至福のワイン

 今年の春、高校の同級生6人で、同じく同級生でソムリエのN君が経営するフレンチレストランLMPを訪れた。

 もし知らなければ、看板もなくマンションの地下にひっそり潜むその店に気がつく人はいないだろう。入り口の脇に植えられているのが葡萄の樹で、しかもロマネコンティからの株分けだと気づく人も当然いないだろう。だが、かの小澤征爾氏もお忍びで訪れたというこの店は、本気でワインを楽しみたいと思っている人にとって、まさに自分だけのものにしておきたい隠れ家的な存在なのだ。

 N君はワインの選定や料理との相性、注ぎ方に至るまで細心の注意を払う。グラスを洗う際にも飲むワインを使う徹底ぶりだ。そこからは個々のワインの個性を余すところなく引き出し、その実力を残らず伝えたいという熱い情熱が伝わってくる。

 まずはシャンパンが宴の始まりを告げる。アミューズ、サラダには滋味深いアルザスのリースニング(グラン・クリュ)、魚料理に合わせてはコクと爽やかさを併せ持つセミヨン&ソヴィニヨン・ブランが供される。ハンガリーの国宝豚を使ったメインには最上質のシャルドネ。さらに特別に2種類の赤ワインをその場でブレンドしてサービスしてくれた。いずれも従来の自分の認識をはるかに超えるクオリティーで目が醒める思いだった。

 食事をしながら、昨年の秋、名古屋で開かれた「武将が愛した能と酒の会」の話になった。N君はその席で、織田信長が当時飲んでいたワインがどんなものだったのかを推し量り振る舞ったのだ。大河ドラマなどで信長がワインを飲んでいるシーンはよく見かけるが、一体どのような味だったのかは興味津々だった。だが、N君の答えは予想外のものだった。恐らくそれは半ば腐っていただろうというのだ。確かに、防腐剤も瓶詰め技術もなかった時代に、樽詰めのまま1年も2年もかけ、しかも熱帯を経由してはるばるヨーロッパから運んできたのでは、すっかり味が変わってしまっていても不思議はない。

 そもそもワインというお酒は長期保存するために作られたものではない、と彼は続ける。瓶詰技術と安定した温度管理の元で初めて長期熟成が可能になったのであり、産地の近郊で比較的若いうちに飲むのが古代から続くワインの飲み方だったのである。もちろん寝かせることで若いうちには想像できない味が生まれることは確かだが、それにばかりこだわると本来のワインの味わいを見失いかねないということだ。

 そうした話を聞きながら改めて彼の供してくれたワインのグラスを傾ける。すると太陽が生み出した糖や酸、土壌から吸い上げられたさまざまなミネラル分が絡み合い渾然一体となって喉越しに奔流のように流れ込んで来る。ボトルの中で静かに時を待っていたワインの生命がN君の手によって見事に甦らされたかのようだった。

 塩漬けした桜の花びらを散らしたアイスクリームをデザートワインと共に楽しみつつ、これまでとは全く違うワインの新たな世界が目の前に広がっているのを感じていた。

K331の衝撃

 1年ほど前、家内の実家に友人が集まり、公開練習会と銘打ってピアノやチェロの練習成果を披露する内輪の会を始めた。練習会だから、間違え、弾き直しは御免である。昨年の会が終わった時点で、今年はモーツァルトのK331の第一楽章を弾こうと決めていた。

 30年ほど前にワルター・クリーンの演奏でこのK331を聴いたと、以前、書いたことがある。演奏が始まる直前、このトルコ行進曲付きの有名なソナタを最初の演目に持ってきたのを、何か安直な選択のように感じていたのを覚えている。ところが静かにテーマが始まると、その思いはたちまち消し飛んだ。

 クリーンの繊細なタッチから生まれる音はガラスのように澄んでいた。そのあまりの美しさに思わず身震いしたが、それを味わっている暇はなかった。すぐに快感とも苦痛ともつかない衝撃が次から次へと襲ってきたのだ。まるで何か必死に痛みに耐えつつも、ついに耐えかねて叫び声をあげるように、僕の感性は波状攻撃を受けて次第に限界に近づいた。呼吸はままならず、失禁しそうになるのを必死にこらえなければならなかった。

 実際にはそれは苦痛ではなく、恐らくは強い幸福感だったに違いない。体の中から次から次へと湧きあがるのも喜びだったのだろう。ただ、それは親しみやすいK331の曲想からはとても想像できない激烈なものだったのだ。

