ウクライナ戦争が訴える民主主義の重み

 224日、ロシアのプーチン大統領はロシア軍のウクライナへの侵攻を命じた。

 この侵攻に直接繋がっているのが、2014年に起きたウクライナ騒乱、つまりマイダン革命だ。ウクライナの首都キーウで民主化を目指す大規模なデモが起き、当時の親ロシア派大統領、ヤヌコーヴィッチを失脚させたのだ。

 これに激怒したプーチンは即座にクリミヤ半島に侵攻してこれを併合し、さらにウクライナ東部では親露派武装勢力が蜂起しドンバス地方に自治区を作った。

 プーチンは今回の侵攻の理由としてNATOの拡大によりロシアの安全保障が脅かされていると主張している。だが、NATOがロシアに侵攻するわけがない。彼が恐れているのはロシアの周辺国が民主化し、その波がロシアにも押し寄せることなのだ。

 同じ事情が東アジアにもある。2019年、中国は香港において国家安全維持法を制定し民主活動を抑え込んだ。これも習近平が香港の民主化運動が中国本土に飛び火することを恐れたためだった。独裁者にとっては民主化ほど恐ろしいものはないのだ。

 上記のマイダン革命でウクライナはロシアではなく民主主義を選ぶということを明確に宣言した。それ以降、プーチンはウクライナの民主化という強迫観念に取り憑かれ、ウクライナを支配下に置くべく今回の進行に至る作戦を進めてきたのである。

 彼はもとより泥沼の戦争をやるつもりはなかっただろう。ロシアが誇る強大な軍事力を見せつければウクライナは震え上がり簡単に降伏すると考えていたに違いない。それがこれまでのプーチンのやり方だった。

 だが、マイダン革命以降、ウクライナ人は脱ロシアを目指し軍事力に加えて情報戦も強化し、電力網も整備して来るべき戦いに備えてきた。さらにロシア侵攻が始まると自国と民主主義を守るために不屈の精神を示している。

 一方で西側諸国も一斉に強力なロシア制裁に動いた。さらにサイバー空間においても世界中のハッカーや民間企業が協力しロシア包囲網を形成している。世界中が民主主義を守るためにこれまでにない結束を見せているのだ。

 だが、どうやってこの戦争を終わらせるかは見通せない。プーチンにとってはウクライナで今後も民主化が進むことは許しがたい。一方のウクライナは、民主化を潰すためにロシアがいつでも軍事介入できるような条件は絶対に受け入れられない。

 今、行われている戦争は単にウクライナとロシアの戦いではない。民主主義と専制主義の戦いなのだ。ウクライナの人々は多大な犠牲を払いながら、世界中の人々に向けて改めて民主主義の重みとそれを守る覚悟を訴えているのである。

IT社会とストレス 

 今回のコロナ禍が社会にもたらした大きな変化の一つが在宅勤務の普及だ。本来ならばITが進歩した現代社会においては、技術的には出勤の必要はすでになくなっていたはずである。すでに40年前にはアルビン・トフラーが、パソコンの普及により「第三の波」が押し寄せ、在宅での仕事が当たり前になると予言していたのだ。だが、最近まで通勤がなくなることはなかった。

 今回、企業の多くはコロナを機に止むを得ない形で在宅勤務を始めたが、やってみれば心配したほど効率は低下せず、それどころかオフィス賃料や通勤交通費などの経費を大幅に削減するチャンスであることに気がついたのだ。

 働く側にとっても通勤がなくなればありがたい。ただ、かつてのトフラーの予言では、在宅勤務になれば人々が余暇などに使う時間が増え生活の質が格段に上がるということだったが、実際にもたらされたものは少々異なっているようだ。

 昨年の4月、知り合いの娘さんがある有名企業に入社したのだが、コロナの影響で入社早々在宅勤務となった。当初彼女は、せっかく憧れの会社に入社したのに、どうなってしまうのだろうかと心配していた。ところが、在宅勤務が1年程続いた頃、彼女は、このままずっと在宅でもいいと言い出した。今さら出社して複雑な人間関係に煩わされるのが不安だと言うのだ。多くのサラリーマンが在宅勤務を望むのは、通勤の煩わしさだけでなく人間関係に対するストレスから解放されたいからなのだ。

 ただ、現代社会では悪者扱いされるストレスだが、実は人が現実に適応するために不可欠なものだ。もちろん程度問題で健康に害を及ぼす程になれば別だが、人は人間関係に限らずさまざまなストレスを感じつつ、それを乗り越えていくことで環境に適応し成長していく。ストレスがなければ満足感も達成感も得られないのだ。

