見事な人生

先日、名古屋の母が87歳で亡くなった。

母はもともと名古屋市中村区で父とカメラ屋を営み、その近くに家を借りて住んでいたのだが、47年前に父が北区の味鋺に店を出し、そこに当時新婚だった自分の弟夫婦を住まわせた。だが、7年ほどしてその弟が自分の店を出して独立してしまったため、父と母がその北区の家に移り住むことになった。

ところがそれから半年もしないうちに父が癌になり3ヶ月後には亡くなってしまった。40年前のことだ。当時、僕も僕の弟もまだ大学生で、当時、47歳だった母は一人でわれわれの面倒を見なければならなくなった。幸い弟は地元の大学だったので、なんとか大学に通いつつ仕事を手伝い、2年後に卒業するとそのまま店で働くことになったが、それにしても母にかかるプレッシャーは相当なものだったろう。

父が亡くなって2年ほど経った頃、僕が東京で交通事故を起こし、母が慌てて上京したことがあった。母は僕が入院する病院に泊まり僕の傍で2泊したが、夜消灯すると横でずっと仕事の話をしている。僕はその時まだ目を瞑ると事故の瞬間がフラッシュバックするような状態で、母がなぜ今ここでそんな話をするのだろうかと訝ったが、母にしてみればずっと不安と緊張の中で戦っていたのだと思う。

その後、巷でビデオが普及しはじめると、店はカメラ屋兼ソニーショップに衣替えした。すると母は父が建ててまだ12年ほどしか経っていなかった店をあっさり壊し、頑丈な鉄筋コンクリートの店に建て替えてた。1985年の頃だ。一同びっくりしたが、弟が将来やってく上で土台となるものを作ってやりたかったのだと思う。

母は誰もが一目置く頑張り屋だった。また長年の経験に基づく自信も持っていた。その後、店は時代の流れに乗って発展し、弟は結婚してそこで家庭を築いた。母は最大のピンチを乗り切ったのみならず、さらに新たな道を切り開いて行ったのだ。

結婚してから父が亡くなるまでの24年間、母は父と共に歩み、その後は次男と40年間一緒に歩んできた。正に47歳にして歩み始めた第2の人生だった。その間、東京に住んでいた僕はと言えば、電話で長時間話したり、仕事で手が離せない弟の代わりに一緒に旅行に行くなど、仕事とはまた別の面で関わるよう務めてきた。

母とは、晩年、よく昔の話をしたが、前半生の話にはあまり乗ってこなかった。僕にとっては自分がまだ名古屋に住んでいたその頃の思い出の方が印象深いのだが、母にとってはやはり自力で切り開いた後半生の記憶がより鮮明に残っていたのだろう。

なかなか見事な人生だった、と今改めて思う。

モノクロの世界

今年の年賀状写真は名古屋城公園で撮影した。家族が写真を撮るために集まれる機会は年々少なくなってきており、昨年末はたまたま家族が名古屋の実家に集合したその日しか撮影のチャンスがなかったのである。

暖冬のためか12月初頭の公園内の木々の紅葉はまだ鮮やかで、足元に敷き詰められた落ち葉を踏みしめながらの撮影は気持ち良かった。幸いそこで撮った写真はまずまず狙い通りの仕上がりになった。年賀状の撮影が一度でうまく撮れることはなかなかない。慣れない場所で短時間に撮ったにしては上出来だった。

だが、僕の気持ちは少し複雑だった。昨年、本格的に撮影活動を再開して以来、改めてモノクロ写真の良さを実感するようになっていた。そこで、今年の年賀状はモノクロで行こうと密かに決めていたのだ。だが、せっかくの紅葉の雰囲気がモノクロでは全く伝わらない。家族の意見を尊重し、結局、カラーにせざるを得なかった。

そもそも僕はなぜそれほどモノクロにこだわってきたのだろうか。人は肉眼ではカラーで見ている。そこから何故色という大切な情報を除く必要があるのだろうか。写真展の折にもしばしば質問を受けたが、なかなか説得力のある答ができなかった。