 その日の演目はオールモーツァルトだったが、そのあと演奏された他の曲ではそのようなことは起きなかった。また、後日、この曲を他のピアニストで何度か聴いたが、そんな経験をしたことはない。たまたまクリーンの傑出した技術が、K331を通じてモーツァルトの秘密の扉を開けたのだろうか。

 公開練習会に向けて、僕は1年かけてこの曲を練習してきた。譜づらは簡単そうに見える。だが、個々の音は常に他の音との相関の中にありモーツァルトの多義的な要求に応えるのは容易ではない。一見滑らかで平易なメロディーも、実は不協和音が大胆に使われ、破綻と調和が繰り返している。いたるところにインスピレーションが溢れ、遊び心にも満ちているが、同時に凛とした格調に貫かれ、弾くものは天才の確信を思い知らされるのだ。

 練習の参考にネットでいろいろな演奏を聞いてみた。その中でバレンボイムの演奏に何か胸騒ぎのようなものを覚えた。その弾き方はクリーンとは異なり、やや無骨とも言えるものだが、そこにはかつての衝撃を彷彿とさせるものがあった。

 モーツァルトの音楽には、「純粋」「無垢」といった枕詞がつきものだ。だが、それはしばしば誤解されている。無垢さは汚れを知る前の未熟さではない。あらゆる苦悩を受け入れ許すことができる自由で強靭な心だ。

 バレンボイムの演奏から僕はその無垢な心の一端を感じたのだろう。それに気づくと、クリーンの演奏から受けた衝撃の謎が解けたような気がした。それは、K331という傑作を通じて音楽の神様の無垢な心に僕の心が直接触れ共鳴した瞬間だったのである。

アマチュアリズム

 NHKで「プロフェッショナル」という番組がある。そこで取り上げられるのは業界の一線で活躍する優れた技術や能力を持つプロたちである。もともとプロとアマの違いは携わっている分野で生計を立てているかどうかということだが、あえてプロという言葉を用いる場合、一般人より優れた何かを持っているという含みがある。

 プロの画家になるには絵を売って収入を得なければならない。高い金を払って絵を買おうという人は限られているから、当然、高いクオリティーが求められる。一方、その見返りとして、プロの画家は趣味で描く人に比べてはるかに多くの時間を絵に注ぎ込むことができる。そうした環境がプロの高いレベルを支えているのだ。

 とはいえ、金を稼ぐというのは大きな制約にもなる。テレビ番組の製作者なら視聴率を取らなければならないし、ミュージシャンは曲をヒットさせなければならない。その結果、好きなものを作っていれば良いというわけにはいかず、時にはユーザーに迎合しなければならなくなる。もちろんそうした制約をクリアし、なおかつ優れたものを生み出せるからこそプロと呼ばれるわけだが、作品の質と金儲けを両立させるのは容易なことではない。

 一方で、世の中には優れた作品を生み出しているアマチュアもいる。もともとアマチュアという言葉は、スポーツを営利目的ではなく純粋に趣味として楽しむことに由来する。ただし、ここでいう趣味とはスポーツを観戦することではない。あくまでも自らスポーツをやってそれを楽しむという意味だ。単にプロの生み出したものを楽しむだけでなく、自ら活動したり作品を生み出すところにこそアマチュアリズムの意義があるのだ。

 現在は商業主義が強まり、プロが生み出したものを大衆が消費する社会構造が定着している。プロと消費者ははっきり分かれてしまい、プロがやっていることを自分が趣味でやることなどとても無理だと諦めてしまっている。例えば、小説はプロの小説家が書くものだという意識が強く、プロを目指す小説家志望は大勢いても、アマチュアとして趣味で小説を書こうとする人は少ない。だが、本当に小説はプロだけのものなのだろうか。

 小説は通常、出版社を通して出版されるため、ビジネスとして成り立つためには一定の売り上げが必要だ。そのために出版社の論理で小説を選ぶことになり、才能があっても埋もれたままになってしまう作家も出てくる。

 一方、最近はネットが普及しコストをかけずに簡単に電子出版が可能になっている。アマチュアでも優れた小説を書けば口コミで評判が広まり、多くの読者に読まれる可能性がある。純粋に小説を書きたいのならば、アマチュア小説家という道も十分あり得るのだ。

