工業化と国家の盛衰

 かつてトルコを旅行していた時、あれほどの隆盛を誇ったオスマン帝国はなぜ衰退してしまったのだろうかという疑問が頭を離れなかった。

 オスマン帝国の強みは騎馬民族ならではの機動力だった。情報伝達と流通のスピードがアラブからヨーロッパに至る広大な領土の支配を可能にしたのだ。彼らにとって1000年間の永きにわたり停滞する当時の中世ヨーロッパは如何にも時代遅れと映っただろう。

 オスマン帝国によるコンスタンチノープル征服は、眠っていたヨーロッパを刺激し、その後のルネサンスや大航海時代、ひいては産業革命へとつながる発展の引き金となる。そして、皮肉にも産業革命がヨーロッパにもたらした工業化の波は、オスマン帝国の強みであった騎馬による機動力を次第に無力化し時代遅れにして行くのである。オスマン帝国の衰退にはさまざまな要因があろうが、工業化の立ち遅れが主因であることは間違いない。

 その後、今日に至る2世紀余りの欧米主導の世界はこの工業力によって支えられてきた。工業力の発達は経済、軍事双方を発展させ、工業力の差は国力の差を急拡大させた。その結果、いち早く工業化を達成した欧州列強の帝国主義により世界は分割されていくのである。

 工業化はまず18世紀の動力革命から始まった。それまでの人類にとって動力といえば人力と牛馬の力が主だったが、蒸気機関の発明で桁違いの馬力が得られるようになった。
 20世紀になると電気の時代が来る。電線を引っ張って来るだけでどこでもエネルギーが得られるようになり、工業化の利便性を飛躍的に高め、生活のすみずみまで工業化の恩恵を直接受けることができるようになる。

 オスマン帝国も自国においてそうした工業化を必死に推し進めようとした。だが、国内のさまざまな要因が速やかな工業化を妨げた。スルタンを頂点とするイスラム帝国の社会構造は工業化に馴染まず、また工業化により自らの利権を失う勢力の抵抗も大きかった。

 一方、いち早く工業化が進んだイギリスでは、技術革新を起こし工業化を進めていく人材に恵まれ、またそうした人たちが活躍できる社会構造があった。その後、ヨーロッパ各国が追随するが、20世紀になるとアメリカが台頭し世界最大の工業国に躍り出る。

 20世紀後半になると工業化は新たな段階に入る。エレクトロニクスの時代の到来だ。
ラジオやテレビにトランジスターが応用され、コンピューターが急速な進歩を遂げる。さらにIT技術が発達し、20世紀末にはインターネットが登場する。そして今日、AIとI o Tがキーワードとなり、工業化はさらに新たな段階を迎えようとしている。 

 現在でもアメリカはさまざまなイノベーションを起こし工業化の最先端を走っている。それを独自の戦略で急速に追い上げているのが中国だ。工業化の進歩には、その国の社会構造や教育レベル、市場の有無、さらにはそれらを主導する国の指導力が関わって来る。一方、IT化などでもたらされた社会環境がその国の欠点を補い、それが工業化を急加速する場合もある。現在の中国ではそうした条件が非常に効率的に機能しているように見える。

衰退する日本

 先日の衆議院の解散総選挙で、希望の党の小池百合子氏は、この20年余りの日本の競争力の低下を指摘し、何とかしなければ取り返しがつかなくなると訴えていたが、覚えている人はいるだろうか。小池氏の訴えは直後に勃発した野党再編のゴタゴタによってかき消されてしまったが、バブル崩壊以降、日本の国力が衰退の一途をたどっていることは事実だ。

 選挙後、11月1日の日経新聞の1面に「瀬戸際の技術立国」と題して、日本の技術開発力の低下を示すさまざまな指標が示されていた。それによれば、基礎研究力の目安となる科学技術の有力論文の数は中国の4分の1以下で、まもなく韓国にも抜かれる状況にある。応用開発力の指標となる国際特許出願数でも今年中にも中国に抜かれるようだ。

 多くの日本人は日本はまだ技術大国だと思い込んでいるが、中国の若い人に聞くと誰もそんな印象を持っていない。なにしろ今の中国で見かける日本ブランドは数えるほどしかない。かつて世界を席巻していた日本の家電も今ではソニーあたりがかろうじて残っているだけで、それもサムソンやアップルの前では存在感が薄い。自動車はそこそこ頑張っているが、ホンダ、トヨタ、日産の販売数を合わせてもフォルクスワーゲンに並ぶ程度だ。
 確かに日本製品は不良品が少ないと評判だ。しかし、それはズルをせず真面目に作っていることに対する評価であって技術の高さに対するものではない。今や日本と言えば漫画やアニメなどのオタク文化の中心であり、安全・清潔で興味深い国ではあるが、技術大国の看板はとっくに色あせているのである。

 昨今、東芝や神戸製鋼など、次々と日本企業の不祥事が相次ぐが、そこにも技術力の低下が影を落としている。海外との厳しい競争に晒された企業はじわじわと利益を出すのが難しくなり、随所で越えてはならない一線を越えざるを得なくなっているのだ。不正規雇用の増加や格差の拡大も、そうした企業の弱体化のしわ寄せの結果といえる。

