」と聞いた。彼女が勧めたのは、その店で2番目に高い「青椒肚片麺」。青椒がピーマンであることはわかるが、肚片は一体何なのか。まあ、何が出てきても食べられる自信はある。

しばらくして現れたのは、やわらかく塩味で煮込んだ極厚の豚の胃袋(肚片)とピーマン、それに中国独特の小さい青梗菜の乗った麺だった。麺は細め、スープは骨付き肉のダシが良く効いた濃い目の塩味。無造作に半割りにした、ほとんど生のピーマンが、良く煮込んだ肚片と絶妙なバランスである。さすが小姐が勧めるだけのことはある。日本でこれだけのものを食べさせる店があるとすれば、相当の通が通う店だろう。値段もここでは9元(120円ほど)だったが、恐らく1000円から1300円はするはずだ。

中国に行くようになって、日本の中国料理には興味がなくなった。確かに、日本でも高級な店に行けば、味においては中国に負けない店もあるだろう。しかし、それはあくまで、たまに食べる「高級中国料理」だ。中国人には、日本のグルメのような意識はない。それでいて、毎日、当たり前のようにうまいものを食べ続けているのである。中国の料理には、中国人の貪欲な好みを吸収しながら発達してきた不気味とも言える迫力がある。

場所が変われば、そこにはまた独自の素材があり料理がある。以前、ベトナム国境近くの南寧という町に行ったとき、中華なべに水を張り、鶏を入れて、さっと煮立てただけの何の変哲もない料理が出た。味付けは塩だけである。最初は鶏の水炊きかと思ったのだが、主役はどうやらスープらしい。

そのスープを一口すすって愕然とした。信じられないようなダシが出ているのである。この地方は水がおいしく、また、地鶏も有名らしい。確かに素材がいいのだろう。しかし、さっと沸騰させただけなのに、なぜこのような味が出せるのか。僕は、その味を見極めようと何杯もおかわりしてみたが、結局、どうしてもその秘密を見極めることはできなかった。

最近、急速な経済成長ばかりが取りざたされる中国だが、このような食文化を持つ中国の魅力には計り知れないものが感じられる。安い労働力などという薄っぺらなものだけを見ていては、この国の真の底力を見逃すことになるだろう。

中国語に感じる中国らしさ

中国上海と聞いてまず、林立する高層ビル群を思い起こす人が日本でも増えてきている。中国は今や世界中の企業や資本家が虎視眈々とチャンスを伺うビジネスの最前線だ。そうした中で、いつしか中国に飛び込み、中国がホームグラウンドになってしまっている人も少なくないだろう。かつては外から距離を置いて見ていた中国は、気が付けば同じ船に乗り、力をあわせて世界的な激動の荒波を乗り越えていく同胞ともなっているのである。

私自身も仕事柄、中国に行く機会は少なくない。当然、商談は中国語、と行きたい所だが、今のところからっきし駄目である。幸い優秀な通訳に恵まれているため不便はないが、時には直接中国語で意思を伝えたいこともある。というわけで最近中国語の勉強を始めたのだが、これがなかなか面白く、今ではすっかりはまってしまっている。

しばしば、中国語の文法は英語に近く、日本語からは遠い言語のようにいわれることがあるが、やってみるとそうでもない。確かに動詞の後ろに目的語を持ってくるところは英語と同じで、単純な文型においては英単語の代わりに漢字を当てはめればそのまま中国語になってしまうが、文が複雑になってくると様子が変わってくる。英語では基本文型は5種類だけで、あとは頑なにその単純な文型を組み合わることで複雑な文を構成していく。一方、中国語においては、英語ほど明確に文型を意識しないし、修飾の仕方も臨機応変である。従って、英語のようなつもりで文法ですべて割り切ろうとするとあっさり裏切られ、何でそんな言い方をするのかと困惑することになる。しかし、そういうときに限り、よくよく見れば、その言い方どこかの言葉にそっくりではないか。そうだ、我らが日本語である。名詞の修飾はかなり長いものでも前からで、修飾する語順も似ている。関係代名詞は使わない。また、英語では必ず文頭に来る疑問詞の位置も日本語と同じである。日本語独特と思っていたいい加減(?)な言い方が、なんと中国語にも存在する。それを知って以来、妙に中国が近く感じられるようになったのである。

英語の規則性は、恐らく、習慣や価値観の異なる人同士でも曖昧さなく意味が伝わる必要性から発達したものだろう。それに比べ日本語は、もっと距離の近い、気心の知れた相手に意思を伝えるようにできているように思われる。恐らく同様なことは中国語においても言えるのではないか。そして、この中国と日本の共通性こそが、最近、中国の人たちに対して覚える独特の近しさを裏付けているように思えるのである。