1000m/20分

 ちらりと時計を見上げると、19分3秒を指していた。あと57秒。最後の50mだ。3秒の遅れくらい何とかなる。最後の力を振り絞って腕の回転を上げ、ビートを打つ足にぐっと力を込める。一瞬、脳が酸欠状態になるが、そのままゴール。時計を見上げると、20分ちょうど。遂にやったのだ!

 この数年、健康のために、毎週、1000mずつ泳ぐことにしている。当初は、風邪気味だとか、疲れているとか、何かと理由をつけては中断し、結局、月に1-2回も行けば良いほうであった。しかし、この2-3年は、海外出張など止むを得ぬ場合を除けば、ほぼ毎週行く習慣を身につけた。タイムのほうも、かつては、30分弱かかっていたが、ぐんぐん伸びて、昨年の始め頃には23分30秒程になっていた。そして昨年の年初の計で、無謀とは思ったが、1000m20分を切るという目標を掲げたのだ。

1000m20分というと、50mを1分のペースである。しかし、コースは一方通行で、ターンの度に隣のコースに移らなければならない。斜めターンは禁止で、25mごとに、コース変更のために1-2秒のロスが出る。1000mでは39回ターンをするので、それだけでも、40~80秒くらいのタイムロスである。従って、少なくとも50mを58~56秒くらいのペースで泳ぐ力が必要がある。さらにプールが込んでいると、他の人が邪魔になる。平泳ぎで一生懸命泳いでいる人を追い越そうとする時など、わき腹をキックされることもあり、実際には、さらにハイペースで泳がなければならない。

 毎回、苦しさに耐え、泳ぎのフォームを修正して、昨年の夏には21分30秒程度に達した。しかし、そこからがなかなか縮まらない。最初の100mは、ゆっくり泳いでも、50m50秒ほどのペースである。もし、このペースを維持できれば、16分40秒で泳げる計算だが、200mも行かないうちに腕が重くなり、後半の500mは、必死の形相にも係わらず、一向にペースは上がらず、無情にもずるずると後退してしまうのである。

ところが、昨年の11月18日に、突如として20分30秒という驚くべき(?)記録が出た。娘の競泳用のゴーグルを借りたおかげか、或いは、特別体調が良かったのか、原因は定かでない。しかし、それはフロックではなかった。その次の週には、冒頭に述べたように、さらに30秒短縮して、とうとう20分に到達したのである。

 年末年始の休みで体がなまり、今年に入って、また20分台に逆戻りしていたが、2月に入って、再び20分を切った。そして、先日、スイミングパンツを新調すると、なんと18分55秒とあっさりと19分の壁も突破してしまったのである。一体、記録はどこまで伸びるのか?もっとも、あと新調するとすれば、スイミングキャップだけなのだが...。

ホームベーカリーがやって来た

 昨年の大晦日の夕方、小岩駅の雑踏のなかで、雑煮用の餅を買い忘れていたことに気がついた。慌てて店を探したが、どの店もすでに売り切れ。しかし、正月早々、真空パックの餅も情けない。「だが、待てよ」と、手元に目が行く。その時は、上京した母と、暮れの東京見物の帰りだったが、手には大きな荷物を抱えていた。先ほど、秋葉原のヨドバシカメラで、衝動的に買ってしまったホームベーカリーである。そうだ、これは餅もつけるのだ。それを思い出して予定変更。餅の代わりに餅米を買って帰ることにしたのである。

 ホームベーカリーはもともとパンを焼くものだから、餅つき機能はあくまでおまけだ。元旦から、炊飯器の横に鎮座したホームベーカリーを見て、果たしてまともな餅ができるのかと心配になる。娘達は当てにしてない様子。ところが、である。作ってみると、歯ごたえ十分。予想をはるかに超える出来ばえなのだ。何しろつきたてである。市販のものより断然うまい。どうだ!と興奮気味のお父さんに、娘達はあきれ顔だが、ともあれ、我が家のホームベーカリーは、元旦の餅つきで、鮮烈なデビューを飾ったのであった。

 ホームベーカリーの本領は、もちろんパンを焼くことにある。材料の計量が少し手間だが、そこは同じくヨドバシカメラで購入したパンミックスを使って手を抜くことにする。となると、ほとんど何もやることがない。パンミックスと水200mlを容器に入れ、同封のイーストをセットすれば、蓋をしてスイッチを入れるだけである。朝、目覚めるころには、香ばしいパンの匂いが家中に充満する。肝心の味だが、市販のかなり高級な焼き立てパンにも引けを取らないレベルと言って良いだろう。