 豊かになったわりに現代人がなかなか人生に充実感を持てないのは、市場経済の発達により市場に提供されたものを享受するだけで、自ら積極的に何かをやる機会がなくなっているからではないだろうか。アマチュアリズムの扉は誰にでも開かれている。もし生涯本気で取り組める趣味を見いだすことができれば、人生はずっと豊かになるに違いない。

AIが変える仕事

 AI(人工知能)が進歩すると多くの仕事が奪われ失業者が続出するという話をよく耳にする。これまでも技術の進歩で多くの仕事が姿を消して来たが、AIによる影響はそれらと比較にならないほど大きなものになりそうだ。将来、われわれの仕事はどうなるのだろうか。

 仕事においてAIが代行するのは人間の頭脳労働である。従ってAIの導入は肉体的な作業を必要としない情報分野でまず進んだ。

 ネットの世界においては、グーグルなどは誰でもネットで簡単に必要な情報が得られるように早くからAIを利用して検索エンジンの改良を行なって来た。その他にもネット広告の効果を高めたり、通販で価格や在庫の最適化を行うなど、AIはすでに広く用いられている。

 お金をデータとして扱う金融分野においてもAIの活用はすでに不可欠となって来ている。株にしても債券にしてもAI同士が凌ぎを削る熾烈な競争が始まっており、AIを駆使する先端エンジニアの需要は高まるばかりだ。一方、従来の人間の経験や勘といったものは急速に廃れつつある。

 教育も一種の頭脳労働であり、AIによって大きく様変わりしそうな分野だ。AI教師は、各生徒の個性に合わせて細やかに対応し、生徒の質問にも丁寧に答えてくれるだろう。人間の教師の役割は大きく変わるに違いない。

 翻訳も頭脳労働だ。先日、久しぶりにスマホの翻訳機を使ってみて、その進歩に驚かされた。専用のヘッドフォンがあれば誰もが簡単に同時通訳を利用できる日は近そうだ。そうなれば言語の壁は格段に低くなる。外国人との相互理解は深まり、国という概念も変わっていくかもしれない。人間の翻訳家はより質の高い翻訳を求められるようになるだろう。

 ところで、自動車の自動運転の実用化が目前に迫って来ている。運転は肉体労働のように思われがちだが、本質的には頭脳労働だ。ハンドルやブレーキを操作する前に、行き先までの道順を考えたり周りの安全を確認するなど常に頭を使っている。AIが代行するのは、まさにそうした情報処理と状況判断なのだ。

 自動運転は、機械を操作する人間の作業をAIが代行する例の一つだが、運転以外でも機械、あるいは工場全体を操作するような仕事は、今後AIによって自動化が進むだろう。

 一方で職人技を伴う仕事をAIで代行するのは簡単ではない。例えば美容師の仕事を考えてみよう。カットやブローなどを行うAIロボットを開発することは原理的には可能かもしれない。だが、そうした仕事においては、AI以前の問題として職人の微妙な手加減を再現できるロボットをゼロから作らなければならない。それには莫大な費用がかかる。

 永年、肉体労働は頭脳労働より下に見られて来たが、その頭脳労働もAIに取って代わられるとなると、大きな顔はしていられなくなる。AI社会を生き延びていくのは、頭脳と肉体両者を同時にこなす仕事、つまり自分の頭で考え、発想し、判断しながら自分の肉体を微妙にコントロールすることが求められるような仕事なのかもしれない。

再生可能エネルギー

 東日本大震災にともなう福島原発の事故の直後、原発に対する不信感が増し、日本各地で反原発運動が起こった。それに対して日本経済新聞は毎日のように原発の必要性を訴えていた。もし原発をやめば、日本のエネルギーコストは増大し、海外からの投資は控えられ、日本経済は衰退すると脅しまがいの主張を繰り返したのだ。一方で再生可能エネルギーの推進に対しては、現実を見ない夢物語扱いをしていた。だが、その日経も最近では日本の再生エネルギー開発の立ち遅れを嘆く記事が目立つようになって来た。

 2007年から2016年までの10年間の世界の再生可能エネルギーの推移を見てみよう。すると風力発電は7倍の4億8,700万KWに、太陽光発電は48倍の2億9,100万キロワットになり、2016年時点で両者の合計は7億7,800万キロワットとなっている。これは、全世界の原子力発電量の約4億キロワットをすでに上回っている。

