米中対立の構図

 去る630日、香港において国家安全維持法が施行され、米中のみならず世界中で一気に緊張が高まった。だが、中国を一方的に悪者扱いするだけでは事態を見誤る。

 香港市民に対する強権的な対応が批判されているが、現在の中国は決して北朝鮮のような全体主義国家ではない。新疆やチベット、内モンゴルなどを除けば、中国国民には共産党に人権を侵害されているという意識は全くない。それどころか今の豊かな暮らしを達成できたのは現在の国家体制のおかげだと考えている。さらに今回、世界に先駆けコロナの封じ込めに成功した政府の対応により、これまで自国の体制に疑問を覚えていた人たちも改めて自信と誇りを感じるようになっている。

 中国国内で西欧諸国以上に豊かな生活を送る北京や上海の市民にしてみれば、同じ国に属する香港市民がそれほど頑なに抵抗する理由がピンとこないに違いない。中国人からすれば、このところのアメリカの中国叩きは中国の発展に対する焦りと妬みによるもので、香港暴動では背後でそうしたアメリカが糸を引いているに違いないと考えている。内政干渉だと感じているのは外務省の報道官だけではないのだ。

 かつて西側諸国は、将来中国が豊かになれば自然に民主化すると考えていた。だが、共産党政権のもとで大発展を遂げた現在、ほとんどの中国人が自国の体制を支持している。西側諸国は中国市場という甘い餌に目が眩み見通しを誤ったのだ。

 すでに中国の国力はアメリカに迫り、近い将来追い越すのは確実だ。そこでアメリカはデカップリングを進め中国を孤立させ、なんとか発展のペースを遅らせようとしている。まず、中国が最も嫌がる香港・台湾問題に介入して民主主義の危機を煽り、他の西側諸国を中国から引き離す。同時にファーウエイやTIC-TOCKなどの中国発の先端技術を西側諸国からの締め出すのだ。

 これに対して中国も一歩も譲らない。半導体を始めこれまで海外に依存していたハイテク技術を全て自国で賄おうとしている。世界に先駆けコロナを封じ込め、経済を発展軌道に戻した自信から、現体制の効率と強みをとことん追求していく構えだ。

 先日、アメリカは安全保障も考慮して半導体産業に2.6兆円の補助金を投じると報じられた。これはまさに中国のやり方ではないか。中国の強さを徹底的に分析し、必要ならばその強みを自らも取り入れようするアメリカの必死さが伝わってくる。

 冷戦時代と異なり現在の中国市民の生活意識はアメリカや日本のそれと大差ない。違うのは政治体制なのだ。とはいえ米中が追求する豊かさはこれまた似通っている。となれば、互いの体制の摺り合わせを粘り強く行い共存の道を探るしかない。

自分との出会い

 先日、将棋の藤井聡太7段が史上最年少で8大タイトルの一つ棋聖位を獲得した。だが、コロナウイルスが流行り始めていた頃、その実力はすでに一流だと誰もが認めていたが、強豪ひしめくタイトル保持者からの奪取となるとそう簡単ではないと思われていた。今回の勝利の原因について藤井棋聖自身は、コロナによる対極自粛期間中に自分の将棋をじっくり見つめ直すことができたことが大きかったと述べている。

 それを聞いて自分でも思い当たるところがあった。2月に母が亡くなり頻繁に名古屋と東京を行き来する生活が終わると入れ替わるようにコロナによる自粛が始まった。予定していた行事はことごとく取りやめになり、人との交流もパタリと途絶えた。

 だが、そうしたある日、ふと自分の肩が軽くなっているのに気がついた。それまで特に不安や憂鬱を感じながら暮らしてきたつもりはないが、どうやら普段の生活の中にもさまざまなストレスが隠れていたようだ。コロナのような大きな環境の変化がなければ、ずっと気づかなかったことだろう。

 さらにしばらくすると、まるで深い湖の底にゆっくり横たわっているかのように自分の心が静かになっているのに気がついた。自分が感じていることを手にとるようにはっきりと意識することができる。

 それまで意識と心の間に挟まっていた何か目に見えない板のような障壁が急に取り払われ、自分の心に直接触れることができるようになったような感じだった。僕は何か非常に大切なものを見つけたような気がした。同時にそれまで心の中にあった漠然とした不安感も薄れているのに気がついた。