 特に人間関係におけるストレスとその克服という過程は重要で、それ自体が人生だと言っても過言ではない。考えてみれば、会社や学校、サークルなどの様々な組織は、人間関係の中で責任やプレッシャーなどのストレスを感じつつ自己を形成していくために人間が考え出した場、仕組みなのではないだろうか。

 その人間関係がネットの普及で劇的に変わった。従来は人目というストレスにより抑制されていた中傷やヘイトスピーチが、匿名性という隠蓑を得て噴出している。

 「言論の自由」はあくまでも従来の人間関係が前提となっている。ITがもたらすさまざまな社会問題を考える際には、人と人が直に会うことにより生じていたストレスが持っていたプラスの効果についても十分考慮する必要がある。

メダルの功罪

 コロナ禍でのオリンピックが始まった。開催には賛否両論あったが、東京オリンピックを目指して来た大勢のアスリートとその関係者がコロナ禍を乗り越え世界各地から一堂に会したのを見ると胸が熱くなった。

 開会式も控えめで観客の声援もない会場はまさに戦時下のオリンピックの様相を呈しているが、そうした中でメダル争いをめぐる興奮だけはいつもとかわらない。メダルは選手のモチベーションを高め、観戦する者にも熱狂的な興奮を呼び起こす。オリンピック独特の雰囲気はメダルによって生み出されていると言っても過言ではない。だが、オリンピックの季節が来るたびに、日本選手のメダル獲得に一喜一憂する一方で、メダルへのあまりにも強いこだわりに時として複雑な思いを覚えてきた。

 目標としてきたメダルを逃した選手が、「これまでやってきたことが全て無駄になった」と号泣する姿をしばしば目にする。期待されながらもメダルを逃した選手への心ない誹謗中傷もある。せっかく金メダルをとっても、その後、目標を見失い、精神的に病んでしまう選手もいる。そうした悲劇を目にするたびに、メダルとはそれほどのものだろうかと思わずにはいられない。

 こうしたメダルへの過剰なこだわりはメディアの責任が大きい。メダルを取るか取らないかでメディアの扱いは全く異なり、そのため世間の関心もメダリストばかりに向くことになる。その結果、メダルの重さが選手の実力を超えて一人歩きし、選手に異常なプレッシャーとしてのしかかることになる。

 もともと選手はその競技が好きでその道を志したはずである。そうした選手が最も充実感を覚えるのは自らの上達の瞬間に違いない。とはいえ一生懸命練習しても必ず上達するとは限らない。スランプもあれば怪我もある。そうした困難を乗り越えて選手たちが身につけた高い技術と強い精神力に比べれば、メダルの価値などせいぜいおまけ程度のものではないだろうか。

 メダルを有力視されていた選手が惜しくもメダルを逃した後、やり切ったというすがすがしい笑顔で勝者を称えるシーンを見ることがある。本人は悔しいに違いない。だが、そうした態度にこそその人の人間としての価値が現れるのだ。

 今回、選手たちは試合後のインタビューでメダル云々よりもまずオリンピックの舞台に立てたことに対する感謝を述べていて好感が持てる。できればさらに一緒に戦ったライバルたちへのレスペクトも積極的に表明してほしい。それによってメダルは本来の栄誉としての価値を取り戻すことができるのではないだろうか。

テクノロジーが生む格差

 テクノロジーの進歩は永年に渡って人々の生活レベルを向上させてきた。かつて人力でやっていた家事や仕事の多くは家電や機械が代行し、情報や娯楽はテレビやITによっていつでもどこでも手軽に楽しむことができるようになった。コンピュータはその計算能力で人間には不可能な予測や分析を可能にした。江戸時代と今の生活を比較すれば、その違いのほとんどがテクノロジーの進歩によるものであることがわかる。

 テクノロジーは企業の競争力の源だ。そのため、企業は生き残りをかけて新たなテクノロジーの開発にしのぎを削ってきた。その結果、優れたテクノロジーを開発できた企業が勝ち残り、その利潤を次のテクノロジーの開発に回すという循環によって企業は成長し経済が拡大してきたのである。