 では、世界のどの国が再生可能エネルギーに力を入れているのだろうか。2016年時点では、風力発電においては世界全体の35%を占める中国が1億6,900万KWで第1位である。ちなみに日本は1%にも満たない340万KWである。太陽光発電では、かつて世界をリードした日本が4200万KWと第2位につけているが、こちらも中国が7700万KWで1位となっている。しかも中国では年々導入が加速しており、太陽光発電では2016年1年間で日本のこれまでの累計導入量に匹敵する量を導入し、風力、太陽光いずれでも世界の増加量の半分近くを中国1国が達成しているのだ。

 この中国が2016年までに導入した風力と太陽光を合わせた累計は2億4,600万KWである。原発1基の発電量を約100万KWとすると、これは原発250基分、日本の全原発の発電能力の約5倍に相当することになる。

 福島原発の事故直後、再生可能エネルギーの将来性について調べたことがある。すると電力会社への接続(系統連系)の問題を考慮しても、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理に比べれば、再生可能エネルギーのコストを原発より下げ、原発並みの発電量を達成するのは技術的に(もちろん安全の面からも)はるかに容易に思われた。しかも、それは日本が環境ビジネスで世界をリードするまたとないチャンスだったのである。

 だが、日本政府はその後も原発再稼働に固執した。一方、自国で福島原発並みの事故が起きた場合のリスクを直視した中国は、再生可能エネルギーに一気に舵を切ったのである。

 しばらく前にNHKのグローズアップ現代プラスで、日本の再生可能エネルギー事業が電力固定価格買取制度を狙った中国の業者に次々と買収されている状況が紹介されていた。原発の再稼働を最優先する日本では、再生可能エネルギー事業を立ち上げようにもさまざまな規制が立ちはだかり、多くの業者が経営に行き詰まっている。それをコストダウンに優れ豊富な資金力を背景にした中国企業に買い取ってもらっているのだ。政府に原発リスクを押し付けられた日本国民にとって、思わぬところから救世主が現れたということだろうか。

楽しんでみよう

 毎年、新年を迎えると、何とはなしに「今年の課題は何にしようかな」と考えている。そんなことを考えてもすぐに忘れてしまうと思われるかもしれないが、その年の年末にその成果を実感していることも珍しくない。そうした目標は立てなければそれまでだが、立てれば案外効果があるものだ。

 今年は、「嫌なことも積極的に楽しんでみよう」と心がけることにしてみた。仕事でもプライベートでも面倒なことがあればイライラする。理不尽なことがあれば怒りを覚える。将来のことをあれこれ考えればさまざまな不安に襲われる。時間に追われて焦っていることも多い。病気になれば苦しいだけでなく、計画がぶち壊しになることもある。

 だが、物事をネガティブに考えてもろくなことはない。しかも、冷静に見てみると何もそれほど不愉快にならなくて良さそうな場合が多いのだ。もちろん不愉快なことは不愉快だ。問題はそれを引きずるかどうかだ。その際、単に切り替えると行っても難しいので、いっそ開き直って「楽しんでみよう」と心がけてはどうかと考えたのである。

 思えば昔に比べて最近は不愉快なことが増えたような気がする。それを自分の置かれた環境のの変化に帰すこともできるだろう。だが、そうした外的要因ではなく、自分の精神的なフレキシビリティーが低下しているからではないのか。老化現象?アンチエイジングでは肉体の若さばかりに目がいくが、実は精神の若さこそ大切なのだ。

 オリンピックが近づくと、「演技を楽しみたい」という選手の言葉をよく耳にするようになる。そもそもその競技を始めそれまで続けてこられたのは楽しかったからに違いない。練習で上達するのも楽しいことだ。それがいつの間にか成績や勝敗にこだわりすぎるようになり、本来の動機を忘れてしまい勝ちだ。オリンピック本番という修羅場で「楽しむ」というのは、僕のようにすぐに緊張してコチコチになる人間からは信じ難いが、護りに入り勝ちな精神状態を攻めに転じさせるためには、「楽しむ」という心構えが武器になるのだろう。

 もっとも僕の場合、そんな高度な精神コントロールをしようとしているわけではない。また、本当に大きな悲しみや困難に直面した場合なども想定していない。あくまでも気持ちの持ちようで気分が変わるような場合を前提としている。