 人はいつも安心を求めている。何か少しでも心配なことがあればそれに備えようとする。いい大学に入ろうとするのもお金を貯めようとするのもそのためだ。それによって心の中から不安を取り除こうとする。だが、老いや死などのような不安はそうした保険をかけても解消しない。消そうとすればするほど不安は増すばかりだ。

 心が静かになって不安が薄らいだのは、そこに何ものにも替えがたいものを感じたからだ。人生で大切なことは、成果を出して人に認められることでも不安を解消することでもなく、自分の心と触れ合い感じることではないのか。生きるというのは実は自分との出会いではないのか。

 ソーシャルディスタンスがとやかく言われている昨今だが、自分との距離ならいくら縮めても構わないだろう。人生において、今、コロナ禍に見舞われるのも何かの運命だろう。これを機に自分と静かに向き合って行きたい。

物理 de ネット

10年ほど前から友人のKと物理の議論を続けている。つくばに住む彼は、東京の大学に非常勤講師として物理を教えに来ていた。その帰りに月に1度程度、どこかで会って物理の議論をするのが習慣になっていた。もっとも半分は飲み会である。

まず、喫茶店でコーヒーを飲みながら1時間ほど真面目に物理の話をする。その後、クラフトビールや日本酒のうまい店に移り、食事をしながら物理の話を続ける。次第に酔いが回り、自然と話は物理以外にも広がっていく。仕上げにバーでウイスキーを飲むころにはかなり酔っているが、突然、質問し忘れていたことを思い出したりして、そこでまた難しい物理の話に戻ったりする。

そんな楽しくも充実した会も新型コロナウイルスの関係で開けなくなった。Kも東京に出てくることはめったにない。

一方、家にいる機会が増えたため、腰を据えて物理の本を読でんみようと思い立った。運よく面白い本が見つかったが、読み進むにしたがってKに聞きたいことがどんどん出てくる。何とかしなければというわけで、巷で流行っているネット飲みを試してみることにした。「物理 de ネット」だ。

ネットにおいても最初はしらふだが、途中から飲み会に移行する前提であらかじめ酒やつまみは用意しておく。最初の1時間くらいは、事前に用意しておいた質問事項について議論するのだが、それが一段落する頃にはお互いに無性に喉の渇きを感じ始める。どちらともなくビールの缶を開けると第2ステージの始まりだ。

Kは議論の途中で、「ちょっと待って」というとパッと姿を消し、戻ってくると手にした本を広げ、「ここに杉山が言っていることが書いてある」などと言いながら説明を始めることがよくある。Kの豊富な蔵書が手元にあるのはネット飲みの大きなメリットなのだ。

また、Kがゼミで使う黒板代わりにタッチパッドを用意してくれ、画面上で数式や図を描きながら議論できるようになった。飲み屋でナプキンを広げ万年筆で数式を書き下していたのも味があったが、はるかに便利でわかりやすい。

神田あたりでやるのもいいが、Kとしても酔った足でつくばまで戻るのはちょっとつらい。ネットなら終電の心配もなく飲みすぎて失敗することもない。少々高級な酒やつまみを用意しても費用は格安だ。物理を肴に飲むにはもってこいの仕組みだ。

行きつけのバーのマスターの顔も懐かしいが、何分止むを得ない。しばらくは「物理deネット」の充実を図るべく工夫を凝らしていくことになりそうだ

見事な人生

先日、名古屋の母が87歳で亡くなった。

母はもともと名古屋市中村区で父とカメラ屋を営み、その近くに家を借りて住んでいたのだが、47年前に父が北区の味鋺に店を出し、そこに当時新婚だった自分の弟夫婦を住まわせた。だが、7年ほどしてその弟が自分の店を出して独立してしまったため、父と母がその北区の家に移り住むことになった。

ところがそれから半年もしないうちに父が癌になり3ヶ月後には亡くなってしまった。40年前のことだ。当時、僕も僕の弟もまだ大学生で、当時、47歳だった母は一人でわれわれの面倒を見なければならなくなった。幸い弟は地元の大学だったので、なんとか大学に通いつつ仕事を手伝い、2年後に卒業するとそのまま店で働くことになったが、それにしても母にかかるプレッシャーは相当なものだったろう。