 安倍政権は苦しい輸出企業を助けるために金融緩和により円安誘導を行なった。だが、そうした優遇策はカンフル剤のようなもので、一時的に企業を楽にするが、その間に企業が変われなければ元の木阿弥である。自動車業界は最も円安の恩恵に預かって来たはずだが、結局、世界的な電気自動車への転換に出遅れる結果となってしまった。自動車もダメとなると日本の衰退はいよいよ深刻なものとなってしまう。

 現在、ネット関連の技術は黎明期を経て新たなI o Tの段階に入りつつある。AIにおける革新はそれにさらに拍車をかけるだろう。そうした技術やサービスに対する投資の規模もかつてとは桁違いの大きさになっている。日本はそうしたダイナミックな動きに全くついていけてないように見える。

 こうした事態に陥ったのは、豊かさに安住しリスクを取った挑戦を避けるようになったからではないか。確かに小池氏の言う「日本のリセット」は喫緊の課題なのだ。もっともそれをどうやって実現して行くかは容易ではないのだが。

上海の友人

 この8月に上海に行った際、上海人の友人と2人で夕食を取った。上海に行けば彼には必ず会うのだが、いつも大勢で会うので、たまには2人でじっくり話したかったのだ。

 その友人とは英語で話せるので自然に親しくなったのだが、2人は年齢もほぼ同じで同じ歳の娘もいる。さらに2人ともカメラや時計に目がなく、僕が新たな時計を見せれば、彼は矯めつ眇めつ眺めた末、次に会う時には、その後手に入れた自分の自慢の時計をおもむろに披露するといった具合なのだ。その彼がもうすぐ定年を迎えるらしい。中国人の彼に取ってこれまでの人生はどんなものだったのか、この節目に是非聞いておきたかったのだ。

 われわれは衡山路(上海ではハンサンルーと発音)に面した衡山坊というレストラン街で待ち合わせた。衡山路は旧フランス租界の中心部で、かつての異国情緒溢れた上海の面影を残す静かで落ち着いた通りだ。上海では、以前の洋館や倉庫などを移設して改装し、おしゃれな街に仕立て上げたエリアが随所にある。衡山坊もそうした一角のひとつだ。

 日中の再雇用制度や年金の違い、彼の娘の転職の話などで盛り上がり、クラフトビールの酔いも大分回って来たころ、彼は急に僕の顔を覗き込み意味ありげに尋ねた、「今、中国人が最も望んでいることは何だかわかるか」と。突然の問いかけに意図を図りかねていると、「それは、今のままの状態がずっと続くことだ」と答えた。予想外の答えに一瞬戸惑ったが、すぐに飲み込めた。中国はこの30年で急速に発展した。かつて貧しかった頃には、こんな豊かな時代が来ようとは想像すらできなかったのだ。

 中国では清朝末期以降、最近まで国民が安定して豊かさを謳歌できた期間はほとんどない。時代の荒波が次々と襲いかかり、その都度、国民は右往左往し生命すら危ぶまれてきた。その間、彼らは後進国のレッテルを貼られ、貧しい生活レベルに甘んじてきたのだ。何とかそこから這い上がりたい。それは全ての中国人の永年の悲願だったのである。

 今やその願いは叶った。だが、これまでさまざまな辛酸を舐めてきた人々は決して楽観していない。「中国の発展は決して中国人の力だけで成し遂げられたものではない」と彼は言う。海外の投資がなければとても無理だったのである。まだ、自力で発展を支えていく力はないのではないか。いつ何時、この勢いに陰りが出ないとも限らない。

 「確かに今の政府に対しては不満はある」と彼は続ける。中国の政治体制に対する海外からの批判はよく承知している。中国では国が決めたことには有無を言わさず従わされる。他の先進国のように自由に政府批判をすることも許されない。だが、今の政府が海外の投資を呼び込み、これだけの繁栄を国民にもたらしてくれたことも事実なのだ。不満はあるが、政府にはとにかく今の豊かさを維持してほしい。それが彼らの本音なのだ。

 とはいえ、中国の勢いは当面衰える気配はない。今や世界中からあらゆる分野の最先端が集まり、むしろこれからが本当の中国の時代なのではないのか。だが、とどまることを知らない発展の陰に潜む危うさを国民は敏感に感じ取っているのかもしれない。

時間の進む速さ

時計は時間を測るための道具だが、われわれは普段どれだけ時間が経ったかを測るために時計を用いることは少ない。通常は今何時か知るために用いている。時計の精度が増した現代社会では世界は時事刻々と動いており、かつての日時計の時代に比べわれわれは時刻に対してはるかに敏感になっている。

一方、物理学では時刻を知るために時計を用いることはあまりない。あくまでも時間の経過を測るために用いる。物理では今何時かを知る必要はなく、ある現象が起きるのにどれだけ時間がかかったかが重要なのだ。