 しかし、ホームベーカリーの真骨頂は、何と言っても「具入りパン」にある。まずはレーズンパン。自分で作るとわかるが、レーズンは意外に高い。市販のレーズンパンにレーズンが少ないのはそのためなのだ。その点、自家製の場合、好きなだけ入れられる。その結果、これぞレーズンパン、と呼べるものが焼き上がった。さらに、無花果、チョコレート、ミックスフルーツ、キナコ、ベーコン、黒糖、バナナ、果汁などなど。生地にイチゴ練りこみドライイチゴを加えたイチゴパン、ソーセージ入りカレーパン、味噌パンなど、杉山家オリジナルのパンも続々と登場している。いずれも材料はケチらない。

 さらに、このホームベーカリーを使って、うどんやパスタ、ケーキもできる。早速、うどんに挑戦。もちろん、機械でできるのは、粉を練るところまでで、それを2時間ほど寝かせて麺棒で伸ばし、包丁で切らなければならない。太さも長さもまるで不揃いなうどんを、しかし、たっぷりの鰹節で取った関西風のだしをかけて供すると、家族一同、無言ですする。もっちりとしたうどんは、かむほどに味が出るのだ。そして思わず、「うまいねぇ、このうどん!」の声。ホームベーカリー恐るべしである。

受験

受験生とその親にとっては、目の前にそびえる受験は、あたかも人生の勝ち負けを決する天王山である。最難関の大学に合格すれば、何物にも代えがたい優越感が得られ、逆に落ちた者には、容易に回復できない劣等感が刻み付けられる。しかも、こうしてできた序列は一生消すことができない。そうした思いがひたすら受験生を駆り立てる。

しかし、受験は本来、あくまでも大学の選抜試験であり、それ自体が最終目標ではない。むしろ本人が優秀なら、どこの大学に行っても活躍できそうなものである。もし気にするなら、大学の研究環境、つまり教官の質や設備の良し悪しなどのほうがずっと重要ではないだろうか。しかし、受験生やその親の関心は大学の中身ではなく、あくまでも合格の難易度なのである。難しい大学に合格することにより得られる満足感は、大学で何をやるかということより遥かに重要らしい。なんとも奇妙な現象であるが、そこに受験の受験たる所以がある。

それにしても、そうした難関に合格することは、果たして世間で思われているほどのステイタスがあるのだろうか?今や昔のように、有名大卒の看板だけで一生飯が食える時代ではない。世の中はすでに実力主義の時代で、かつてのような学歴に対するこだわりはなくなりつつある。特に大企業でその傾向が強い。有名大卒の看板に、まだ黄門様の印籠のごとき輝きがあると思っているのは、全くの幻想と言ってよい。

もっとも、もし受験勉強が将来非常に役に立つものなら、競争心をあおり学生を必至に勉強に駆り立てる受験は、それなりに意味があるだろう。国民の能力向上のために、心身ともに成長する時期に適切な教育を施し、将来の飛躍の基礎を身につけさせることは理にかなっているし、そのためには競争も必要だろう。しかし問題は、受験勉強そのものに、そうした効果があるかということである。これには色々な意見があるだろうが、僕の考えでははなはだ疑問である。例えば、よく言われるように、受験英語は実践では通用しない。これを受験関係者は、受験勉強は基礎だから、将来、会話の勉強をすればよいと言うが、しかし、アジア諸国の中でも、大学生がろくに英語で議論もできないのは日本くらいのものである。世の中の急速な変化にもかかわらず、基礎だから、という理由で、旧態依然とした受験教育を続けることは、将来を担う若い才能を潰しかねない。

こうした難題を抱えた受験にどう臨むかは、当事者である子供だけでなく、その親にとっても大きな課題である。受験生の親が、自分の子供にどういうアドバイスができるかは、親がどう生きているかを試されてもいるのである。

便利さが奪うもの

かつてLPレコードというのはかなり高価なものだった。小遣いをはたいて買ってきたレコードを、傷つけないよう慎重にジャケットから取り出し、静電気で付いた埃を入念に取り除く。演奏中のプツプツというノイズを減らすためだ。そして静かにレコードが回り始める。針が落ち、曲が始まるまでの数秒間、呼吸を整え、一気に集中力を高めたものだ。

