「あんた、いい顔してるねぇ!」と、その男は唸るように言いながら近づき一枚の紙片を僕に渡した。「前の駅から乗ったんだが、向かいに座ったんで描かせてもらったんだ。あんたにあげるよ」。そう言うと、ちょうど到着した駅でさっさと降りて行ってしまった。あわてて追いかけたが、帰宅ラッシュの人並みに紛れて見失ってしまった。15年ほど前の常磐線松戸駅での出来事だ。

 状況を考えると、その一辺が15cm程度の紙に赤茶色のコンテを使って荒々しいタッチで描かれているのはどうやら僕の顔のようだ。裏には表情の特徴をうまく捉えた別の人の似顔絵が全く違う柔らかいタッチで2つ描かれていた。

 その日、僕は会社の製品に不具合が見つかり、我孫子のお客さんのところに出向いて朝からお詫びと検品に追われた帰りだった。精神的にも肉体的にもへとへとに疲れていて、さぞ深刻な顔をしていたに違いない。だが、少なくとも彼に取っては、その時の僕の表情はネガティブなものではなかったようだ。

 人の顔は、目や鼻、耳と言った主要なセンサーが集まっているが、同時にその表情によって相手に自分の意思を伝える役割も担っている。相手を観察する目つきや仕草自体が、自分の表情となって相手に伝わる。一説によれば、人間の目に他の動物にはない白目部分があるのは、微妙な心情を伝えるために進化した結果だという。目元や口元の表情のほんのわずかな違いでも、相手に及ぼす影響は大きく変わってくる。

 そうした相手の反応は、反作用として自分に還ってくる。自分の表情一つで相手の気持ちを捉えたり、あるいは反感を買ったりもするのである。そうした相手の反応は無意識のうちに記憶に蓄えられ、それが自分の表情を次第に変えていくことになる。人の顔は決して持って生まれたものではなく、永年のコミュニケーションを通じて次第に造り上げられたものなのだ。顔にはその人がそれまで歩んできた人生が凝縮されていると言ってもよい。

 僕の机の前には、ある美術展で買ったレオナルド・ダ・ヴィンチの素描のポストカードが貼ってある。額が禿げ上がった晩年のダ・ヴィンチの自画像だ。目の下はたるみ、額には深い皺が刻まれ、そこにはもはや若かりし頃の颯爽とした天才の姿はない。だが、この絵はいつまで見ていても飽きる事がないのだ。

 静かにこちらに向けられた眼差しは哲学的な深さを秘めているが、その意図までは読み取れない。固く結ばれた口元から感じられるのは強い信念のようでもあり、単なる年寄りの頑固さのようでもある。見る度に全く異なる印象を受ける。だが、それこそまさに顔の本質であり、ダ・ヴィンチの描こうとしたものではないだろうか。顔にはその人の人生が重層的に積み重なっているのである。この肖像が怪しい生気を放っているのもそのために違いない。

 それにしても、年老いたダ・ヴィンチの顔がこれほど魅力に溢れているのには励まされる。自分にもこれからもっといい顔になるチャンスが残されているのだから。

105のクラス会

 この15年あまり正月には高校1年5組(105)のクラス会を開いている。今年もまた皆が集まり楽しいひとときを過ごした。

 当初は3年に1度だったが、もっと頻繁に会いたいという希望により程なく毎年行うようになった。参加者は10人から15人ほど。1月3日に毎年同じレストランに集まっている。正午に始まり3次会が終わるのは夜遅くだが、そこまで話しても話し足りず、別れる際はいつも名残惜しい。この独特の充実感は一体どこから来るのだろうか。

 クラス会と言えば普通は青春の思い出が蘇ったとか、昔の気安さにすぐに戻れたなどと言って盛り上がるものだが、このクラス会ではそうした話はむしろ少なく、各人が日頃関わっている話を皆で掘り下げることが多い。メンバーには医師が多いため、日頃は聞けないことを相談できるのもありがたい。一方で昨今の厳しい医療事情も身近に感じられるようになった。高校時代から運動に身を投じてきたT君は、自らの最近の支援活動を通して格差社会の拡大を痛切に感じるという。自らの体験に基づいているだけあって話には迫力がある。