 例えば、何か理不尽なことに直面した場合、「許せない」と心の中で繰り返せば繰り返すほど怒りは大きくなっていく。自分で怒りを増幅させているのである。正義感が強い人ほどその傾向は強いかもしれない。こうした場合、理屈で自分を納得させようとしても無理だ。むしろ感情的にできるだけ踏み込まず、意図的に忘れる努力が必要となる。

 だが、単に忘れると言ってもなかなかできるものではない。では、それをむしろ積極的に楽しんでしまってはどうか。何をどれだけ楽しもうが本人の勝手だ。理由などなくても良い。意外にも何でも楽しもうと思えば結構楽しめるものだ。

 はたして今年はどれだけ楽しめるだろうか。

工業化と国家の盛衰

 かつてトルコを旅行していた時、あれほどの隆盛を誇ったオスマン帝国はなぜ衰退してしまったのだろうかという疑問が頭を離れなかった。

 オスマン帝国の強みは騎馬民族ならではの機動力だった。情報伝達と流通のスピードがアラブからヨーロッパに至る広大な領土の支配を可能にしたのだ。彼らにとって1000年間の永きにわたり停滞する当時の中世ヨーロッパは如何にも時代遅れと映っただろう。

 オスマン帝国によるコンスタンチノープル征服は、眠っていたヨーロッパを刺激し、その後のルネサンスや大航海時代、ひいては産業革命へとつながる発展の引き金となる。そして、皮肉にも産業革命がヨーロッパにもたらした工業化の波は、オスマン帝国の強みであった騎馬による機動力を次第に無力化し時代遅れにして行くのである。オスマン帝国の衰退にはさまざまな要因があろうが、工業化の立ち遅れが主因であることは間違いない。

 その後、今日に至る2世紀余りの欧米主導の世界はこの工業力によって支えられてきた。工業力の発達は経済、軍事双方を発展させ、工業力の差は国力の差を急拡大させた。その結果、いち早く工業化を達成した欧州列強の帝国主義により世界は分割されていくのである。

 工業化はまず18世紀の動力革命から始まった。それまでの人類にとって動力といえば人力と牛馬の力が主だったが、蒸気機関の発明で桁違いの馬力が得られるようになった。

 20世紀になると電気の時代が来る。電線を引っ張って来るだけでどこでもエネルギーが得られるようになり、工業化の利便性を飛躍的に高め、生活のすみずみまで工業化の恩恵を直接受けることができるようになる。

 オスマン帝国も自国においてそうした工業化を必死に推し進めようとした。だが、国内のさまざまな要因が速やかな工業化を妨げた。スルタンを頂点とするイスラム帝国の社会構造は工業化に馴染まず、また工業化により自らの利権を失う勢力の抵抗も大きかった。

 一方、いち早く工業化が進んだイギリスでは、技術革新を起こし工業化を進めていく人材に恵まれ、またそうした人たちが活躍できる社会構造があった。その後、ヨーロッパ各国が追随するが、20世紀になるとアメリカが台頭し世界最大の工業国に躍り出る。

 20世紀後半になると工業化は新たな段階に入る。エレクトロニクスの時代の到来だ。ラジオやテレビにトランジスターが応用され、コンピューターが急速な進歩を遂げる。さらにIT技術が発達し、20世紀末にはインターネットが登場する。そして今日、AIとI o Tがキーワードとなり、工業化はさらに新たな段階を迎えようとしている。

 現在でもアメリカはさまざまなイノベーションを起こし工業化の最先端を走っている。それを独自の戦略で急速に追い上げているのが中国だ。工業化の進歩には、その国の社会構造や教育レベル、市場の有無、さらにはそれらを主導する国の指導力が関わって来る。一方、IT化などでもたらされた社会環境がその国の欠点を補い、それが工業化を急加速する場合もある。現在の中国ではそうした条件が非常に効率的に機能しているように見える。

衰退する日本

 先日の衆議院の解散総選挙で、希望の党の小池百合子氏は、この20年余りの日本の競争力の低下を指摘し、何とかしなければ取り返しがつかなくなると訴えていたが、覚えている人はいるだろうか。小池氏の訴えは直後に勃発した野党再編のゴタゴタによってかき消されてしまったが、バブル崩壊以降、日本の国力が衰退の一途をたどっていることは事実だ。