CDが登場すると、傷も埃も気にする必要はなくなった。音質は向上し、操作も手軽になった。気がつけば、かつては宝物のように大切にしてきたレコードも全く出番がなくなってしまった。しかし、先日、ふと思った。CDで音楽を聴くようになって久しいが、かつてレコードから受けたような感動を受けたことがあるだろうか。心を揺さぶられた演奏の記憶はなぜかレコードの頃のものばかりなのである。

レコードがCD、さらにはiPodへと移り変わってきたのと同じように、現在、フィルムカメラはデジカメに変わりつつある。フィルムが不要で、撮ったその場で見られ、しかも失敗しても何度でも撮り直しが利くデジカメは、フィルムカメラに比べ遥かに便利である。何の気兼ねもなく、パシャパシャといくらでもシャッターが切れる。しかし、いざ本気で撮ろうとすると、逆にこの手軽さが邪魔になる。なんとも気合が入らないのだ。

便利さは煩雑さを取り除いてくれる。それ自体は悪いことではない。しかし、何か肝心なものまで失われてしまっているのではないか。便利だが質は劣るという場合はまだ良い。例えば、冷凍食品の味は、まだちゃんと作った食事には及ばない。しかし、冷凍食品の方が断然おいしく、しかも安くなったらどうなるのだろうか。CDやデジカメのように、手作りの料理に取って変わってしまうかもしれない。しかし、料理に手間をかけるのは、ディメリットばかりではない。自分で作るからこそ、味に個性が出る。自分でこだわって作るからこそ、おいしそうに食べる顔を見る喜びがあるのである。便利さは、そうしたものまで同時に奪ってしまうのである。

最近のテクノロジーの進歩は、便利さを生活の隅々にまで行き渡らせつつある。人間は元来、怠け者である。より便利なものが現れると、それまでのものは急に不便に感じられ、たちまち淘汰されてしまう。そして麻薬のように、一度慣れてしまうと、もう後には戻れない。今や便利さは消費行動を決定する最大の要因なのである。

このところ、元旦から開くスーパーも現れた。確かに正月も開いているとなれば、年末にたくさん買い込む必要もない。しかしその便利さは、正月独特のゆっくりとした時間の流れを奪い、普段と変わらぬ生活を押し付ける。いったい何のための便利さなのか。

母の手術

 先日、母が足の手術をした。永年患っていた股関節を人工関節に換えたのだ。

30年ほど前、母は股関節に違和感を覚えた。しばらく放っておいたが、次第に痛みが増し、自動車のクラッチを踏むのが苦痛になってきた。病院へ行くと、変形性股関節症と診断された。

股関節は、骨盤の臼蓋部に大腿骨の骨頭が嵌ってできている。通常、この臼蓋部と骨頭部のいずれの表面も数ミリの軟骨に覆われ、クッションの役割を果たしているのだが、変形性股関節症ではこの軟骨がすり減り、クッション性が弱まると同時に激しい痛みを伴うようになる。筋肉痛に似た違和感を覚える初期の段階では、筋力トレーニングなどで関節への負担を減らし、症状の進行を食い止められる場合もあるが、痛みが発生する頃になると、体の違う部分から切り取った骨を接ぎ、関節の形状を整える骨切り術が必要となる。さらに治療が遅れ、軟骨が磨滅し、関節の変形も大きくなってしまうと、金属製の人工関節に換える以外になくなる。

 母の病気がわかったとき、すでに骨切り術の話はあった。ただ、手術をすれば最低1年から1年半は療養生活が必要となる。父の店で働き、家計を支えていた母が、長期間店を抜けるのは痛い話だった。父も頭ではわかっていても、無意識に母の手術から眼をそむけた。それまで高度成長の波に乗って店の業績を拡大して来た父が、ちょうどオイルショックの不況で大きな挫折に直面していた時期だ。母の足を優先する余裕はなかったのである。

痛みで眠れぬ日もしばしばだったが、母は杖をつくことにより、多少なりとも症状の進行を遅らせる以外になかった。さらに、その数年後、父が癌で逝く。母は店を切り盛りせねばならなくなり、手術の機会はさらに遠ざかってしまったのである。

今回の手術に先立ち、医者は口をそろえて、「良くここまで持ちましたね」と言った。しかも検査の結果、母の大腿骨の骨頭部は、単に磨滅するのではなく、脇にもう一つ球状の瘤を形成し、そこが新たな骨頭として荷重を支える役目を担っていたのである。恐らく、苦痛を避け、患部への負担を減らすために体が適応したのだろう。さらに骨盤側の臼蓋部も、瘤により大きくなった大腿骨頭をカバーするため、端が庇のようにせり出して、脱臼を防いでいたのである。こんなことがあるのかと医者も驚いていたが、まさにそのように変形した関節に、長い間病気と戦ってきた母の意志の力を見る思いだった。