フィルムの時代は、モノクロには自分で現像ができるという大きなメリットがあった。現像の仕方で写真はガラリと変わってしまうのだ。しかし、デジカメになってカラーでもパソコンで簡単にデジタル画像処理が可能となった。

そもそも撮影時の生データはカラーで、モノクロにするためには後処理であえて色情報を取り除かなければならない。それは写真で最も強力な武器である色彩をみすみす捨て去る行為で僕自身も当初は抵抗があった。だが、この1年、自分の撮ったカラー写真をモノクロ化する作業を何度も繰り返すうちに、はっきりとモノクロの魅力が見えて来たのである。

ブロンズ像に色を塗ることを想像してみよう。像は果たしてより魅力的になるだろうか。色は像が本来持つ陰影の魅力を損なってしまうに違いない。写真においても同様だ。色はその下にある陰影の世界を知らぬ間に覆い隠してしまっているのだ。

それだけではない。もとより写真は何気なく見ている情景から一瞬を切り取る。それは、普段、気がつかないものを浮かび上がらせる力がある。モノクロはそこからさらに色という日常性のベールを剥がす。そして、その一瞬の持つ意味により鋭く切り込むことができるようになるのだ。

思い切って色の誘惑を断ち切ってみよう。そこには想像もしなかった別世界が広がっているのだ。

静かに進む発酵

今年ももう直ぐ終わりだが、この1年を振り返ると写真において意外な進展があったという思いが強い。1月頃から久しぶりに街に出て本格的に撮影を再開した。以前、撮っていた頃から実に15年以上の歳月が流れていた。

かつて、どういう写真が撮りたいのかわからぬまま街に繰り出していた。そもそもなぜ写真なのか。恐らく当時の自分には他に表現手段がなかったのだ。自分が何を目指しているのか何を得たいのかわからぬまま、唯一手応えを感じられたのが写真だったのである。

だが、それは労力の割には得るものの少ない挑戦でもあった。撮影にも現像にも多大な時間と体力を使うが、満足のいく写真は滅多に撮れない。こんなことをやっていて何か道が拓けてくるのだろうかという不安ばかりが募った。

その後、池部さんとの出会いがあり、僕は文章を書くことに新たな表現の場を見出すことになる。それとともに、写真からは次第に遠ざかって行ったのだ。

だが、かつて撮った写真は、その後、出版した旅行記やエッセイ集にも使われるなど、僕の傍らには常に写真の存在があったのである。

そして、7年ほど前から3度写真展を開く機会に恵まれ、それがきっかけでかつての写真と10年以上の時を経て正面から向き合うことになった。すると自分がずいぶん写真がわかるようになっていることに気がついたのだ。かつては自分の写真ですら、どの写真がいいのか自信が持てなかったが、それが一目瞭然なのである。かつてそれができていればもっと上達したに違いない。無念の思いが沸き起こると同時に、遮二無二撮っていた時期があったからこそ、今、それに気づくことができるようになったのだと納得もできた。

撮影を再開すると、当初、結構撮れるという手応えがあったが、この1年に撮った写真を並べてみると明らかに最近撮った写真の方が良い。高機能のデジカメの使い方に慣れるにつれて撮影の幅が徐々に広がったこともあるが、やはり自分が撮りたい写真をはっきり意識することで腕が上がっているのだ。

インスタグラムへの投稿も大きい。作品を外に向かって発信することで、自分の表現したいものをより明確に意識することができるからだ。

かつての苦労が今になって生きていると実感できることほど嬉しいことはない。同様の体験はピアノにおいてもあったが、暗中模索の時期というのはけっして無駄ではない。目先の結果に一喜一憂せず、自分の中で静かに発酵が進むのを待つのも人生では大切なことのようである。

EASTEINの響

しばらく前から家内の実家で内輪のミニ音楽会(公開練習会)を始めたのだが、我が家から運んだ古い電子ピアノの音がひどく、かつ弾きにくいのが悩みの種だった。そこで、先日、思い切って中古のピアノを買うことにした。