 選挙後、11月1日の日経新聞の1面に「瀬戸際の技術立国」と題して、日本の技術開発力の低下を示すさまざまな指標が示されていた。それによれば、基礎研究力の目安となる科学技術の有力論文の数は中国の4分の1以下で、まもなく韓国にも抜かれる状況にある。応用開発力の指標となる国際特許出願数でも今年中にも中国に抜かれるようだ。

 多くの日本人は日本はまだ技術大国だと思い込んでいるが、中国の若い人に聞くと誰もそんな印象を持っていない。なにしろ今の中国で見かける日本ブランドは数えるほどしかない。かつて世界を席巻していた日本の家電も今ではソニーあたりがかろうじて残っているだけで、それもサムソンやアップルの前では存在感が薄い。自動車はそこそこ頑張っているが、ホンダ、トヨタ、日産の販売数を合わせてもフォルクスワーゲンに並ぶ程度だ。

 確かに日本製品は不良品が少ないと評判だ。しかし、それはズルをせず真面目に作っていることに対する評価であって技術の高さに対するものではない。今や日本と言えば漫画やアニメなどのオタク文化の中心であり、安全・清潔で興味深い国ではあるが、技術大国の看板はとっくに色あせているのである。

 昨今、東芝や神戸製鋼など、次々と日本企業の不祥事が相次ぐが、そこにも技術力の低下が影を落としている。海外との厳しい競争に晒された企業はじわじわと利益を出すのが難しくなり、随所で越えてはならない一線を越えざるを得なくなっているのだ。不正規雇用の増加や格差の拡大も、そうした企業の弱体化のしわ寄せの結果といえる。

 安倍政権は苦しい輸出企業を助けるために金融緩和により円安誘導を行なった。だが、そうした優遇策はカンフル剤のようなもので、一時的に企業を楽にするが、その間に企業が変われなければ元の木阿弥である。自動車業界は最も円安の恩恵に預かって来たはずだが、結局、世界的な電気自動車への転換に出遅れる結果となってしまった。自動車もダメとなると日本の衰退はいよいよ深刻なものとなってしまう。

 現在、ネット関連の技術は黎明期を経て新たなI o Tの段階に入りつつある。AIにおける革新はそれにさらに拍車をかけるだろう。そうした技術やサービスに対する投資の規模もかつてとは桁違いの大きさになっている。日本はそうしたダイナミックな動きに全くついていけてないように見える。

 こうした事態に陥ったのは、豊かさに安住しリスクを取った挑戦を避けるようになったからではないか。確かに小池氏の言う「日本のリセット」は喫緊の課題なのだ。もっともそれをどうやって実現して行くかは容易ではないのだが。

上海の友人

 この8月に上海に行った際、上海人の友人と2人で夕食を取った。上海に行けば彼には必ず会うのだが、いつも大勢で会うので、たまには2人でじっくり話したかったのだ。

 その友人とは英語で話せるので自然に親しくなったのだが、2人は年齢もほぼ同じで同じ歳の娘もいる。さらに2人ともカメラや時計に目がなく、僕が新たな時計を見せれば、彼は矯めつ眇めつ眺めた末、次に会う時には、その後手に入れた自分の自慢の時計をおもむろに披露するといった具合なのだ。その彼がもうすぐ定年を迎えるらしい。中国人の彼に取ってこれまでの人生はどんなものだったのか、この節目に是非聞いておきたかったのだ。

 われわれは衡山路(上海ではハンサンルーと発音)に面した衡山坊というレストラン街で待ち合わせた。衡山路は旧フランス租界の中心部で、かつての異国情緒溢れた上海の面影を残す静かで落ち着いた通りだ。上海では、以前の洋館や倉庫などを移設して改装し、おしゃれな街に仕立て上げたエリアが随所にある。衡山坊もそうした一角のひとつだ。

 日中の再雇用制度や年金の違い、彼の娘の転職の話などで盛り上がり、クラフトビールの酔いも大分回って来たころ、彼は急に僕の顔を覗き込み意味ありげに尋ねた、「今、中国人が最も望んでいることは何だかわかるか」と。突然の問いかけに意図を図りかねていると、「それは、今のままの状態がずっと続くことだ」と答えた。予想外の答えに一瞬戸惑ったが、すぐに飲み込めた。中国はこの30年で急速に発展した。かつて貧しかった頃には、こんな豊かな時代が来ようとは想像すらできなかったのだ。