最近の母の病状は、必ずしも緊急に手術を要するほど差し迫っていたわけではない。ただ、人工関節に換えれば、足の心配をせずに自由に旅行にも行けるようになるだろう。母はそう思ったのだ。73歳になって、母はやっと自分のために手術をしようと決心できたのである。

心の住みか

 10年ほど前に家を建てようと思ったことがある。どうせ建てるなら、山から自ら材木を調達し、とにかく無垢の木と石をふんだんに使って、自然素材に抱かれる家にしたいと思っていた。しかしこの計画は、処事情により宙に浮いてしまい、結局、今だに賃貸マンション暮らしを続けている。すでに土地があることもあり、ずっとマンションを買うことなど考えたことがなかったのだが、最近、この十数年の間に払った家賃が馬鹿にならないことに気が付き、ふと、中古の分譲マンションでも探してみようかという思いが浮かんだ。試しにインターネットで検索してみると、案外、手の届きそうな物件がちらほらある。さっそく不動産屋さんに頼んで、いくつかの部屋を見せてもらうことにした。

 家族で住む家は、僕一人の一存で決められるものではない。今住んでいる場所は、僕にとってはもともと縁もゆかりもない土地であるが、子供達にとって事情が違う。特に、現在通っている学校に、今後も無理なく通い続けることができるという条件は、彼らにとっては譲れないものなのだ。従って、まずエリアに大きな制約がある。さらに、広さ、間取り、日当たり、外観、セキュリティーなどの諸条件が、現在の賃貸マンションより改善しないと、家族は納得できないらしい。駅からあまり遠いのも困る。しかも、住居費が現在より下がらなければならないとなると、これはもう、そう簡単に見つからない。間取り図と地図をにらみながら悪戦苦闘する日々が始まった。

そんな矢先、TVで建築家の藤森照信氏を紹介する番組があった。氏はもともと建築史家であったが、15年ほど前に、ある資料館の設計を依頼されたのをきっかけに、設計を手がけるようになった。徹底的に自然素材にこだわる氏の建物は、現代のモダニズム建築とは全く逆を行く。縄文人はかつて、竪穴式住居のなかで、どんな気分で暮らしていたのだろうか?住居が持っていた、原始的な肌触りを現代の建築に取り入れたい。氏の思いはひたすら非工業的なものに向いて行く。その結果、住居の壁や屋根一面に植生を生やし、毎日の水遣りを欠かせばたちまち枯れてしまう住居ができあがる。果たして住みやすいかどうかは疑問である。しかし、そこでは家は単なる「箱」ではない。家自体と強く係わるうちに、ついにはそこに住む人の心に棲みついてしまう、そんな家なのである。

藤森氏によれば、人は自分が生まれ育った家や路地などを前にしたとき、最も強く「懐かしい」という感情を抱くそうである。家は、知らず知らずのうちに、そこに住む人の心に深く入り込んでいるのである。今回、いろいろ観てみて、分譲マンションと言えども、それぞれ個性があり、驚くほど違った印象を覚えた。今回のマンション巡りは、どうやら我が家のメンバーが、自らの心の住みかを探す出発点になりそうである。

発想の転換

先日、ピアノの練習で画期的な進歩があった。僕は昔から、譜面を睨んだまま、できるだけ手元の鍵盤は見ないで弾くようにこころがけてきた。大人になってから自己流でピアノを始めたため、それが正しい練習方法だと信じてきたのである。しかし、音程が大きく飛ぶような場合、鍵盤を見ないとどうしても音をはずすことが多くなる。先生は、そうしたときだけ手元を見るように勧めるのだが、永年見ない癖がついているので、下手に見ようとすると余計に間違える。先生と対策を練った結果、思い切って暗譜してみては、ということになった。譜面を全部覚えてしまえば、後はずっと鍵盤を見て弾けばよい。しかし、子供にとっては発表会の前に必ずする「暗譜」という作業を、僕は一度もしたことがなかった。案の定、やってみると大いに戸惑った。譜面を睨んで指の位置を探るのと、音を覚えて鍵盤を見て弾くのでは、全く異なる作業である。そもそも鍵盤を見て弾けば、間違えないのは当たり前ではないか。これでは練習した気がしない。満足感がないのである。