 堅い話ばかりではない。レストランを経営するソムリエのN君からはワインが美味しくなる秘密の飲み方の講習を受ける。半信半疑、その場で試してみると確かに全く違うのである。女性陣の話も面白い。手芸の展示会を開いたり、中国に恐竜の骨を掘りに行ったり、有機農業で土と格闘してきたりと実にさまざまな活動をしている。なかにはプロの画家もいて、むしろ男性よりも話題が豊富だ。皆、学生の頃から自意識が高く、自らの道を模索していたが、今でもその生き方には力強さがある。

 このクラス会が高3ではなく高1のものであるのは面白い。高校入学当時は中学時代に比べ少し広い世界に踏み出したばかりで、新たなクラスメイトが一体どんな人間なのか誰もが緊張して見守っていた。そのため各人の個性がドラマの登場人物のように強烈な印象となって今でも皆の心に残っているのだ。だが、このクラスの結束が強いのには別の理由がある。毎年、忙しい時間を割いて必ず出席してくださっている恩師のA先生の存在だ。当時から学生の自主性を尊重し、自ら体を張っての我々の希望を叶えてくれた先生の指導は、感受性が強く反抗期でもあった我々の心の大きな支えとなった。先生の愛情に満ちたまなざしに見守られてきたという共通の思いが、このクラスに強い連帯感をもたらしているのである。

 毎年開かれているこの会だが、ある時、回を重ねるごとに会話の質が上がっていることに気がついた。次第に互いの理解が深まってきたことに加え、皆が会話の質を高めようと無意識のうちに努力している結果ではなかろうか。良い会議では良い意見が出るように、皆がこの会を大切にしてきたことで内容が濃くなってきたのである。

 ふと、このクラスが1つの生命体のように感じられることがある。各人の個性が結びつくことによりクラスという別の価値観が生み出されているのだ。このクラス会はわれわれをどこに連れて行ってくれるのだろうか。今後も皆で大切に育てて行きたい。

米野の風景

 かつて僕が住んでいたのは、名古屋駅から近鉄で一駅目の米野という所だった。しばらく前にGoogle Mapの航空写真でこの辺りを見ていると何やら奇妙な建造物が見つかった。米野駅のすぐ脇を起点とし、近鉄や関西本線の線路を一気に跨ぐ橋が架けられていたのだ。全長はゆうに100m以上ある。歩道橋だと思われるが、それにしては巨大だった。

 この辺りは戦時中の空襲を逃れたエリアで、いまでも古い平屋が所々密集し、自転車も通りづらい狭い路地が入り組んでいる。かつては活気のあった商店も名古屋駅周辺の巨大商圏に圧されて立ち行かなくなって久しい。だが、地元地権者の利害が絡み合って再開発もままならずエアポケットのように取り残されてしまっている。このところ名古屋駅周辺に高層ビルがいくつもでき、その落差はさらに拡大した。そこに突如現れた巨大歩道橋。何かこの辺りにも変化の兆しがあるのだろうか。この目で確かめたくなり、帰省した折に訪ねてみた。

 歩道橋の登り口に着くと自転車が何台も乗れるような大きなエレベーターがあった。驚いたことに、そこは子供のころ親しんだ白山神社があった所だった。神社は道を隔てた狭い場所にひっそりと移設されていた。エレベーターに隣接するその一帯は工事用の白いフェンスですっかり囲まれている。ショッピングモールでもできるのだろうか。

 歩道橋に登ると名古屋駅方面と我が米野の町の対照的な風景が一望できた。両サイドを透明なプラスティックで覆われたその橋は、何か未来へのトンネルを思わせた。橋の向こう側に着くと、そこには真新しい鉄道の駅があった。《あおなみ線 ささしまライブ駅》。いつの間にこんな鉄道ができたのだろうか。橋の向こう側はかつて貨物線の名古屋駅があった所だ。今は更地となった広大な跡地では、すでに何やら大規模な工事が始まっていた。

 橋を引き返し再び米野に戻ると、ちょうど母から電話があった。「米野におるんだったら、秋田さんのおじさんに挨拶してったりゃー」と言う。秋田さんというのは、子供の頃通っていた秋田理容店のことだ。だが、行ってみると店は日曜なのに閉まっていた。しばらく写真を撮っていると近所からおばさんが出てきた。「秋田さん、やめちゃったんですか」と尋ねると、「やっとるよ。そこに住んどるがね」と向かい側の家を指さす。振り返ると、2階から女の人達ががこちらを覗いていた。「杉山です」と挨拶すると、奥さんが窓から身を乗り出して、「写真屋さんの子か。弟さん?」「長男です」「ああ、やっちゃんか」と頷いている。「『あんまりうちの店が汚いんで写真撮っとるんだわ』と言っとったとこだが」などと話していると、玄関のドアを開けてひょっこりおじさんが出てきた。