父が亡くなって2年ほど経った頃、僕が東京で交通事故を起こし、母が慌てて上京したことがあった。母は僕が入院する病院に泊まり僕の傍で2泊したが、夜消灯すると横でずっと仕事の話をしている。僕はその時まだ目を瞑ると事故の瞬間がフラッシュバックするような状態で、母がなぜ今ここでそんな話をするのだろうかと訝ったが、母にしてみればずっと不安と緊張の中で戦っていたのだと思う。

その後、巷でビデオが普及しはじめると、店はカメラ屋兼ソニーショップに衣替えした。すると母は父が建ててまだ12年ほどしか経っていなかった店をあっさり壊し、頑丈な鉄筋コンクリートの店に建て替えてた。1985年の頃だ。一同びっくりしたが、弟が将来やってく上で土台となるものを作ってやりたかったのだと思う。

母は誰もが一目置く頑張り屋だった。また長年の経験に基づく自信も持っていた。その後、店は時代の流れに乗って発展し、弟は結婚してそこで家庭を築いた。母は最大のピンチを乗り切ったのみならず、さらに新たな道を切り開いて行ったのだ。

結婚してから父が亡くなるまでの24年間、母は父と共に歩み、その後は次男と40年間一緒に歩んできた。正に47歳にして歩み始めた第2の人生だった。その間、東京に住んでいた僕はと言えば、電話で長時間話したり、仕事で手が離せない弟の代わりに一緒に旅行に行くなど、仕事とはまた別の面で関わるよう務めてきた。

母とは、晩年、よく昔の話をしたが、前半生の話にはあまり乗ってこなかった。僕にとっては自分がまだ名古屋に住んでいたその頃の思い出の方が印象深いのだが、母にとってはやはり自力で切り開いた後半生の記憶がより鮮明に残っていたのだろう。

なかなか見事な人生だった、と今改めて思う。

モノクロの世界

今年の年賀状写真は名古屋城公園で撮影した。家族が写真を撮るために集まれる機会は年々少なくなってきており、昨年末はたまたま家族が名古屋の実家に集合したその日しか撮影のチャンスがなかったのである。

暖冬のためか12月初頭の公園内の木々の紅葉はまだ鮮やかで、足元に敷き詰められた落ち葉を踏みしめながらの撮影は気持ち良かった。幸いそこで撮った写真はまずまず狙い通りの仕上がりになった。年賀状の撮影が一度でうまく撮れることはなかなかない。慣れない場所で短時間に撮ったにしては上出来だった。

だが、僕の気持ちは少し複雑だった。昨年、本格的に撮影活動を再開して以来、改めてモノクロ写真の良さを実感するようになっていた。そこで、今年の年賀状はモノクロで行こうと密かに決めていたのだ。だが、せっかくの紅葉の雰囲気がモノクロでは全く伝わらない。家族の意見を尊重し、結局、カラーにせざるを得なかった。

そもそも僕はなぜそれほどモノクロにこだわってきたのだろうか。人は肉眼ではカラーで見ている。そこから何故色という大切な情報を除く必要があるのだろうか。写真展の折にもしばしば質問を受けたが、なかなか説得力のある答ができなかった。

フィルムの時代は、モノクロには自分で現像ができるという大きなメリットがあった。現像の仕方で写真はガラリと変わってしまうのだ。しかし、デジカメになってカラーでもパソコンで簡単にデジタル画像処理が可能となった。

そもそも撮影時の生データはカラーで、モノクロにするためには後処理であえて色情報を取り除かなければならない。それは写真で最も強力な武器である色彩をみすみす捨て去る行為で僕自身も当初は抵抗があった。だが、この1年、自分の撮ったカラー写真をモノクロ化する作業を何度も繰り返すうちに、はっきりとモノクロの魅力が見えて来たのである。

ブロンズ像に色を塗ることを想像してみよう。像は果たしてより魅力的になるだろうか。色は像が本来持つ陰影の魅力を損なってしまうに違いない。写真においても同様だ。色はその下にある陰影の世界を知らぬ間に覆い隠してしまっているのだ。

それだけではない。もとより写真は何気なく見ている情景から一瞬を切り取る。それは、普段、気がつかないものを浮かび上がらせる力がある。モノクロはそこからさらに色という日常性のベールを剥がす。そして、その一瞬の持つ意味により鋭く切り込むことができるようになるのだ。