諸事情あってあまりお金はかけられない。ネットで出物を探してみたが、なかなか意にかなったピアノは見つからなかった。だが、2週間ほど経った頃、あるオークションサイトで格安のピアノが出品されているのを見つけた。

早速、家内と一緒に畑に囲まれた出品者の家を訪ねた。そのN氏の本業はフリージャズドラマーで、副業で要らなくなったピアノを引き取り修理して格安で提供しているようだ。自身のドラムも木をくり抜いて自作したものだと言う。

まず10台ほどの未整備のピアノが所狭しと置かれた倉庫に案内された。そこにはオークションでも見かけたEASTEIN(イースタイン )もあった。

今では日本でピアノといえばヤマハかカワイ製だが、戦後しばらくは他にも多くのピアノメーカーがあった。現在ではそのほとんどが姿を消してしまったが、そうしたメーカーによって作られたピアノの中には今でも評判の名器が存在する。東京ピアノ工業のEASTEINもそうしたピアノの一つだった。

ピアノの音というのは個々でかなり違いがある。だが、我々が楽器店で触る機会のあるヤマハやカワイのアップライトピアノの音はなんとも面白みがない。今回は年代を経たさまざまなピアノに触れられる滅多にない機会だ。好みの音色のピアノに出会えないものかという密かな期待があった。

EASTEINの象牙の鍵盤を押してみると、奇しくもその音色は僕好みだ。ただ、傷みがひどい。鍵盤蓋は何か高温の物が置かれたのか表面が溶けている。足は犬にでもかじられたのか大きく削れている。N氏は、修理には手間がかかり過ぎるため、あくまでも部品取り用で修理はしないと宣言していた。

やむなくすでに修理済みの他のピアノを見せてもらったが、なんとも先ほどのEASTEINが気に掛かる。N氏もこちらの熱意に圧されたか、最後には最低限の整備でよければということで修理を引き受けてくれることになった。

2ヶ月後、修理を終え見違えるようになった超重量級のEASTEINが家内の実家に運び込まれた。N氏の話では、外見はひどかったがアクションや弦など内部の状態は思いのほか良かったようだ。

2度の調律を経てEASTEINはついにその味のある音を響かせた。それは爽やかで、僕は背中を押されるように感じた、「さあ表現したまえ!」と。

再始動

 今年の5月に名古屋の平田温泉という銭湯で1ヶ月間写真展を開いた。

 前回の写真展から3年が経っており、今回は新作を展示するつもりだったが、なかなか撮ることができず、結局、昔の写真を使うことになった。かつて苦労して撮った写真が日の目を見るのは嬉しいが、新作を発表できないのはなんとももどかしかった。

 最近、写真を撮っていないのにはいくつか理由があった。僕の写真の撮り方は、主に街で出会った人に頼んで撮らせてもらうか、街行く人をそのままをスナップするかのいずれかだ。だが、どちらの場合も昨今うるさい個人情報が気に掛かる。

 技術的な問題もあった。かつてはマニュアルカメラに単焦点(35mm)レンズ、モノクロフィルムというのが僕のスタイルだったが、時代はデジタルに変わった。デジカメは便利だが、その安直さになんとも言えない違和感があった。

 だが、そんなことも言っていられない。なんとか写真展に新作を加えようと、一念奮起して機材を買い揃え、デジカメ片手に再び街に繰り出したのだ。

 レンズは1635mmの超広角ズームを選んだ。超広角では被写体が小さくなるので、ぐっと近寄る必要がある。撮影後、近づいてくる相手にぶつかるくらいでないと迫力ある写真は撮れない。

 当初は慣れないデジカメに手こずったが、次第にかつての撮影時の感触が戻ってきた。デジカメならではの高度な機能も慣れるにつれそのありがたみを実感するようになった。

 個人情報に関しては、もちろんうるさい輩はいるが、最近は所構わずスマホで写真を撮るのが当たり前になっているためか、むしろ以前よりも撮られることに慣れているように感じられた。