ところが、暗譜を始めるとすぐに思わぬことが起こった。単に音をはずさなくなっただけでなく、演奏が急に表情豊かになったのである。これには先生も驚いた。それまではどうやら、譜面を見て指に指示を出すのに、脳の全パワーを使い切っていたようである。簡単なところは問題ない。しかし、弾きにくい箇所に差し掛かると、指で鍵盤を探ることに集中しなければならない。肝心の音楽がお留守になるのは、考えてみれば当然のことである。傍で聴いていた先生は、僕の演奏が時として急にぶっきらぼうになるのになんとも言えぬ違和感を覚えていたようである。何かが欠けている。しかし、その何かが鍵盤を見るなどという初歩的なことだとは思いもよらなかったのだ。最近では、ピアノを弾く際、今まで感じたことのない音楽の豊かさを感じるようになった。一つ一つの音に気を配るようになり、フレージングは滑らかに、かつダイナミックになった。演奏に表情がないという永年の課題に対して、思わぬ形で大きく前進したのである。

一生延命やっているのに、なかなかいい結果がでない。今度こそ頑張ろうとよりいっそう努力はしてみるが、結果はやはり芳しくない。そうした場合、本人は自分なりに工夫しているつもりでも、実は根本的な問題には手がついていない場合が多い。永年やってきた自分のやり方に慣れ、工夫の仕方がいつしかパターン化しているのだ。実はそうしたことが知らず知らずのうちに自分の可能性を狭めているのではないか。無闇に頑張るだけでなく、たまには立ち止まって発想の転換を図ってみてはどうだろうか。

卒業

先日、長女が小学校を卒業した。一学年一クラスの小さな小学校なので、家族的な雰囲気の中、出席者一同、暖かい眼差しで一人一人の成長を祝福した。入場のときからすでに感極まって涙を流す子供達が多いなか、普段はあまり感情を表に出さない我が娘も涙をこらえるのに必死の様子だった。

子供達の涙につられるように、親達の胸にも熱いものが湧き起こる。つい先日、入学したばかりと思っていた子供が、いつの間にか見違えるように成長し、大きな怪我もなく、無事に卒業式に臨む子供の姿をみて喜ばない親はいないだろう。しかし、子供達の感慨は、親のそれとはちょっと違うようである。彼らにとって成長は当たり前で、昔の自分も今の自分も同じである。そんなことより、最近の友達同士の充実した時を思い、別れを惜しみ、将来に向けた期待と不安に胸を詰まらせているのである。そうなのだ。子供はいつの間にかおとなになっているのである。わが娘も、この2年ほどの間に、自分にとって何が大切で、どんな努力が必要なのか、自分なりの考えを持つようになった。子供の成長は、運動能力や知能だけではない。そうした心の成長に触れるとき、つくづくおとなになったと感じるのである。

娘の表情をビデオで追ううちに、いつしかかつての自分自身を思い出していた。いまから35年前、ちょうど大阪万博で日本中がお祭り騒ぎに沸いていた頃、僕は小学校を卒業した。僕の小学生最後の1年は充実していた。しかも、前年のアポロ11号の月着陸に刺激された少年の夢は、未来に向けて大きく膨らんでいた。にもかかわらず、卒業してから中学校に入学するまでの2週間あまりの間、一人で家にいると涙が止め処もなく溢れ出てきた。なぜだか良くわからない。確かに何もかもうまく行っているように見えた。しかし、心の中には何ともいえぬ空しさがあった。その後の人生に待ち受ける苦難を、僕はそのときすでに予感していたのかもしれない。

成長が必ずしも人生をらくにするわけではない。成長した心が、必ずしも現代の社会と折り合いをつけられるとは限らない。また、自らの理想と現実の間で葛藤しないとも限らないのである。娘はまだ出発点に立っているに過ぎない。今の彼女が、かつての僕自身と同じ不安の中にいないと言えようか。しかし、今振り返ると、そうした不安は、感受性が強い思春期を生きるものの特権である。僕はあえて娘に、大いに悩み大いに傷つけと言いたいのだ。それが、その後の人生に何ものにも代えがたい宝を残してくれるだろうから。

生涯の師 小林秀雄

生涯の師は誰かと聞かれれば、僕は迷わず小林秀雄と答えるだろう。直接面識もなく、ましてや師事したわけでもないが、彼の文章から受けた影響は、彼をそう呼ぶにふさわしいものがある。