思い切って色の誘惑を断ち切ってみよう。そこには想像もしなかった別世界が広がっているのだ。

静かに進む発酵

今年ももう直ぐ終わりだが、この1年を振り返ると写真において意外な進展があったという思いが強い。1月頃から久しぶりに街に出て本格的に撮影を再開した。以前、撮っていた頃から実に15年以上の歳月が流れていた。

かつて、どういう写真が撮りたいのかわからぬまま街に繰り出していた。そもそもなぜ写真なのか。恐らく当時の自分には他に表現手段がなかったのだ。自分が何を目指しているのか何を得たいのかわからぬまま、唯一手応えを感じられたのが写真だったのである。

だが、それは労力の割には得るものの少ない挑戦でもあった。撮影にも現像にも多大な時間と体力を使うが、満足のいく写真は滅多に撮れない。こんなことをやっていて何か道が拓けてくるのだろうかという不安ばかりが募った。

その後、池部さんとの出会いがあり、僕は文章を書くことに新たな表現の場を見出すことになる。それとともに、写真からは次第に遠ざかって行ったのだ。

だが、かつて撮った写真は、その後、出版した旅行記やエッセイ集にも使われるなど、僕の傍らには常に写真の存在があったのである。

そして、7年ほど前から3度写真展を開く機会に恵まれ、それがきっかけでかつての写真と10年以上の時を経て正面から向き合うことになった。すると自分がずいぶん写真がわかるようになっていることに気がついたのだ。かつては自分の写真ですら、どの写真がいいのか自信が持てなかったが、それが一目瞭然なのである。かつてそれができていればもっと上達したに違いない。無念の思いが沸き起こると同時に、遮二無二撮っていた時期があったからこそ、今、それに気づくことができるようになったのだと納得もできた。

撮影を再開すると、当初、結構撮れるという手応えがあったが、この1年に撮った写真を並べてみると明らかに最近撮った写真の方が良い。高機能のデジカメの使い方に慣れるにつれて撮影の幅が徐々に広がったこともあるが、やはり自分が撮りたい写真をはっきり意識することで腕が上がっているのだ。

インスタグラムへの投稿も大きい。作品を外に向かって発信することで、自分の表現したいものをより明確に意識することができるからだ。

かつての苦労が今になって生きていると実感できることほど嬉しいことはない。同様の体験はピアノにおいてもあったが、暗中模索の時期というのはけっして無駄ではない。目先の結果に一喜一憂せず、自分の中で静かに発酵が進むのを待つのも人生では大切なことのようである。

EASTEINの響

しばらく前から家内の実家で内輪のミニ音楽会(公開練習会)を始めたのだが、我が家から運んだ古い電子ピアノの音がひどく、かつ弾きにくいのが悩みの種だった。そこで、先日、思い切って中古のピアノを買うことにした。

諸事情あってあまりお金はかけられない。ネットで出物を探してみたが、なかなか意にかなったピアノは見つからなかった。だが、2週間ほど経った頃、あるオークションサイトで格安のピアノが出品されているのを見つけた。

早速、家内と一緒に畑に囲まれた出品者の家を訪ねた。そのN氏の本業はフリージャズドラマーで、副業で要らなくなったピアノを引き取り修理して格安で提供しているようだ。自身のドラムも木をくり抜いて自作したものだと言う。

まず10台ほどの未整備のピアノが所狭しと置かれた倉庫に案内された。そこにはオークションでも見かけたEASTEIN(イースタイン )もあった。

今では日本でピアノといえばヤマハかカワイ製だが、戦後しばらくは他にも多くのピアノメーカーがあった。現在ではそのほとんどが姿を消してしまったが、そうしたメーカーによって作られたピアノの中には今でも評判の名器が存在する。東京ピアノ工業のEASTEINもそうしたピアノの一つだった。

ピアノの音というのは個々でかなり違いがある。だが、我々が楽器店で触る機会のあるヤマハやカワイのアップライトピアノの音はなんとも面白みがない。今回は年代を経たさまざまなピアノに触れられる滅多にない機会だ。好みの音色のピアノに出会えないものかという密かな期待があった。

EASTEINの象牙の鍵盤を押してみると、奇しくもその音色は僕好みだ。ただ、傷みがひどい。鍵盤蓋は何か高温の物が置かれたのか表面が溶けている。足は犬にでもかじられたのか大きく削れている。N氏は、修理には手間がかかり過ぎるため、あくまでも部品取り用で修理はしないと宣言していた。

