人間の時間、猫の時間

猫はいつものんびりしているように見える。だが、猫自身は特にのんびりしているつもりはないだろう。朝起きて会社に急ぐ必要もなく、夕飯の支度に追われることもない。気ままに生きる彼らをみてわれわれが羨ましがっているだけなのだ。

猫も夜になればどこかに出かけて行くし、道を渡るときには間合を測って身構える。彼らにもそれなりの時間感覚はありそうだ。では猫の時間と人間の時間は何が違うのだろうか。

猫には時計を見る習慣はない。いちいち今何時か気にしたりはしない。だが人間も常に時計を見て時間を確認しているわけではない。階段を降りる時、いつ足を前に出すかいちいち時計を見る人はいない。日頃の行動の多くは感覚的に行われ、猫とさほど変わらないのだ。

そもそも人間はいつから時計を気にするようになったのだろうか。人間にとって最初の時計は太陽だったと思われるが、当初は大まかな目安程度だったろう。明るくなったので活動し、日が傾けば危険を感じ家に帰る。この時点では猫とさして変わりはない。

しかし、あるとき人間は太陽の動きを正確な時間の目印、つまり時計として使おうと思いついたのだ。1日を時間の物差しにより分割し、いつ頃が狩りに適しているか、作業を終えるまでにどのくらいかかるかなど、生活の中に本格的に時間が入り込んできたのだ。

一方、太陽が毎日昇っては沈むうちに次第に季節が変わり、しばらくすればまた同じ季節が戻ってくることにも気がついただろう。そしてそれに合わせて冬に備え食料を蓄えることなども学習して行っただろう。それには1人の人間の力だけでは無理で、何代にもわたる経験の積み重ねが必要だったかもしれない。

こうして人間は太陽の運行を元に時間という物差しを作り、その物差しを日頃から意識して暮らすようになった。猫とは一線を画すようになったのだ。

さらに村のような社会ができると村の人たちが同じ時間を共有する必要が出てくる。さもなければ待ち合わせもままならないからだ。太陽の位置は見る場所によって変わるので日時計が作られ、そこから得た時間情報を村全体で共有するために定期的に狼煙を上げたり鐘を鳴らすような工夫もしただろう。複雑な社会の構築には時間は不可欠だったのである。

一旦時間が共有されると、今度はそれに合わせて生活しなければならなくなる。店はいつでも開いているわけでもないし、会議に遅れることは許されない。社会的な利便性のために作り出した時間に今度は人間が逆に支配されることになったのだ。

過去や未来という概念も時間の物差しを持つようになって初めて生まれたものだ。自分の記憶と過ぎた去った時間を組み合わせることで過去が生まれ、来たるべき時間に何が起こるかを想像することにより未来が生まれる。従って、猫には過去や未来もありそうもない。

現代人は富を生み出すために時間をいかに効率よく使うかを日夜追求している。一方、時間があるからこそわれわれは未来を案じ過去を懐かしむことができる。富への欲望も情緒豊かな文化も実は時間により生み出されたものなのだ。

ゆっくりの効果

最近、ゆっくりやることの効果に驚かされたある事件があった。それは例によってピアノの練習においてだった。

難しい箇所をゆっくり弾くというのは練習ではよくあることだ。普通のテンポでうまく弾けない所をなんとか弾けるところまでテンポを落とすわけだ。だが、ゆっくり弾くことの効用は単にそれだけではなかったのだ。

このところ取り組んでいるモーツァルトのK533のソナタでは、いたるところで対位法が駆使され、幾つものメロディー(声部)が同時に進行する。左手と右手でそれぞれのメロディーを弾く場合もあれば、左右で3つのメロディーを弾く場合もある。

そうした対位法音楽においては各メロディーをしっかりと自分の耳で聴きながら弾くことが大切だ。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、指では複数のメロディーを同時に弾いているのに耳は1つのメロディーしか追っていない場合が多々あるのだ。