 「おかあさん、元気かね。わたしはおんなじ81歳だが、まだ現役バリバリだで」と調子がいい。「店は一人でやっとるがね。馴染みのお客さんだけだが。今日は早めに閉めたんだわ。」昔、顔を剃ってもらったときのことなどを話すと、おじさんは嬉しそうに目を細めた。

 秋田さんと別れ、人気のない米野の町をぶらぶらしてみる。すると、かつて道端に机を出して将棋を打っていた頃の記憶が、鮮やかに蘇ってくる来るのだった。

自分作り

今年の6月、久しぶりに小学校の同窓会に出席した。最初の同窓会は20年前にあり、その後4年ごとに開かれているが、第1回、第2回と出席して以来、久しぶりの参加だった。第1回の時は少年時代の思い出と目の前の姿のギャップに戸惑わされたが、今回は16年経っている割には、皆、意外なほど変わっていなかった。とはいえそれは外見上で、30代だった前回と比べれば何かが大きく変わっていた。

当時は仕事においても脂の乗り切った時期で、子供も小さく、将来に向けてやる気と希望に溢れていた。会場では相手の話を聞くより、自分のことをまくしたてる姿が目立った。しかし、今や50代も半ばに差し掛かり、そうした気張りは影を潜めた。特に地元に住んでいる連中は、気の置けない幼馴染の集まりに何にも増して安らぎを感じている様子だった。中には親しさのあまり、しばらく前に喧嘩をして絶交中だなどという子供の頃さながらの話まであった。

そうした中で、僕はあることが気にかかっていた。長い年月を経て再会した友人たちのなかで話が面白いのは、必ずしもかつての優等生でも社会的に成功したやつでもないということだ。どちらかといえば問題児だったやつが、実に味のある人間になっているのである。

彼らは、その後、何か転機があって大成功したというわけではない。挫折はしょっちゅうのことで、人生譚としては特に人に自慢できるようなものでもない。しかし、眼の奥には何かきらりと光るものを持っているのだ。

かつて勉強ができ、有名大学に進み、その後も有名企業に就職して活躍している人の話はもちろんそれなりに面白い。彼ら優等生は人並み以上に努力し社会の要求に一生懸命応えてきた人たちだ。だが、彼らの口からはびっくりするような話はなかなか聞けない。

面白い連中に共通しているのは、自分の生き方に対するこだわりが強いことだ。彼らは社会に適合するよりも、自分の生き方を選んできたのだ。もっとも、若い頃から自分の生き方などわかるはずがない。むしろ社会に適合しようにもできなかったというのが正直なところだろう。周りから認められず悩んだ時期もあったにちがいない。彼らは自分の生き方が壁にぶつかるたびに、どこかで折り合いをつける必要があった。そうしたギリギリの選択を繰り返すことで、一歩ずつ自分を確立して行ったのである。

個性というのは人と違っていることと思われがちだが、それは表面的なことで、実はその人の内部に隠れていて、人生の時々で自分自身に選択を迫り、自分を形成していくための原動力なのである。

自分が本当の自分になるために積み重ねていく時間、それこそが人生なのではないか。何かを成し遂げることが重要なのではなく、挫折も成功も自分らしい自分になるための糧ではないか。自分は探すものではなく、作り上げていくものなのだ。

時の流れが生む出会い

先日、高校の同窓会があり、35年ぶりにある友人と再会した。同窓会だからそうしたことは珍しくないが、彼とは幼稚園から高校まで一緒だったという特別の事情があった。

中学の頃まで、2人は毎日夢中に遊び、しばしばバカもやった。常にライバルとして意識し合っていて、互いに非常に身近な存在だった。しかし、それは当時まだ世間が狭かったからで、高校に入るともともと考え方の違うわれわれの関係は急速に疎遠になった。お互い、自分のことで精一杯だった。卒業後、彼は医学部に、僕は僕で物理の道に、それぞれ目指す道に進んだが、かつての関係が戻ることはなく、それきりになってしまっていた。