やむなくすでに修理済みの他のピアノを見せてもらったが、なんとも先ほどのEASTEINが気に掛かる。N氏もこちらの熱意に圧されたか、最後には最低限の整備でよければということで修理を引き受けてくれることになった。

2ヶ月後、修理を終え見違えるようになった超重量級のEASTEINが家内の実家に運び込まれた。N氏の話では、外見はひどかったがアクションや弦など内部の状態は思いのほか良かったようだ。

2度の調律を経てEASTEINはついにその味のある音を響かせた。それは爽やかで、僕は背中を押されるように感じた、「さあ表現したまえ!」と。

追いつめられる労働者

先日、NHKで映画監督の是枝裕和氏が永年師と仰ぐイギリスの巨匠ケン・ローチ監督と対談する番組があった。

二人は永年家族が映す社会の姿を描いてきた。是枝監督は、あらゆる共同体の中で人がすがる最後の共同体が家族だと言う。その家族が今や崩壊の危機にさらされている。現代社会の過酷な就労環境のなかで、家族は精神と肉体をすり減らし、ついには家族同士で罵り合いを始めるに至る。

人類は、永年経済発展を続け飛躍的に豊かになったはずだ。それなのになぜ世界中で多くの人々がこれほど追い込まれているのだろうか。ローチ監督によれば、それは結局、経済的な競争が原因なのである。

企業はあらゆる技術、手法を用いて競争に勝ち抜こうとする。コンピューターやIT技術が進歩すると、そうした技術をいち早く取り込んだGAFAなどの大企業が市場において圧倒的な支配力を持つようになり、それ以外の企業と労働者はそうした巨大企業に奴隷のように従わざるを得なくなってしまった。

さらに中国などの新たなプレイヤーも台頭し競争に拍車をかけた。資本主義市場になだれ込んだ巨大な労働力が世界中で労働者の賃金を圧し下げたのだ。

弱者はもはや強者に対抗できず、自分よりさらに弱いものから搾取するしかない。勝ち組は負け組に対して自己責任だと突き放し、弱者は自らを責めるしかない状態に追い込まれていく。

本来ならば国家がそうした不平等を正すように努めるべきだが、今の国家は勝ち組優遇である。その方が政権維持に有利だからだ。しかもその事実を有権者に巧妙に隠し自分に批判が向かないようにしている。ある首相はこれまで一貫して経済優先を唱えているが格差が縮まる気配はない。にも関わらず選挙には勝ち続けているのだ。

富裕層はボランティア活動などでしばしば弱者に施しを与えているが、彼らが最も嫌がるのは弱者が力を持つことだとローチ監督は指摘する。だからこそ富裕層は国家とも手を組み自らの王国を守ろうとする。

こうした現状に労働者たちが気づいていないことが最大の問題であるとローチ監督は訴える。労働者を追い込んでいるのは、彼らから労働力を不当に盗んでいる大企業とそれを擁護する国家なのだ。労働者に現状に気づいてもらうためにローチ監督は映画を作り続けているのだ。気づきさえすれば、SNSを通じて労働者自身が声を上げることは十分可能なのである。

現地で感じた米中貿易戦争

 この8月に1年ぶりに中国を訪れた。行くたびにその発展の速さに驚かされる中国だが、今年はいつもとは少し事情が違う。このところ急速にエスカレートした米中貿易戦争は、中国にどのような影響を及ぼしているのだろうか。

 福建省から上海に移動したが、いずれも街は大いに賑わっており貿易戦争の影は全く感じられない。ただ、話を聞いてみると、貿易額急減の煽りを受け、輸送関連の会社などではすでに倒産するところも出てきているらしい。

 米中貿易戦争について今回特に印象的だったのは、「中国政府は絶対に妥協しないだろう」と誰もが口を揃えていたことだ。同時に彼らはアメリカも絶対に折れないだろうと見ている。

 アメリカは、自分たちが取った措置は中国の不公正な貿易と違法な情報収拾に対する制裁であると主張している。だが、実際は経済的に強くなった中国がアメリカの覇権を脅かすと一方的に危機感を募らせているのであって、アメリカの主張は言いがかりに過ぎないと中国人は思っている。