 特に20世紀後半以降は、経済におけるテクノロジーへの依存度は増し、経済戦争の実体はテクノロジーの戦争になって行った。しばらく前にアメリカがファーウェイの締め出しという行動に踏み切ったのはそれを象徴する出来事だった。なんとしてもテクノロジーで優位に立ちたいアメリカは、このままでは負けると判断し、禁じ手ともいえる行動に出たのだ。

 かつては、ある企業がテクノロジーで世界を席巻したとしても、その後、それが波及することで世界中が潤った。たとえ他の企業があるテクノロジーで先行したとしても、自分たちにも強みがあり、互いに共存していくことが可能だった。だが、最近ではトップと2番手以下の差があまりにも大きくなってしまい、先頭を走っている企業以外はすべて負け組になってしまう。

 戦争に勝つためには緻密な作戦を立てることが必要だが、その作戦が高度になればなるほど、一人の勝者が全てを取る傾向が強まる。高度なテクノロジーは同時にテクノロジーの戦争における作戦をも高度化していく。今の世界で起こっているそうした高度化された作戦においては、AIがチェスの駒を動かすように人を奴隷のように働かせることが折り込まれているのではないだろうか。最近、世界中で急速に格差が拡大している一因はそこにあると思われる。このまま行けば、テクノロジーの進歩がもたらす恩恵よりも格差による弊害のほうが大きくなってしまうだろう。

 この流れを断ち切るためには、そうした低賃金による働き方を禁止していくしかない。そうなれば、企業は自らの作戦からそうしたオプションを除外するしかなくなるだろう。もっとも、先端企業はすでに次を考えているかもしれない。つまり、今の低賃金労働者の仕事をテクノロジーで置き換えていく方法を。

資本主義は限界か

 毎年、年末年始には娯楽番組に混じって経済の特集番組が組まれる。特に最近は、資本主義の限界についての議論が盛んだ。

 20世紀の半ばまで、経済は生活に必要な「もの」中心に動いていた。毎日の食材、生活の利便性を高める家電や車などだ。しかし、20世紀後半になると世の中に生活必需品が一通り行き渡り、「もの」を売るのは次第に難しくなって行った。

 そこで1970年代になると、「もの」以外の新たな商品として金融商品が生み出された。ちょうどコンピューターの普及時期と重なり、金融は急速に発展していく。

 さらに20世期末にはインターネットが登場する。富を生み出す主役は情報などの無形資産に移り、GAFAのような巨大IT企業が世界の経済を支配するようになる。

 ただ、無形資産だけでは人は生きていけない。生活には様々な製品やサービスが必要だ。だが、次第に無形資産が圧倒的な利益をもたらし、「もの」の経済を凌ぐようになった。そうした状況においてはたして資本主義は豊かな社会を実現してくれるだろうか。近年、急速に拡大する貧富の格差は資本主義の限界を示しているのではないか。そう考える経済学者も少なくない。

 国家が巨大IT企業になんらかの規制をかけ、その利益を広く国民に分配するべきだという主張もある。だが、巨大IT企業と言えども常に厳しい国際競争にさらされ、彼らの競争力は今や国家の競争力に直結している。

 そして、忘れてはならないのが中国の存在だ。中国はITにおいても世界の先端を走っている。中国の独走を許すわけにはいかない西側諸国は、自国のIT産業の競争力を削ぐような手は打ちにくい。資本主義を追い詰め世界中で格差を拡大させている最大の要因の一つは、間違いなく巨大化する中国の存在なのだ。

 最近では西側諸国も自国の競争力をなんとか維持するために格差を容認しているように見える。一部の富裕層が国内の弱者層から搾取するまさに国内植民地主義ともいえる状態だ。世界のいたる所で資本主義は機能不全に陥っているのである。

 こうした状況において、単に格差解消を叫ぶだけでは効果は期待できない。格差をなくすことで競争力が高まる仕組みが必要だ。実は格差が広がり低賃金労働者が増えれば、国家は彼らが持っているポテンシャルを生かすことができない。本来、国民全員が多様な能力を発揮する社会のほうが競争力が高まるはずなのだ。

 まずは資本主義の限界を論じるよりも、経営効率ばかり考えている企業がもっと社員の能力を引き出す方向に発想を転換すべきではないだろうか。

米中対立の構図

 去る630日、香港において国家安全維持法が施行され、米中のみならず世界中で一気に緊張が高まった。だが、中国を一方的に悪者扱いするだけでは事態を見誤る。

 香港市民に対する強権的な対応が批判されているが、現在の中国は決して北朝鮮のような全体主義国家ではない。新疆やチベット、内モンゴルなどを除けば、中国国民には共産党に人権を侵害されているという意識は全くない。それどころか今の豊かな暮らしを達成できたのは現在の国家体制のおかげだと考えている。さらに今回、世界に先駆けコロナの封じ込めに成功した政府の対応により、これまで自国の体制に疑問を覚えていた人たちも改めて自信と誇りを感じるようになっている。