それほど僕を惹きつける小林秀雄の魅力とはなんであろうか。彼は近代日本文学において、はじめて「芸術としての批評」を確立したと言われる人である。その対象は文芸に留まらず、モーツァルト、ゴッホなど分野を越えて縦横無尽に広がっている。彼のそれらの対象に対する造詣の深さは並み大抵のものではない。「ドストエフスキーの作品」を書くために、小林は「罪と罰」や「白痴」などの作品を、何十年もかけて何十ぺんと熟読したと言われている。ロシア文学の専門家といわれる人でも、ドストエフスキーの研究書の類は読んでも、こうした作品をそのように読み返すことはないそうである。彼はもとよりそうした専門家ではない。彼のあらゆる作品は、あくまでも彼が受けた強い感動から生まれているのである。しかも彼は言う、「優れた芸術に感動すると、何かを語ろうとする抑えがたい衝動が沸き起こるが、しかし口を開けば嘘になる。そういう意識を眠らせてはならない」、と。彼の創作は、常にそういう意識のもとで行われてきた。ここに小林秀雄の批評家としての独自性があるのである。

小林の「モオツァルト」に、次のような一節がある。「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。彼の自意識の最重要部が音で出来ていた事を思い出そう。彼の精神の自由自在な運動は、いかなる場合でも、音という自然の材質の紆余曲折した隠秘な必然性をめぐることにより保証されていた。」彼はあえて、これをモーツァルトの「自由」と呼んでいるが、これはまた小林自身が創作において目指した「自由」ではなかったか。そして、小林秀雄を読むものが常に彼の中に見つけ、惹き付けられて止まないものではないだろうか。

この十数年、生活上の卑近な問題に追われるうちに、彼のあまりにも純粋でひたむきな世界は、無意識の内に近づきがたいものとなっていた。しかし、先日、久しぶりに本棚の彼の全集を手に取ってみると、彼の文章は干からびた僕の精神を潤すかのように、たちまち体内に勢い良く流れ込んできて、若い頃、僕を夢中にさせた彼の鋭い直感が、実は小林秀雄という精神の成熟の上に築かれていたことを改めて知らされることになったのである。

「脱力」のすすめ

一年の計は元旦にありという。ここ数年、新年を迎えると努めてその年のテーマを決めるようにしている。決めるといっても何かに書くわけでもなく、途中で変更することも珍しくない。新たに思いつけばその都度付け足す。こんなルーズな一年の計だが、やってみると、それなりに効果はある。もし一年で終わらない場合は、もちろん次の年に繰り越しである。いずれにせよ自分のことだ。どうやろうが勝手なのである。今年のテーマはかねてから「脱力」にしようと思っていた。

「脱力」を大いに意識するようになったのは、昨年、ピアノのS先生に、散々手首の力を抜くように指導されてからである。手首の力を抜くとはどういうことなのか。力を完全に抜けばだらりとしてしまいピアノは弾けない。当初、何ともつかみかねたが、とにかく椅子から立ち上がって固まっている手首をぶらぶらさせたり、思い切って上下左右に動かしているうちに、それまでいくら注意してもつかえていた箇所が急に魔法のように通るようになり、力を抜くことの重要性を思い知らされることになったのだ。弾けないと、余計むきになって指をコントロールしようとする。しかし、コントロールしようとする思いこそが、実は手首を固まらせ、指の動きを妨げるのである。このピアノにおける体験は全く新鮮で、自分が人生でそれまで取ってきたアプローチの限界をはっきり悟らされることになった。つまり、ピアノに限らず、物書きにおいてもビジネスにおいても、自分が向上しようと取り組む全てのことに当てはまるように思えたのである。

「脱力」しなければならないのは、すでに余計な力が入っているからだが、そもそも理にかなった力の入れ方をするにはどうすればよいのか。ピアノにおいては、何をおいてもまずよく音を聴くことが大切だ。そして指を動かそうとするのではなく、イメージした音を響かせるよう心がける必要がある。それをピアノ以外のことにどうやって応用するかが、今年の課題である。何をやるにしても、無闇に力を入れる前に、何が最も大切であるかをはっきり意識しなければならないのは間違いない。

とはいえ、最初からあまり構えてみても始まらない。まずはいつも「脱力」を心がけることから始めよう。そして、時には億劫がらずに椅子から立ち上がり、手をぶらぶらさせてみるのである。