そうした場合、演奏が不自然になり先生からすぐに指摘される。だが、情けないことにそこでいくら注意しても一向に聴こえてこない。自分で弾いているのに聴こえないのだ。

こうしたことはこれまでにもしばしばあった。永年の課題なのだ。今回も諦めかけていたが、ふと思いついて極端にゆっくり弾いてみた。普段の5分の1ほどのテンポで一音ずつ確認しながら弾いてみたのだ。すると断線していた電線が急につながったかのように、聴こえなかったメロディーが突然耳に飛び込んできたのである。一旦、聴こえるようになればしめたもので、その後は徐々にテンポを上げても見失うことはない。

僕は唖然とし、同時に思った、これはピアノだけの問題ではないと。われわれは日頃から何をやるにも急いでいる。その中で気づかぬうちに多くの大切なものを見落としてきたのではないのか。

そこで、自分が不用意に急いでいないかどうか日頃からチェックしてみることにした。すると特に急ぐ必要がないのに急いでいることが多いのに気づかされた。

例えば、読書。本来、小説を読むのに急ぐ理由は何もないはずだ。だが、どうやらこれまでは無意識のうちにストーリーを追いかけ先を急いでいたようだ。気をつけてゆっくり読んでみると、一言一言に込められた作者の意図や工夫の跡がそれまでに比べよく見えるのだ。その結果、作者に対する印象さえもがらりと変わってくる。

ピアノでもそうだが、ゆっくりやることは意外と難しい。われわれは常に急ぐ癖がついていて、ゆっくりやると逆に調子が狂うのだ。だが、ゆっくりやることの効果を実感できるようになると生活の密度が濃くなって来る。同時に焦らなくなり気分も落ち着いて来る。

われわれは時間を節約するために急ぐ。だが、そのことで失うものが多ければ、時間を無駄に過ごしていることになりかねない。効率を追求することで、実は肝心の中身がなくなっているのだ。

「脱力」のすすめ2

以前、エッセイをまとめて本にした際、『「脱力」のすすめ』というエッセイにまず目を止める人が多かった。脱力を切望している人は意外に多そうなのだ。

そうした人たちは日頃から様々なことに精力的に取り組んでいる場合が多い。脱力したいと感じるのは、何かをする際、ついどこかで無駄な力が入っているという自覚があるのだろう。力を抜くべきところで抜けていない、それを何とかしたいと思っているのである。

以前にも書いたが、僕自身、脱力においてはしばらく前に大きな進捗があった。永年練習してきたピアノにおいて、ある時、急に力の抜き方がわかったのだ。それはあくまでもピアノにおいてのことだが、そのインパクトは大きく、その後の人生観がかなり変わったように思う。「脱力には方法がある」とわかったことで、自分の人生の可能性が急に広がったように感じるのだ。

うまく弾けないので何とかしようとしている時に、先生から「力を抜いて」と注意されても簡単に力が抜けるわけがないと以前は思っていた。無駄な力を抜けと言われても何が無駄で何が必要なのかよくわからない。それでも必死に力を抜こうとすると、今度は別のところに力が入ってしまう。一体どうすれば良いのだ。

実は力を抜くためには力が抜ける弾き方をしなければならないのだ。S先生は生徒に手の力を抜かせるためにあるおもしろい指導をしている。鍵盤に指をくっつけたままで弾かせるのだ。これは慣れないと非常に弾きにくい。何しろ指に全然力が入らない。手応えがない。こんなやり方で本当に弾けるようになるのだろうか、と投げ出してしまってはダメである。

とにかく、まず指に力が入らないようにするところから始めるのだ。もちろんうまく弾けない。だが、あれこれやっているうちに、時々鍵盤にうまく力が伝わりいい音が出ることがある。どうやら指の力を補うために無意識のうちに手首を使っているようだ。こうして徐々に手首を使って弾く感覚が身につき、力を入れなくても弾けるようになって行くのである。

ここで大切なことは、何としても脱力するという強い意志だ。脱力を簡単に考えてはならない。ちょっとリラックスするくらいでは脱力はできないのだ。

本来、何であれ正しいやり方をすれば無駄な力は入らないはずだ。脱力できていないということは、何かやり方が間違っているのである。向上心が強いのも時には仇になる。上手くなろうとか結果を出そうするあまり力が入る。しかし、そんなやり方で無理やり何かを達成しても肝心なところは上達していないのだ。しかも、正しいやり方なら得られるはずの大きな喜びがない。僕は自分のピアノでそのことを思い知らされたのだ。