 中国国内で西欧諸国以上に豊かな生活を送る北京や上海の市民にしてみれば、同じ国に属する香港市民がそれほど頑なに抵抗する理由がピンとこないに違いない。中国人からすれば、このところのアメリカの中国叩きは中国の発展に対する焦りと妬みによるもので、香港暴動では背後でそうしたアメリカが糸を引いているに違いないと考えている。内政干渉だと感じているのは外務省の報道官だけではないのだ。

 かつて西側諸国は、将来中国が豊かになれば自然に民主化すると考えていた。だが、共産党政権のもとで大発展を遂げた現在、ほとんどの中国人が自国の体制を支持している。西側諸国は中国市場という甘い餌に目が眩み見通しを誤ったのだ。

 すでに中国の国力はアメリカに迫り、近い将来追い越すのは確実だ。そこでアメリカはデカップリングを進め中国を孤立させ、なんとか発展のペースを遅らせようとしている。まず、中国が最も嫌がる香港・台湾問題に介入して民主主義の危機を煽り、他の西側諸国を中国から引き離す。同時にファーウエイやTIC-TOCKなどの中国発の先端技術を西側諸国からの締め出すのだ。

 これに対して中国も一歩も譲らない。半導体を始めこれまで海外に依存していたハイテク技術を全て自国で賄おうとしている。世界に先駆けコロナを封じ込め、経済を発展軌道に戻した自信から、現体制の効率と強みをとことん追求していく構えだ。

 先日、アメリカは安全保障も考慮して半導体産業に2.6兆円の補助金を投じると報じられた。これはまさに中国のやり方ではないか。中国の強さを徹底的に分析し、必要ならばその強みを自らも取り入れようするアメリカの必死さが伝わってくる。

 冷戦時代と異なり現在の中国市民の生活意識はアメリカや日本のそれと大差ない。違うのは政治体制なのだ。とはいえ米中が追求する豊かさはこれまた似通っている。となれば、互いの体制の摺り合わせを粘り強く行い共存の道を探るしかない。

物理 de ネット

10年ほど前から友人のKと物理の議論を続けている。つくばに住む彼は、東京の大学に非常勤講師として物理を教えに来ていた。その帰りに月に1度程度、どこかで会って物理の議論をするのが習慣になっていた。もっとも半分は飲み会である。

まず、喫茶店でコーヒーを飲みながら1時間ほど真面目に物理の話をする。その後、クラフトビールや日本酒のうまい店に移り、食事をしながら物理の話を続ける。次第に酔いが回り、自然と話は物理以外にも広がっていく。仕上げにバーでウイスキーを飲むころにはかなり酔っているが、突然、質問し忘れていたことを思い出したりして、そこでまた難しい物理の話に戻ったりする。

そんな楽しくも充実した会も新型コロナウイルスの関係で開けなくなった。Kも東京に出てくることはめったにない。

一方、家にいる機会が増えたため、腰を据えて物理の本を読でんみようと思い立った。運よく面白い本が見つかったが、読み進むにしたがってKに聞きたいことがどんどん出てくる。何とかしなければというわけで、巷で流行っているネット飲みを試してみることにした。「物理 de ネット」だ。

ネットにおいても最初はしらふだが、途中から飲み会に移行する前提であらかじめ酒やつまみは用意しておく。最初の1時間くらいは、事前に用意しておいた質問事項について議論するのだが、それが一段落する頃にはお互いに無性に喉の渇きを感じ始める。どちらともなくビールの缶を開けると第2ステージの始まりだ。

Kは議論の途中で、「ちょっと待って」というとパッと姿を消し、戻ってくると手にした本を広げ、「ここに杉山が言っていることが書いてある」などと言いながら説明を始めることがよくある。Kの豊富な蔵書が手元にあるのはネット飲みの大きなメリットなのだ。

また、Kがゼミで使う黒板代わりにタッチパッドを用意してくれ、画面上で数式や図を描きながら議論できるようになった。飲み屋でナプキンを広げ万年筆で数式を書き下していたのも味があったが、はるかに便利でわかりやすい。