35年も経つとすっかり見掛けが変わってしまう人も多い。彼の場合も、髪の毛がなくなり僧侶のような風格が備わっていた。しかし、それがまた彼らしく一目見るなり彼だとわかった。彼も、親しげに話しかけた僕の白髪頭に一瞬戸惑った様子を見せたが、ちらりと名札を見るなりすぐに納得したようだった。

さらに彼独特のこだわりのある話しぶりに、たちまちかつての印象が蘇り、まるで2-3年ぶりに会ったかのような錯覚に陥った。が、同時に僕はある種の驚きに打たれていた。「彼はこういう人間になったのだ」と。

彼は非常に意志の強い人間で、一度やると決めたら決して投げ出すことはなかった。かつて僕はそうした彼に感服し、とてもかなわないと感じていた。その意志を貫き医師となったわけだが、その後、思わぬ波乱が待っていた。大学で教授と大喧嘩をし、そこを追いやられてしまったのだ。自ら課した困難に立ち向かう際には、道を切り開く大きな武器となった彼の強い意志だったが、自らの主義に反するものが立ちはだかった際には、キャリアを棒に振ってでもそれに背を向ける力として働いたのだ。

 人生に挫折はつきものだ。自分の主義に反することはできない。自分を偽って生きることもしたくない。だが、壁にぶつかったとき、我々は何らかの選択をしなければならない。自分を貫いたからと言って納得できる道が開けるとは限らない。時には大きな犠牲を伴うこともある。しかし、そういう時こそ、その人の本質が現れるのではないだろうか。

挫折と言うのは、成功への道筋が頓挫することではない。自分のやりたいことをやる際にかならずぶつかる壁のことなのだ。その壁は外的なものばかりではない。自分の内にも容易に乗り越えられない壁がある。しかし、それは成長に不可欠な壁なのだ。自分の本質を理解し、自分が本当の自分になるために何度も潜り抜けなければならない試練なのである。

 中学の頃、僕達はベートーヴェンの音楽に心酔していた。その圧倒的な感動は、今でもはち切れんばかりに僕の心に響いている。彼の目も溶岩のように生きている自分の中の感動を語っていた。時を経ての思わぬ再会は、2人の体内に今だに渦巻く熱気を確認する機会となった。これまでの人生を糧に、本当の自分を見つける旅はこれからだ。

父のテープ

 先日、荷物を整理していたら、父の声が録音されたカセットテープが出て来た。僕が高校3年の秋、当時46歳だった父が担任の先生との進路面談に臨んだときのものだ。

 録音された直後、冒頭の数分間だけ聞いてやめたのを覚えている。通して聞いたのは今回が初めてだ。しかし、すでに34年の歳月が流れているにもかかわらず、改めて極度の絶望感に捉えられ、1週間ほど抜け出すことができなかった。

 当時の僕は父に対して全く拒絶状態で、まともな会話は成り立たなかった。そんな父が担任の先生と勝手な話をし、それを元に説教されるのは想像するだけでも耐えられなかった。当時の成績では良い話が出るはずもなかった。この録音は、そうした状況で僕から父に頼んだものだった。

 話題の中心は成績と進路のことである。冒頭から、出来の悪い息子の成績について、担任からいかに深刻な状況であるかと切り出され、ひたすら恐縮する父の姿に、こちらも思わず赤面し額に汗がにじんでくる。父には、多少成績が悪くとも受験校でもあるし、何とかなるのではないかという期待があったのだとおもう。しかし、そんな楽観はたちまち吹き飛ばされてしまったのだ。しかも、勉強をやらないというならまだしも、「本人はまじめにやっているようなのに、なぜこんな成績なんですかね」と、先生も半ばあきらめを諭すような口調なのだ。

 この面談を待つまでもなく、僕には自分が置かれている状況が良くわかっていたし、その原因、つまり自分の成績がなぜ上がらないのかもある程度はわかっていたのである。しかし、それを解決する手段となると自信がなかった。当時、僕が望んでいたのは、そうした自分の状況を冷静に判断し、的確な助言を与えてくれることだった。しかし、面談は出口がないまま、僕からすれば全く的外れな議論に終始した。何とか体勢を立て直すヒントを期待していた僕の期待は完全に裏切られたのである。当時、このテープを最後まで聞くことなど到底不可能だったのだ。

 その後、僕は浪人し、自分のやり方でゼロから勉強しなおした。もちろん思い通りに行ったわけではない。しかし、自分だけの力でやるだけやったことが何よりも大切だった。それは確かにその後の人生で大きな自信となったのだ。