現代のように忙しい時代は、誰もが結果を急ぎすぎる。そういう癖がついてしまっているのだ。だが、それによってわれわれは人生の多くを無駄に使っているのかもしれない。何事に対しても一度立ち止まって、どうすれば脱力できるのか真剣に考えてみる必要がある。脱力できて初めて自分の生き方ができるのだ。

トランプ最強のカード

先日、アメリカの中間選挙が行われ下院で民主党が過半数を取り戻した。この結果に最も神経を尖らせていたのが中国の習近平国家主席だろう。もし共和党が勝利すれば、トランプ大統領の対中強硬政策が過激さを増すのは間違いない。2年後のトランプの再選も有力となり、中国としては向こう6年間、トランプとの戦争を覚悟しなければならなくなるのだ。

9月にトランプが各国に対して高率の輸入関税の適用に踏み切った時、中間選挙を睨んだ人気取り政策に出たと思われていた。本気で経済戦争を仕掛ける気は無く、交渉を有利に進めるために最初に厳しい条件を突きつけて妥協点を探るディールなのだと。ところが、中国は一歩も妥協せず報復関税に打って出ると関税合戦はあっという間にエスカレートし、世界の株式市場は中国発の景気減退を懸念して急落することになったのである。

だが、あれから2ヶ月経った今、このトランプの政策はアメリカ国内である程度受け入れられているように見える。もっとも、それはトランプが当初から唱えていたような貿易赤字削減によりアメリカの雇用が回復するという理由からではない。むしろそれは建前で、本当の狙いは別のところにあるのだ。

今のアメリカにとって最大の脅威は中国だ。それは単に巨額な貿易赤字だけによるものではない。2000年には8.5倍あった中国とのGDPの差は、2017年には1.6倍にまで縮まっている。通常であれば、国が発展して人件費が上がると急速に競争力を失うはずだが、中国の場合、国家主導の資本主義が効率的に働き、なかなか成長が鈍化しない。AIや半導体と言った要素技術でも互角のレベルに達している。このままいけば抜かれるのは時間の問題だ。事実、中国は2030年代には経済規模でアメリカに追いつき、建国100年となる2049年には軍事を含めあらゆる分野で世界のトップレベルになるべく計画を着々と実行しているのだ。

それに対し強い危機感を抱きながらも、これまでアメリカは何もできなかった。資本主義の盟主を標榜する彼らとしては、あくまでも共通ルールのもとで経済発展を目指す立場であり、相手を潰すために経済戦争を仕掛けることなどしたくてもできなかったのだ。そこに現れたのがトランプである。当初、彼の保護主義的な政策に批判的だった人たちも、中国に対抗するためにはやむを得ないと考え始めているのだ。

トランプは敵を作ってそれに対する潜在的な不満を自分への支持につなげる手法に長けている。大統領選では旧来の政治勢力への不満を味方につけ当選した。その後も次々と新たな敵を作り出すことで岩盤支持層を広げ、今回の選挙ではとうとう共和党を手なずけてしまった。その扇動家としての手腕はもはや侮れず、ヒトラーすら思い起こさせる。

今後、トランプはますます中国への攻勢を強め、その結果を誇示して支持を広げようとするだろう。今回、下院で多数派となった民主党は元々中国に対して厳しい態度を取ってきた。中国の脅威と戦うトランプはその民主党をも呑み込んでいくかもしれない。

中国はアメリカの最大の敵であるがゆえにトランプにとっては最強のカードなのである。

死に方というテーマ

先日、樹木希林さんがなくなった。全身に癌が転移している状態で淡々と生きる姿には、死を前にして研ぎ澄まされていく彼女の生を強く感じさせられた。

生前、希林さんは「死を覚悟したらスーッと楽になった」と言っていた。これはまさに釈迦の「執着するな」の実践ではないか。誰もが死から逃げようとする。だが、逃げればどうなるかを希林さんはよくわかっていたのだろう。