神田あたりでやるのもいいが、Kとしても酔った足でつくばまで戻るのはちょっとつらい。ネットなら終電の心配もなく飲みすぎて失敗することもない。少々高級な酒やつまみを用意しても費用は格安だ。物理を肴に飲むにはもってこいの仕組みだ。

行きつけのバーのマスターの顔も懐かしいが、何分止むを得ない。しばらくは「物理deネット」の充実を図るべく工夫を凝らしていくことになりそうだ

追いつめられる労働者

先日、NHKで映画監督の是枝裕和氏が永年師と仰ぐイギリスの巨匠ケン・ローチ監督と対談する番組があった。

二人は永年家族が映す社会の姿を描いてきた。是枝監督は、あらゆる共同体の中で人がすがる最後の共同体が家族だと言う。その家族が今や崩壊の危機にさらされている。現代社会の過酷な就労環境のなかで、家族は精神と肉体をすり減らし、ついには家族同士で罵り合いを始めるに至る。

人類は、永年経済発展を続け飛躍的に豊かになったはずだ。それなのになぜ世界中で多くの人々がこれほど追い込まれているのだろうか。ローチ監督によれば、それは結局、経済的な競争が原因なのである。

企業はあらゆる技術、手法を用いて競争に勝ち抜こうとする。コンピューターやIT技術が進歩すると、そうした技術をいち早く取り込んだGAFAなどの大企業が市場において圧倒的な支配力を持つようになり、それ以外の企業と労働者はそうした巨大企業に奴隷のように従わざるを得なくなってしまった。

さらに中国などの新たなプレイヤーも台頭し競争に拍車をかけた。資本主義市場になだれ込んだ巨大な労働力が世界中で労働者の賃金を圧し下げたのだ。

弱者はもはや強者に対抗できず、自分よりさらに弱いものから搾取するしかない。勝ち組は負け組に対して自己責任だと突き放し、弱者は自らを責めるしかない状態に追い込まれていく。

本来ならば国家がそうした不平等を正すように努めるべきだが、今の国家は勝ち組優遇である。その方が政権維持に有利だからだ。しかもその事実を有権者に巧妙に隠し自分に批判が向かないようにしている。ある首相はこれまで一貫して経済優先を唱えているが格差が縮まる気配はない。にも関わらず選挙には勝ち続けているのだ。

富裕層はボランティア活動などでしばしば弱者に施しを与えているが、彼らが最も嫌がるのは弱者が力を持つことだとローチ監督は指摘する。だからこそ富裕層は国家とも手を組み自らの王国を守ろうとする。

こうした現状に労働者たちが気づいていないことが最大の問題であるとローチ監督は訴える。労働者を追い込んでいるのは、彼らから労働力を不当に盗んでいる大企業とそれを擁護する国家なのだ。労働者に現状に気づいてもらうためにローチ監督は映画を作り続けているのだ。気づきさえすれば、SNSを通じて労働者自身が声を上げることは十分可能なのである。

米中貿易戦争の行方

 先日のG20でアメリカは中国製品に対する追加関税措置の実施を延期した。だが、これで米中貿易戦争が収束に向かうと考える人は誰もいない。

 アメリカの中国に対する要求の中には、国営企業優遇の廃止など国家体制に関わるようなものが含まれている。中国がこれを受け入れないことはアメリカも十分承知しており、その上で無理難題を押し付けているのだ。 

 中国国民は政府に対して豊かさは期待するが、政府から干渉されることは決して快く思っていない。共産党に従うにはそれを上回る経済的な豊かさを求めているのだ。この30年間、共産党はその声を叶えるべく中国を発展させてきたのである。

 その間、世界はグローバル化し、インターネットを通じて世界中の情報が入ってくるようになった。中国では表向きはGoogleYouTubeInstagramなどは禁止されているが、お金を払ってアプリをダウンロードすれば見ることができる。さらに、人々は自由に世界中を旅するようになり、今や中国人は世界の様子を最も肌で感じている国民と言っても良い。中国国内ではグローバル化した国民と旧来の共産党一党支配体制が共存しているのだ。

 これまで習近平体制はこの現状を成功と捉えてきた。国家指導の元、経済は世界のどの国よりも発展し、豊かになった国民はグローバル化しつつも現体制を受け入れている。これはまさに現共産党が描く理想像ではないか。