それにしても、今回改めてテープを聴いて感じたあの絶望感は何なのだろうか。大学以降も確かに僕の人生は平穏ではなかった。しかし、自分で撒いた種は自分で刈り取ってきたつもりだった。にもかかわらず僕の心には未だに強烈なコンプレックスが染み付いているのである。恐らく僕の生き方には何かまだ肝心なものが欠けているのだ。

 この録音の後、父は5年を待たずにこの世を去り、僕が父に対して心を開く機会はとうとうなかった。しかし、今や同じく高校生の親となった僕には、このテープから息子への愛情とそれゆえに翻弄される父親の気持ちを汲み取ることができる。父に対するコンプレックスからは少しずつ開放されつつあるようだ。

伊藤大介先生の思い出

 大学の頃、物理学教室の教官の一人に伊藤大介先生がいらっしゃった。先生は朝永振一郎先生の弟子で、彼のノーベル賞受賞に大きな貢献をされ、1925年にハイゼンベルクらによって発見された量子力学のその後の発展を身を持って体験してこられた方だった。

伊藤先生は、当時、すでに六十を越えておられたが、その思考パワーは衰えておらず、計算に没頭すると知らぬ間に朝になっていたなどと言うことは日常茶飯事だった。温厚な人柄で、われわれ学部生にも全く偉ぶるところがなく、クラスの忘年会などではスケールの大きい痛快な話をお聞きするのが楽しみだった。

大学3年の頃、僕は量子力学に対してある疑問を抱いていた。なぜ、古典物理学を修正する形で量子力学を構築しなければならないのだろうか。古典物理学を知らないで量子力学を創ったとすれば、(それは物理学の教科書を書きかえることになるだろうが)いったいどういうものになるのだろうか。僕はその考えについて伊藤先生と議論してみたく、ある日、先生の居室に向かった。先生に質問するのはめずらしくはなかったが、その時、教科書を小脇にかかえていた僕の手は震えていた。先生は驚いてくれるだろうか。あるいは、「そんなことはとっくに誰それが考えているよ」と言われてしまうのだろうか。

 ドアをノックすると運よく先生はご在室で、笑顔で僕を招き入れてくれた。ところが、話し始めると普段と勝手が違う。僕の質問に対して、先生は良く知られた量子力学誕生のいきさつを繰り返し説明してくれるばかりなのだ。いつもは質問の急所をたちどころに見抜き、的確なアドバイスをしてくれるのだが、その日に限って全く話が噛み合わない。なぜ、肝心なことに答えてくれないのだ。僕の声は次第に大きくなって行った。

気がつくと窓の外はすでに暗くなっている。しかも、先生の声はかすれ、疲労困憊のご様子である。時計を見ると、すでに3時間近く経っている。多忙な先生が一人の学部生にこれほど長い時間を割くなどと言うのは異例のことだった。僕は、割り切れぬ思いをグッと飲み込み、真っ赤になって部屋を飛び出したのである。

その後、級友にも話してみたが、「杉山がまた変なことにこだわっている」と思われただけで、誰も本気で相手になろうとはしなかった。結局、この問題は僕の胸の奥にしまわれ、時が流れた。ところが、人生思わぬ展開があるものである。

先日、現在も筑波にある高エネルギー加速器研究機構で物理学の最前線に身を置く大学の級友、Kに会った。このところ僕も物理について考える機会が増えていたが、少し離れたところから見てみると、最近の物理学には気に喰わない点が目に付いた。それをKに問い正してみたかったのである。僕は満を持して、「現在、最も興味があることは何か」と聞いてみた。Kは少し考えてから口を開いた。「物理学の教科書を書きかえることかな」。僕の頭のなかで時計の針が大きな音を立てて傾くような気がした。彼の話は30年前に僕が伊藤先生にぶつけたあの問題そのものだったのである。

記憶と時間

「もう少し記憶力が良かったら」と誰もが思う。受験でも仕事でも、英会話をマスターするためにも、常に記憶では苦労しているからである。しかし、人生を振り返れば、特に覚えようとしたわけでもないのに、さまざまな思い出が残っている。普段、思い出すことはなくても、当時の写真を見たり、昔の友に出会ったりすれば、堰を切ったようにかつての記憶が溢れ出る。自らの記憶力に不満を抱きながらも、われわれは日頃から、特に意識することなく、記憶の恩恵に与っているのである。