 こうしてなんとか写真展に新作を3点追加することができた。同時に自らの写真ライフを再びスタートさせることができたのである。

 さらに、これを機にインスタグラムへの投稿を始めた。当初は仲間内でインスタ映えを競う自己満足の場かと思っていたのだが、始めてみてみて驚いた。そこはプロ、アマを問わず世界の写真家がクオリティーを競い合う夢のギャラリーだったのである。

 投稿写真は膨大な数だが、気に入った写真家をフォローすることにより、その写真家がアップすると同時に自分に送られてくるようになる。つまり次第に自分の好きな写真が自分のところに集まる仕組みになっているのだ。逆に自分の写真も自分をフォローしてくれる人(フォロワー)が常にチェックしており、下手な写真はアップできない。

 従来、プロの写真はレベルが高く、アマチュア写真とは一線を画していると信じられてきた。しかし、インスタグラムにはプロには撮れそうもない質が高く個性溢れた膨大な写真が、日々、投稿されており、プロの写真の権威は急速に陳腐化しそうだ。今まさに写真の可能性が大きく拡がろうとしているのだ。    (Instagram ID:ebiman_stasta)

銭湯の思い出

 風呂に入っている時に良いアイデアが浮かんだという話はよく聞く。入浴中、われわれの精神は何か独特の状態になるのだ。そして、もしそこが銭湯ならば、立ち込める湯気と反響するざわめき、何ともいえない気だるさが、さらに心地よい世界にいざなってくれる。

 子供の頃、毎日のように通っていたのは近所の米野湯だった。今はもう取り壊されてしまったが、廃業後もテレビロケに使われたこともある風情のある銭湯だった。

 脱衣所から浴場への入り口には石と盆栽で作られた小さな庭があり、浴場に入ると真ん中に大浴槽、奥の壁沿いにぬる目の湯、電気風呂、薬湯の3つの浴槽があった。

 子供はまず自然を模した石組のあるぬる目の湯から浸かると決まっていた。最初から熱めの大浴槽に入れるようになれば、それはもう大人の仲間入りをしたということだった。

 電気風呂には左右に木製の枠に覆われた電極があり、そこに手を近づけると痺れて動かせなくなるほど強力な電圧がかかっていた。壁には心臓の悪い人は入浴を控えるようにと物々しい注意書きがあったが、なぜか効能については全く記憶がない。

 米のとぎ汁のように白濁した薬湯は米野湯の名物だと母から聞いていた。その「薬」はしばらくすると底に沈んでしまうので、入る前には浴槽の傍らにおかれた重い木製の器具で攪拌しなければならなかった。その際、舞い上がる香りが今でも忘れられない。

 銭湯は体を洗ったりお湯に浸かったりするだけの場所ではない。休日ともなれば一番風呂に行って水中眼鏡をつけて潜ったり、自作の戦艦のプラモデルを浮かべたりとやりたい放題だった。ある休日、まだ明るい時間だったが、友達が大勢来ていた。そこで僕は、以前から温めていたある実験を実行に移すことにしたのだ。

 まず、僕が電気風呂に入り、強烈な痺れに耐えながら電極に体をくっつける。その状態で手を伸ばして浴槽の外の友達の手を掴むと友達も痺れる。こうしてどんどん列を伸ばし、どこまで電気が届くのか調べたのだ。途中、友達だけでは足りず他のお客さんも動員して列を伸ばして行ったが、とうとう先頭が番台の横の出口のところまで達しても、まだ「痺れてる!」と叫んでいる。電気風呂恐るべし!想像以上の結果に僕が大満足だったことは言うまでもない。

 銭湯といえば、湯上りに飲む冷たい牛乳が格別だった。コーヒー牛乳、フルーツ牛乳も捨てがたいが、僕の一押しは何と言ってもカスタード牛乳だった。卵、牛乳、バニラが渾然一体となった甘みとコクは比類がなく、多少高くても納得だった。先日気になり、ネットで調べてみたが見つからなかった。今あればヒット間違いなしだと思うのだが。