 だが、世界は中国だけで成り立っているわけではない。中国の繁栄は世界各国との関係のなかで成り立っているのだ。資本主義はとりもなおさず競争社会だ。誰が中国の一人勝ちを黙って見過ごすだろうか。アメリカが牙をむくのは時間の問題だったのである。

 アメリカが最も脅威と感じているのは国家資本主義の想像以上のパワーだ。だが、それをやめろと言っても中国が従うわけがない。そこでアメリカはまず関税によって貿易に打撃を与え中国経済の発展を鈍らせて共産党の支配体制に揺さぶりをかけようとしているのだ。

 中国ではあまりにも急激な発展によりその裏で様々な問題が生じている。豊かになるに従い大卒人口は急増したが、それに見合った就職先が十分にない。永年の一人っ子政策は人口構成を歪にし高齢化が急速に進行している。高級車が道路を埋め尽くし豪華なマンションが林立する一方で、社会の歪みは増大し至るところで国民の不満が蓄積しているのだ。

 それをこれまで生活レベルの向上と将来への期待によって抑え込んできたのだが、もし経済に陰りが見え、国民が将来不安にかられるようなことになれば、共産党への不満は一気に高まるに違いない。また党内の習政権批判が高まり権力抗争に火が付くかもしれない。

 事態はすでに単なる貿易戦争ではなく体制間の衝突になっている。中国は自国のAI技術の優位性などを誇示し一歩も引かない姿勢を見せているが、これまでの成長戦略は大幅な見直しを迫られるだろう。その結果、国家資本主義の勢いが弱まり、西側との共存路線に緩やかに移行していくことをアメリカは狙っているのだろうが、その行方は全く見通せない。

国家の質

 利息がゼロなら借金は怖くはない。国の借金は地方も含めると1000兆円を超えているが、政府は様々な手立てで金利を抑え込み、借金を減らそうとする気配は全く見られない。

 だが、もし何かのきっかけで金利が上がり始めれば、利払い費が増え借金は雪だるま式に増え始める。国といえども借金は期日が来れば返さなければならず、返済が滞れば国といえども破産するしかない。

 安倍政権下の金融緩和では、日銀が借金を肩代わりすることで金利を抑えてきた。だが、日銀は無限にお金を刷れるわけではない。やり過ぎれば円に対する信用が失墜しインフレを招く。通常、インフレが起きそうになれば金利を上げ金融を引き締めるが、金利を賄うためにお金を増刷するような状況ではそれも不可能だ。これまでは何とかコントロールされて来たが、今の日本はいつ何時金利上昇とインフレの嵐にさらされるかもしれない危うい綱を渡っているのだ。

 こうした財政状況を改善するために事あるごとに持ち上がるのが消費税の増税である。だが増税は有権者には人気がない。そこで安倍政権は2度にわたり増税を先送りし、その代わりさらに借金を増やせるよう日銀による大量の国債の買取り、マイナス金利政策という奇策を押し進めて来たのだ。だが、一方で異常な金融政策に対する危惧も高まり、とうとう消費増税を受け入れざるを得なくなったのである。

 では、増税か借金かどちらがいいのだろうか。何かおかしくはないか。実はそこには肝心の議論が欠落しているのだ。

 政府は国民から税金を徴収し、それによって国民にサービスを提供している。もし徴収した税金に見合った素晴らしいサービスが提供されるのであれば、多少の増税も国民は受け入れるはずだ。2019年度の国家予算は100兆円を越えた。これは4人家族あたり330万円を政府に支払っている計算だ。国民は果たしてそれに見合ったサービスを受けているだろうか。

 政府は社会福祉費の増加を理由に長年国債を増発しつづけ国民からお金を吸い上げて来た。そして、それが限界に近づくと今度は消費増税である。取れるところから徹底的に吸い上げようとする姿勢がそこには見える。だが、そうして吸い上げたお金は一体何に使われているのだろうか。本来、最も議論されるべきはそこではないのか。

 政府の予算には無数の既得権者がぶら下がっている。その見返りとして政府は彼らの支持を受け政権を維持している。権力拡大のために既得権者を優遇し弱いものにツケを回す政府の体質が莫大な借金を積み上げて来たのだ。国民から徴収し、本来は国民のために平等かつ有効に使われるべきお金はそうして至るところで無駄に使われているのである。

 単に増税の是非を問うても答えは出ない。問題は国家の質にあるのだ。予算を国民生活のためにどれだけ有効に使えるかが政府の質、そして国の質を決める。国民はその点にもっと厳しい目を向けるべきではなかろうか。