もっとも時計は時間を感知する特殊なセンサーではない。地球が一回転する間に短針が2周するように作られたただの機械だ。ただし、厳密に同じように作られた機械は宇宙のいつどこでも同じ時間を示すことが大前提となっている。物理学では観測できるもの以外は考えてはならない。われわれが漠然と思い描く時間はそのままでは意味がなく、時計の針が指し示す数値になって初めて意味を持つ。

特殊相対性理論によれば、自分に対して動いている人の腕時計は自分の腕時計より遅れることが示される。その遅れは相手の動く速さが速いほど大きくなり、速度が光速に近づくとほぼ止まってしまう。これは時計の機械に何か負荷のようなものがかかって遅れたわけではない。時計は全く正常に動いている。物理学では時計が示すものが時間であるから、時計の遅れは時間の遅れと解釈するしかない。自分に対して動いている人の時間は自分の時間より遅れるのだ。時間は宇宙のどこでも一様に流れているわけではない。
相手が動く速さが小さい場合はこうした遅れはわずかなものだが、もし光速に近い速さで動いているとすると個々の時計が示す時刻は大きく異なってくる。しかし、各人にとっては自分の時間は普通に流れている。あくまでも、自分から見て動いている他人の時間がゆっくり流れているのだ。自分にとって静止している限り宇宙のどこでも時間は同じように流れており、自分にとって動いている世界では別の時間が流れているのだ。

では、自分の時間の進む速さはにはどのような意味があるのだろうか。もし時間の流れる速さが遅くなったら何が起きるだろうか。周りの動きがゆっくりになるのだろうか。いや、その時はあらゆる物理現象の速さが変わり、脳の働きも変わるので何も気づかないだろう。そもそも時計で時間を測るとすれば、その時計の進む速さなど測りようがない。自分の時間の進む速さという概念には意味がないのだ。

では、われわれが常に時間が進む速さを意識するのはなぜだろうか。恐らくそれは、われわれが日々時間に追われているからではないだろうか。時間が速く経つと感じる場合も、決して時計の針が進むのを見てそれが速いと感じるからではない。あくまでも自分に必要な時間と残された時間との比較から時間の経つ速さを意識しているのだ。時間が進む速さという概念は、時間に縛られるようになった人間が生み出した想像なのである。

何のための憲法改正か

今年の憲法記念日、安倍首相は2020年までに憲法改正を目指す意向を示した。だが、その改正案は意外なものだった。

日本におけるこれまでの憲法改正論議は、そのほとんどが第9条、特にその2項の改正についてのものだった。9条2項には、「前項(平和主義)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。これを改正して軍隊を持てるようにするか否かが主な争点だったのである。

ところが、今回の安倍首相の提案は、2項をそのままにして新たに3項を設け、そこに自衛隊の存在を明記するというものだった。現行憲法では自衛隊を違憲とする意見があるので、憲法に自衛隊の存在を明示し、自衛隊の存在を保障しようというのだ。

しかし、この3項が2項に矛盾しないためには、自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないことが必要だ。だが、これまで9条改正派は、自衛隊を「陸海空軍その他の戦力」であると認め、それに合わせて9条2項を改正すべきだと主張してきたのである。
実際には現行憲法においても海外からの侵略に対して自国を守る権利、つまり個別的自衛権は認められている。自衛隊が自衛のためだけの戦力である場合には違憲ではないとされているのだ。つまり自衛のためだけの自衛隊なら、わざわざ3項を加える必要はないのだ。

安倍首相は2年前に集団的自衛権の行使を容認する安保法案を可決させている。その彼が自衛隊を個別的自衛権の範囲に留めようとするはずがない。ただ、多くの憲法学者が、個別的自衛権の範囲内ならば合憲とされる自衛隊も、集団的自衛権を行使すれば違憲であると主張している。安倍氏はその点を何とかしたいと考えているのかもしれない。

9条改正派は、現行憲法は敗戦直後という特殊な状況下でGHQによって無理やり押し付けられたもので、その結果、日本は軍隊を持てず一人前の独立国家たり得ないと主張する。さらに北朝鮮のミサイル問題や中国による海洋進出などを引き合いに出し、日本を取り巻く環境は急速に悪化しているなどと危機感を煽っている。だが、だからと言って果たして9条を改正する必要があるのだろうか。

たとえ「軍隊」を持ったとしても日本単独で自国を守れる訳ではなく、日米安保に頼る体制は変わらない。また、最近では直接的な軍事衝突よりもテロやサイバー攻撃の脅威が急速に増しており、強力な軍隊で国を守るという考え方は陳腐化しつつある。そして何よりも、もし軍隊を持てば、日本は「戦争をしない国」の看板を下ろさざるを得なくなる。その外交的な損失は計り知れない。それによって軍事バランスが崩れれば周辺国を刺激し緊張が高まることは間違いない。テロの標的になるリスクも高まるだろう。むしろ戦争放棄と平和主義を積極的に掲げ、現在の防衛体制を強化する方がはるかに現実的ではなかろうか。

何れにせよ憲法はオリンピックに合わせてあわてて改正するようなものではない。いったい何のために憲法を改正するのか、国民一人一人がよく考える必要がある。