 銭湯は帰り道も楽しかった。風呂桶を抱えたまま洋品店を覗いたり、夏場には裸電球の下で店開きする金魚すくいに興じた。横ではかき氷も売られ、さながら夜祭だった。

 銭湯には日常とはまた別の独自の時間が流れていた。そこで毎日過ごした体験は僕の心に他ではけっして得られない特別の思い出を残してくれたのである。

人間の時間、猫の時間

猫はいつものんびりしているように見える。だが、猫自身は特にのんびりしているつもりはないだろう。朝起きて会社に急ぐ必要もなく、夕飯の支度に追われることもない。気ままに生きる彼らをみてわれわれが羨ましがっているだけなのだ。

猫も夜になればどこかに出かけて行くし、道を渡るときには間合を測って身構える。彼らにもそれなりの時間感覚はありそうだ。では猫の時間と人間の時間は何が違うのだろうか。

猫には時計を見る習慣はない。いちいち今何時か気にしたりはしない。だが人間も常に時計を見て時間を確認しているわけではない。階段を降りる時、いつ足を前に出すかいちいち時計を見る人はいない。日頃の行動の多くは感覚的に行われ、猫とさほど変わらないのだ。

そもそも人間はいつから時計を気にするようになったのだろうか。人間にとって最初の時計は太陽だったと思われるが、当初は大まかな目安程度だったろう。明るくなったので活動し、日が傾けば危険を感じ家に帰る。この時点では猫とさして変わりはない。

しかし、あるとき人間は太陽の動きを正確な時間の目印、つまり時計として使おうと思いついたのだ。1日を時間の物差しにより分割し、いつ頃が狩りに適しているか、作業を終えるまでにどのくらいかかるかなど、生活の中に本格的に時間が入り込んできたのだ。

一方、太陽が毎日昇っては沈むうちに次第に季節が変わり、しばらくすればまた同じ季節が戻ってくることにも気がついただろう。そしてそれに合わせて冬に備え食料を蓄えることなども学習して行っただろう。それには1人の人間の力だけでは無理で、何代にもわたる経験の積み重ねが必要だったかもしれない。

こうして人間は太陽の運行を元に時間という物差しを作り、その物差しを日頃から意識して暮らすようになった。猫とは一線を画すようになったのだ。

さらに村のような社会ができると村の人たちが同じ時間を共有する必要が出てくる。さもなければ待ち合わせもままならないからだ。太陽の位置は見る場所によって変わるので日時計が作られ、そこから得た時間情報を村全体で共有するために定期的に狼煙を上げたり鐘を鳴らすような工夫もしただろう。複雑な社会の構築には時間は不可欠だったのである。

一旦時間が共有されると、今度はそれに合わせて生活しなければならなくなる。店はいつでも開いているわけでもないし、会議に遅れることは許されない。社会的な利便性のために作り出した時間に今度は人間が逆に支配されることになったのだ。

過去や未来という概念も時間の物差しを持つようになって初めて生まれたものだ。自分の記憶と過ぎた去った時間を組み合わせることで過去が生まれ、来たるべき時間に何が起こるかを想像することにより未来が生まれる。従って、猫には過去や未来もありそうもない。

現代人は富を生み出すために時間をいかに効率よく使うかを日夜追求している。一方、時間があるからこそわれわれは未来を案じ過去を懐かしむことができる。富への欲望も情緒豊かな文化も実は時間により生み出されたものなのだ。

ゆっくりの効果

最近、ゆっくりやることの効果に驚かされたある事件があった。それは例によってピアノの練習においてだった。

難しい箇所をゆっくり弾くというのは練習ではよくあることだ。普通のテンポでうまく弾けない所をなんとか弾けるところまでテンポを落とすわけだ。だが、ゆっくり弾くことの効用は単にそれだけではなかったのだ。

このところ取り組んでいるモーツァルトのK533のソナタでは、いたるところで対位法が駆使され、幾つものメロディー(声部)が同時に進行する。左手と右手でそれぞれのメロディーを弾く場合もあれば、左右で3つのメロディーを弾く場合もある。