 中国では清朝末期以降、最近まで国民が安定して豊かさを謳歌できた期間はほとんどない。時代の荒波が次々と襲いかかり、その都度、国民は右往左往し生命すら危ぶまれてきた。その間、彼らは後進国のレッテルを貼られ、貧しい生活レベルに甘んじてきたのだ。何とかそこから這い上がりたい。それは全ての中国人の永年の悲願だったのである。

 今やその願いは叶った。だが、これまでさまざまな辛酸を舐めてきた人々は決して楽観していない。「中国の発展は決して中国人の力だけで成し遂げられたものではない」と彼は言う。海外の投資がなければとても無理だったのである。まだ、自力で発展を支えていく力はないのではないか。いつ何時、この勢いに陰りが出ないとも限らない。

 「確かに今の政府に対しては不満はある」と彼は続ける。中国の政治体制に対する海外からの批判はよく承知している。中国では国が決めたことには有無を言わさず従わされる。他の先進国のように自由に政府批判をすることも許されない。だが、今の政府が海外の投資を呼び込み、これだけの繁栄を国民にもたらしてくれたことも事実なのだ。不満はあるが、政府にはとにかく今の豊かさを維持してほしい。それが彼らの本音なのだ。

 とはいえ、中国の勢いは当面衰える気配はない。今や世界中からあらゆる分野の最先端が集まり、むしろこれからが本当の中国の時代なのではないのか。だが、とどまることを知らない発展の陰に潜む危うさを国民は敏感に感じ取っているのかもしれない。

時間の進む速さ

 時計は時間を測るための道具だが、われわれは普段どれだけ時間が経ったかを測るために時計を用いることは少ない。通常は今何時か知るために用いている。時計の精度が増した現代社会では世界は時事刻々と動いており、かつての日時計の時代に比べわれわれは時刻に対してはるかに敏感になっている。

 一方、物理学では時刻を知るために時計を用いることはあまりない。あくまでも時間の経過を測るために用いる。物理では今何時かを知る必要はなく、ある現象が起きるのにどれだけ時間がかかったかが重要なのだ。

 もっとも時計は時間を感知する特殊なセンサーではない。地球が一回転する間に短針が2周するように作られたただの機械だ。ただし、厳密に同じように作られた機械は宇宙のいつどこでも同じ時間を示すことが大前提となっている。物理学では観測できるもの以外は考えてはならない。われわれが漠然と思い描く時間はそのままでは意味がなく、時計の針が指し示す数値になって初めて意味を持つ。

 特殊相対性理論によれば、自分に対して動いている人の腕時計は自分の腕時計より遅れることが示される。その遅れは相手の動く速さが速いほど大きくなり、速度が光速に近づくとほぼ止まってしまう。これは時計の機械に何か負荷のようなものがかかって遅れたわけではない。時計は全く正常に動いている。物理学では時計が示すものが時間であるから、時計の遅れは時間の遅れと解釈するしかない。自分に対して動いている人の時間は自分の時間より遅れるのだ。時間は宇宙のどこでも一様に流れているわけではない。

 相手が動く速さが小さい場合はこうした遅れはわずかなものだが、もし光速に近い速さで動いているとすると個々の時計が示す時刻は大きく異なってくる。しかし、各人にとっては自分の時間は普通に流れている。あくまでも、自分から見て動いている他人の時間がゆっくり流れているのだ。自分にとって静止している限り宇宙のどこでも時間は同じように流れており、自分にとって動いている世界では別の時間が流れているのだ。

 では、自分の時間の進む速さはにはどのような意味があるのだろうか。もし時間の流れる速さが遅くなったら何が起きるだろうか。周りの動きがゆっくりになるのだろうか。いや、その時はあらゆる物理現象の速さが変わり、脳の働きも変わるので何も気づかないだろう。そもそも時計で時間を測るとすれば、その時計の進む速さなど測りようがない。自分の時間の進む速さという概念には意味がないのだ。

 では、われわれが常に時間が進む速さを意識するのはなぜだろうか。恐らくそれは、われわれが日々時間に追われているからではないだろうか。時間が速く経つと感じる場合も、決して時計の針が進むのを見てそれが速いと感じるからではない。あくまでも自分に必要な時間と残された時間との比較から時間の経つ速さを意識しているのだ。時間が進む速さという概念は、時間に縛られるようになった人間が生み出した想像なのである。