かつてイギリスの著名な指揮者だったクライブ・ウェアリング氏は、ウイルスの感染で脳に損傷を受け、重度の記憶障害に陥った。彼の記憶は7秒しか持たなくなった。病気以前の記憶も一部残ったが、それ以降、わずか7秒間の記憶が次々とリニューアルさるだけで、それ以上の蓄積はできなくなったのだ。病気の後、7年間、彼は延々と、自分の陥った境遇を知ってはショックを受けるということを繰り返した。何とか記憶力を取り戻そうと、日記に、「自分は、今、本当に目覚めた」と、繰り返し書き続け、極度の躁鬱状態に陥った。

その後、自らの境遇を受け入れられるようになったのか、彼は平静さを取り戻した。しかし、相変わらず彼の人生は病気になったときから7秒以上前に進むことはない。話をしながらも次々と内容を忘れ、たとえどんなに嬉しいことや辛いことがあっても、7秒後には全て忘れてしまう。彼は自らの状況を、「空虚なだけ。全く考えることができない。昼も夜もなく、夢も見ない。時間が存在しない世界。死んだも同じだ。」と語っている。

通常、記憶は時間の経過にともない薄れ、ぼやけていく。われわれが昔のことを昔と感じられるのは、時間の経過にともない記憶が変化していくからである。ウェアリング氏の場合、この変化はわずか7秒しか許されていない。彼にとっては、7秒より遠い過去は、感じることも想像することも出来ない世界なのである。

記憶の変化で時間を感じると言っても、時計のない真っ暗な洞穴のなかで、10日経ったか11日経ったかを区別するのは難しい。時間をより正確に感じるためには、記憶の変化を物理的な時間と結びつける必要がある。そこで我々は、しばしば腕時計に目をやり、どれだけ時間が経ったかを確認する。あるいは、「あれは、娘が小学校2年のときだったから...」というように、その記憶を客観的な日時に結びつけることによって、記憶による不正確な時間感覚を修正しているのである。記憶の変化を時計の進み具合と結びつけることによって、我々ははじめて正確な時間感覚を獲得することができるのである。ウェアリング氏の場合、こうした高度な記憶の働きはさらに困難だろう。想像するのは難しいが、彼が「時間が存在しない世界」を生きているというのは本当のことに違いない。

忘れないことが優れた記憶力だと思いがちだが、記憶が時とともに変化することによって、我々は時間を感じ人生を認識することができるのである。記憶は失われていくからこそ、その役割を果たしているのだ。

暗室のある家

子供の頃住んでいた家が、最近、建て直されたというので、この夏、帰省した折に見に行ってみた。名古屋駅から徒歩15分ほどのその辺りは、かつては下町らしい活気に溢れていたが、今では駐車場ばかりが目立つ、すっかり寂れた町になってしまった。

かつて僕の家はカメラ屋だった。店は自宅から少し離れたところにあったが、自宅の一部も父によって暗室に改造され、そこで写真を現像していた。

昼頃、小学校から帰ってくると、いつもちょうど水洗の最中で、午前中に現像された写真が入った水洗機の透明なドラムがザバッザバッと音を立てて回っていた。ドラムの回転にも水道の圧力を利用していたため、水は勢いよく跳ね上がり、水洗機の置かれた台所は、いつも少し定着液の臭いが残る水っぽい空気に満たされていた。

水洗が終わると、次は乾燥だ。玄関に置かれた乾燥機の幅1mほどの布製のベルトに写真を一枚ずつ載せると、高温に熱せられた直径60cmほどの鏡面仕上げのドラムに巻き込まれて行き、ドラムに貼りついて一回転すると、乾燥した写真が煎餅のようにドラムから自然に剥がれ落ちて来る。熱で焼ける香ばしい匂いの中で、写真は美しい光沢面に仕上がっているのだ。

乾燥を終えた写真は、最後に四辺の余分な部分をカットし、お客さんごとに仕分ける。たまたま、その時間に家にいると、叔父が嬉しそうに、「康成、手伝え!」と声をかけて来るのだった。

暗室は、玄関と台所を結ぶ廊下を遮光用の暗幕とドアで仕切って作られていた。引き伸ばし機で焼き付けられた印画紙を現像液に浸けると、数秒で像が現れ、1分後にはくっきりとした写真になる。真っ白な印画紙にボーっと人の姿が浮かび上がってくるのを、感光防止の暗い赤いライトの下で見ていると、その像がまるで生きているかのような妙な気分に襲われる。