そうした対位法音楽においては各メロディーをしっかりと自分の耳で聴きながら弾くことが大切だ。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、指では複数のメロディーを同時に弾いているのに耳は1つのメロディーしか追っていない場合が多々あるのだ。

そうした場合、演奏が不自然になり先生からすぐに指摘される。だが、情けないことにそこでいくら注意しても一向に聴こえてこない。自分で弾いているのに聴こえないのだ。

こうしたことはこれまでにもしばしばあった。永年の課題なのだ。今回も諦めかけていたが、ふと思いついて極端にゆっくり弾いてみた。普段の5分の1ほどのテンポで一音ずつ確認しながら弾いてみたのだ。すると断線していた電線が急につながったかのように、聴こえなかったメロディーが突然耳に飛び込んできたのである。一旦、聴こえるようになればしめたもので、その後は徐々にテンポを上げても見失うことはない。

僕は唖然とし、同時に思った、これはピアノだけの問題ではないと。われわれは日頃から何をやるにも急いでいる。その中で気づかぬうちに多くの大切なものを見落としてきたのではないのか。

そこで、自分が不用意に急いでいないかどうか日頃からチェックしてみることにした。すると特に急ぐ必要がないのに急いでいることが多いのに気づかされた。

例えば、読書。本来、小説を読むのに急ぐ理由は何もないはずだ。だが、どうやらこれまでは無意識のうちにストーリーを追いかけ先を急いでいたようだ。気をつけてゆっくり読んでみると、一言一言に込められた作者の意図や工夫の跡がそれまでに比べよく見えるのだ。その結果、作者に対する印象さえもがらりと変わってくる。

ピアノでもそうだが、ゆっくりやることは意外と難しい。われわれは常に急ぐ癖がついていて、ゆっくりやると逆に調子が狂うのだ。だが、ゆっくりやることの効果を実感できるようになると生活の密度が濃くなって来る。同時に焦らなくなり気分も落ち着いて来る。

われわれは時間を節約するために急ぐ。だが、そのことで失うものが多ければ、時間を無駄に過ごしていることになりかねない。効率を追求することで、実は肝心の中身がなくなっているのだ。

「脱力」のすすめ2

以前、エッセイをまとめて本にした際、『「脱力」のすすめ』というエッセイにまず目を止める人が多かった。脱力を切望している人は意外に多そうなのだ。

そうした人たちは日頃から様々なことに精力的に取り組んでいる場合が多い。脱力したいと感じるのは、何かをする際、ついどこかで無駄な力が入っているという自覚があるのだろう。力を抜くべきところで抜けていない、それを何とかしたいと思っているのである。

以前にも書いたが、僕自身、脱力においてはしばらく前に大きな進捗があった。永年練習してきたピアノにおいて、ある時、急に力の抜き方がわかったのだ。それはあくまでもピアノにおいてのことだが、そのインパクトは大きく、その後の人生観がかなり変わったように思う。「脱力には方法がある」とわかったことで、自分の人生の可能性が急に広がったように感じるのだ。

うまく弾けないので何とかしようとしている時に、先生から「力を抜いて」と注意されても簡単に力が抜けるわけがないと以前は思っていた。無駄な力を抜けと言われても何が無駄で何が必要なのかよくわからない。それでも必死に力を抜こうとすると、今度は別のところに力が入ってしまう。一体どうすれば良いのだ。

実は力を抜くためには力が抜ける弾き方をしなければならないのだ。S先生は生徒に手の力を抜かせるためにあるおもしろい指導をしている。鍵盤に指をくっつけたままで弾かせるのだ。これは慣れないと非常に弾きにくい。何しろ指に全然力が入らない。手応えがない。こんなやり方で本当に弾けるようになるのだろうか、と投げ出してしまってはダメである。

とにかく、まず指に力が入らないようにするところから始めるのだ。もちろんうまく弾けない。だが、あれこれやっているうちに、時々鍵盤にうまく力が伝わりいい音が出ることがある。どうやら指の力を補うために無意識のうちに手首を使っているようだ。こうして徐々に手首を使って弾く感覚が身につき、力を入れなくても弾けるようになって行くのである。