 かつて日本が貿易戦争でアメリカに叩かれた時、多くの日本人は良いものを安く売って何が悪いと感じた。今の中国人が抱いている感情もそれに似ている。自分たちは努力を積み重ねてきた。その結果、中国の力がアメリカを凌ぐほどになったからと言って、何故、理不尽なバッシングにあわなければならないのか。

 もっとも、今の中国はかつての日本に比べてはるかに強大だ。アメリカが脅威を感じるのも無理はない。だから、アメリカも決して妥協しないだろうと彼らは思っているのだ。

 では、この経済戦争は、今後、どのように展開していくのだろうか。米中いずれかが勝利し、どちらかが衰退するのだろうか。あるいは互いに別々の道を歩み世界は二分されていくのだろうか。それについては誰もが口をつぐんだ。だが、中国が負けるとは誰も思っていない。  

 中国滞在中、香港のデモもテレビを賑わしていた。当然、放送は中国寄りで、デモ隊の暴力で負傷した警官をクローズアップし、暴力は許せないと訴えていた。また、デモのアメリカ陰謀説もまことしやかに報じられていた。

 だが、香港のデモに対しては理解を示す人も少なくない。中国への返還後、50年間は高度な自治を認めたはずなのに、なぜ中国政府は約束を違えて自治権を脅かす政策を次々と押し付けるのか。そこには中国国内に対しても強権的な態度を強めつつあるこのところの習近平政権に対する反感が見え隠れしていた。

再始動

 今年の5月に名古屋の平田温泉という銭湯で1ヶ月間写真展を開いた。

 前回の写真展から3年が経っており、今回は新作を展示するつもりだったが、なかなか撮ることができず、結局、昔の写真を使うことになった。かつて苦労して撮った写真が日の目を見るのは嬉しいが、新作を発表できないのはなんとももどかしかった。

 最近、写真を撮っていないのにはいくつか理由があった。僕の写真の撮り方は、主に街で出会った人に頼んで撮らせてもらうか、街行く人をそのままをスナップするかのいずれかだ。だが、どちらの場合も昨今うるさい個人情報が気に掛かる。

 技術的な問題もあった。かつてはマニュアルカメラに単焦点(35mm)レンズ、モノクロフィルムというのが僕のスタイルだったが、時代はデジタルに変わった。デジカメは便利だが、その安直さになんとも言えない違和感があった。

 だが、そんなことも言っていられない。なんとか写真展に新作を加えようと、一念奮起して機材を買い揃え、デジカメ片手に再び街に繰り出したのだ。

 レンズは1635mmの超広角ズームを選んだ。超広角では被写体が小さくなるので、ぐっと近寄る必要がある。撮影後、近づいてくる相手にぶつかるくらいでないと迫力ある写真は撮れない。

 当初は慣れないデジカメに手こずったが、次第にかつての撮影時の感触が戻ってきた。デジカメならではの高度な機能も慣れるにつれそのありがたみを実感するようになった。

 個人情報に関しては、もちろんうるさい輩はいるが、最近は所構わずスマホで写真を撮るのが当たり前になっているためか、むしろ以前よりも撮られることに慣れているように感じられた。

 こうしてなんとか写真展に新作を3点追加することができた。同時に自らの写真ライフを再びスタートさせることができたのである。

 さらに、これを機にインスタグラムへの投稿を始めた。当初は仲間内でインスタ映えを競う自己満足の場かと思っていたのだが、始めてみてみて驚いた。そこはプロ、アマを問わず世界の写真家がクオリティーを競い合う夢のギャラリーだったのである。

 投稿写真は膨大な数だが、気に入った写真家をフォローすることにより、その写真家がアップすると同時に自分に送られてくるようになる。つまり次第に自分の好きな写真が自分のところに集まる仕組みになっているのだ。逆に自分の写真も自分をフォローしてくれる人(フォロワー)が常にチェックしており、下手な写真はアップできない。

 従来、プロの写真はレベルが高く、アマチュア写真とは一線を画していると信じられてきた。しかし、インスタグラムにはプロには撮れそうもない質が高く個性溢れた膨大な写真が、日々、投稿されており、プロの写真の権威は急速に陳腐化しそうだ。今まさに写真の可能性が大きく拡がろうとしているのだ。    (Instagram ID:ebiman_stasta)