ネガもまた不気味だった。現像すれば笑っている人も、ネガで見ると、どうしてもそうは見えない。ネガのなかには、実は異次元の空間があって、現実世界が凍結されているのではないか。暗室は、少年にとって、かなりミステリアスな空間だった。

当時はカメラの性能が悪く、露出がいい加減だった。叔父は、そうしたお客さんの失敗ネガを見て、永年の勘で、一枚一枚、焼き具合を加減していた。うちの店の写真の評判が良かったのは、そのためだった。

しかし、当時、暗室にはエアコンもなく、夏ともなると異常な暑さだ。また、毎日、暗室でピント合わせをしていると、数年で著しく視力が低下する。暗室作業は、かなり過酷な仕事だった。1970年代初頭、これだけの手間をかけても、白黒写真1枚で10円しか取れなかった。写真はカラーの時代に入りつつあった。しばらくすると、父もやむなく、現像を外注に切り替えざるを得なくなった。

 それから35年ほどの歳月が流れた。かつて自宅のあった場所に建つ小奇麗なアパートに住む人は、そこで毎日写真が焼かれていたことなど知る由もない。だが、当時うちで焼かれた何十万枚という写真は、まだ、多くの家庭のアルバムに残っているに違いない。そして、今でも自分で写真を焼く僕の胸にも、あの暗室のある家の記憶は綿々と生きて続けているのである。

餃子と運命/F君のこと・その2

 僕がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのは中学2年の頃である。しかし、当時、我が家にはステレオはおろかプレーヤー(電蓄)もなかった。あったのは、英語用に買ってもらったテープレコーダーのみである。しかし音楽ソースは何もない。そこで、誰かステレオを持っている人に頼んで録音してもらおうと思い付いた。近所のF君の家には、お姉さんがピアニストであったことからピアノ室があって、ステレオも完備されていた。たまにその部屋で大音響でクラシック音楽が鳴っていたのを思い出した僕は、まずF君に録音を頼むことにした。曲目はなんと言ってもクラシック音楽の最高峰、ベートーヴェンの「運命」である。

録音はある土曜日の午後、F君の立会いの下で行われた。しかし、もともとオーケストラの音をマイクで拾ってレコードに刻み、それをステレオで再生しているのに、その音をもう一度マイクで録音するという行為に対して、F君はいかにもドン臭いと感じたようで、当初からまじめに取り合ってくれていなかった。雑音が入らないよう体を硬直させ、息をこらす僕の横で、彼は悠々と昼飯を食べ始めたのである。しかも、実況中継でもするかのように、箸で餃子を摘み、わざわざ「ギョーザ!」と声を出してメニューを紹介する。さらに、雰囲気を出すためにマイクに向かってクチャクチャやり始める始末だ。冗談じゃない!僕のいらいらは頂点に達したが、文句を言えば録音されてしまうので我慢するより他はない。

 そうこうするうちに、第1楽章が終わった。だが、その途端、思わぬことが起こった。F君が、「終わったー!」と大声で叫び、レコードを止めようとしたのである。だが、曲はまだ終わっていない。事情のわからぬ彼に、今静かに流れているのは、4楽章のうちの第2楽章であることを説明し、彼にしぶしぶ録音の続行を承諾させたが、またしても余計な雑音が入ってしまった。

 そうしたやり取りは、時に音楽より大きな音で録音されてしまっている。ぴんと張り詰めた運命の主題が流れる中、それと全く関係なく餃子を食べるF君の姿がくっきりと浮かび上がるのである。だが、僕はこのテープを軽く100回以上は聴いただろう。完璧な形式の中で溢れ出すベートーヴェンの情熱と独創性に、僕はたちまち心を奪われ、心酔してしまったのである。しばらくすると、F君の雑音も慣れてほとんど気にならなくなった。

 その後、僕も親に頼んで高音質のラジオを買ってもらうと、FM放送からテープレコーダーに録音できるようになり、いよいよ本格的な音楽鑑賞が始まった。しかし、ある日、もっと良い音で「運命」を聞きたくなり、F君に例のレコードをステレオで聴かせてもらった。しかし、そこで流れてきた音楽は、かつて僕が録音したものと全く違っていた。ゆったりとしたテンポに重厚な弦の響き。この違いは何だ?なんとF君は、以前の録音の際に、33回転/分のLPレコードを45回転/分のSPモードで再生していたのである。