ここで大切なことは、何としても脱力するという強い意志だ。脱力を簡単に考えてはならない。ちょっとリラックスするくらいでは脱力はできないのだ。

本来、何であれ正しいやり方をすれば無駄な力は入らないはずだ。脱力できていないということは、何かやり方が間違っているのである。向上心が強いのも時には仇になる。上手くなろうとか結果を出そうするあまり力が入る。しかし、そんなやり方で無理やり何かを達成しても肝心なところは上達していないのだ。しかも、正しいやり方なら得られるはずの大きな喜びがない。僕は自分のピアノでそのことを思い知らされたのだ。

現代のように忙しい時代は、誰もが結果を急ぎすぎる。そういう癖がついてしまっているのだ。だが、それによってわれわれは人生の多くを無駄に使っているのかもしれない。何事に対しても一度立ち止まって、どうすれば脱力できるのか真剣に考えてみる必要がある。脱力できて初めて自分の生き方ができるのだ。

死に方というテーマ

先日、樹木希林さんがなくなった。全身に癌が転移している状態で淡々と生きる姿には、死を前にして研ぎ澄まされていく彼女の生を強く感じさせられた。

生前、希林さんは「死を覚悟したらスーッと楽になった」と言っていた。これはまさに釈迦の「執着するな」の実践ではないか。誰もが死から逃げようとする。だが、逃げればどうなるかを希林さんはよくわかっていたのだろう。

とはいえ、死を覚悟することは簡単なことではない。今自分が癌を宣告されたらどういう気分だろうかと考えてみれば容易に想像がつくが、再発と死への恐怖から癌患者のほとんどがうつ病になるという。ほとんどの人が死を受け入れる術を持たないのである。

希林さんは、死ぬ準備をする時間があるので癌も悪くないと言っていた。冗談にも聞こえるが、そうではないだろう。歳を取ると体力も頭脳も衰えてくる。その結果、体調は悪くなり時には耐えられない痛みと戦わなければならなくなる。それまで当たり前にできたことが一つまた一つとできなくなっていくのも大きな精神的苦痛だ。そうなる前に自分の意思で幕引きできることを希林さんは心からありがたいと思っていたに違いない。

今年3月に骨折した僕の母が、先日、「寝たきりになって何にもできんようになったら、死んだほうがましだな」とボソリと言った。思うように体が動かず、何をやってもすぐに疲れてしまう。横になっていても辛い。好きだった読書も全く頭に入らないようになった。今はまだ少しは回復に望みを持っているが、いよいよ寝たきりになったらそれも諦めるしかないと自分に言い聞かせているのかもしれない。

母の母は、死ぬ数年前から「私みたいなもんは、もう死なないかんのだわ」と口癖のように言うようになっていた。そして、ある日、食事も水も拒絶し自ら命を絶った。その祖母の覚悟は側で見守るわれわれに何とも言えない感動を残した。母は、時が来たら自分も祖母のように死のうと思っているのかもしれない。

いくら素晴らしい人生でも最後に苦しい思いをしなければならないとはなんとも理不尽だ。生命が危険な状態になると生体は全力でそれを回避しようとし、それが苦しみをともなうのだろう。とはいえ、もし死が心地よいものなら人はすぐに自ら進んで死んでしまうに違いない。苦しみは生物が簡単に死なないために不可欠な仕組みなのだ。

そうした苦しみをへて、とうとう生命の維持が不可能になった時、人は死を迎える。だが、現代は医療が進歩し簡単には死ななくなっている。自力では生きられなくなってからも長い間生き続けることになる。将来、医療の進歩により、寝たきりで意識もない状態でも何十年も生きられるようになり、人口の大半をそうした人が占める世の中になるかもしれない。そうなっても、医療はけっして生命の維持を放棄するわけにはいかない。

われわれは、今、納得のいく死に方を見つけるべく模索を迫られているのではないだろうか。生き方だけでなく死に方も人生の大きなテーマになりつつある。