とはいえ、死を覚悟することは簡単なことではない。今自分が癌を宣告されたらどういう気分だろうかと考えてみれば容易に想像がつくが、再発と死への恐怖から癌患者のほとんどがうつ病になるという。ほとんどの人が死を受け入れる術を持たないのである。

希林さんは、死ぬ準備をする時間があるので癌も悪くないと言っていた。冗談にも聞こえるが、そうではないだろう。歳を取ると体力も頭脳も衰えてくる。その結果、体調は悪くなり時には耐えられない痛みと戦わなければならなくなる。それまで当たり前にできたことが一つまた一つとできなくなっていくのも大きな精神的苦痛だ。そうなる前に自分の意思で幕引きできることを希林さんは心からありがたいと思っていたに違いない。

今年3月に骨折した僕の母が、先日、「寝たきりになって何にもできんようになったら、死んだほうがましだな」とボソリと言った。思うように体が動かず、何をやってもすぐに疲れてしまう。横になっていても辛い。好きだった読書も全く頭に入らないようになった。今はまだ少しは回復に望みを持っているが、いよいよ寝たきりになったらそれも諦めるしかないと自分に言い聞かせているのかもしれない。

母の母は、死ぬ数年前から「私みたいなもんは、もう死なないかんのだわ」と口癖のように言うようになっていた。そして、ある日、食事も水も拒絶し自ら命を絶った。その祖母の覚悟は側で見守るわれわれに何とも言えない感動を残した。母は、時が来たら自分も祖母のように死のうと思っているのかもしれない。

いくら素晴らしい人生でも最後に苦しい思いをしなければならないとはなんとも理不尽だ。生命が危険な状態になると生体は全力でそれを回避しようとし、それが苦しみをともなうのだろう。とはいえ、もし死が心地よいものなら人はすぐに自ら進んで死んでしまうに違いない。苦しみは生物が簡単に死なないために不可欠な仕組みなのだ。

そうした苦しみをへて、とうとう生命の維持が不可能になった時、人は死を迎える。だが、現代は医療が進歩し簡単には死ななくなっている。自力では生きられなくなってからも長い間生き続けることになる。将来、医療の進歩により、寝たきりで意識もない状態でも何十年も生きられるようになり、人口の大半をそうした人が占める世の中になるかもしれない。そうなっても、医療はけっして生命の維持を放棄するわけにはいかない。

われわれは、今、納得のいく死に方を見つけるべく模索を迫られているのではないだろうか。生き方だけでなく死に方も人生の大きなテーマになりつつある。

中国で見る格差の実際

「中国人が豊かになった」と言うと、日本ではまだ、それは一部の富裕層だけの話だろうと考える人が多い。だが、今や世界中に中国人旅行者が溢れている。豊かさの波は確実に裾野に広がりつつあるのだ。

この8月の中国出張では、福建省の廈門(アモイ)と泉州、浙江省の温州と杭州を経て上海に至った。高速鉄道で移動していくと、途中、次々と姿を表す夥しい数の高層マンション群に驚かされる。この数年、地方の様子はすっかり様変わりしているのだ。

マンションの価格はその町の経済レベルのバロメーターだ。中国有数の靴の生産地である泉州のマンション価格は1㎡あたり6000元程度。中国のマンションの面積は共用スペース込みで表され、泉州のような地方では200㎡が普通だ。つまり120万元(約2000万円)ということになるが、中国では内装は別途なのでトータルでは3000万円程度になるはずだ。日本と比べても安くはない。

この泉州の人々の暮らしは中国全体から見て一体どの程度のレベルなのだろうか。工場の担当者に聞いて見ると、平均より少し上くらいではないかという答えが返ってきた。

次に向かった温州は商才に長けた金持ちが多いと言われる町だ。そのマンション価格は1㎡2万5000元から3万5000元。内装費込みで1億円~1億3000万円程度だ。もっとも、温州の金持ちはほとんどが上海などの大都市に住んでいるという。

その上海のマンション価格は1㎡10万元を越え、150㎡でも3億円程度になる。ざっと泉州の10倍だ。確かに上海での暮らしぶりは垢抜けており泉州とは比較にならない。だが、マンション価格からわかるように泉州が貧しいわけではなく、上海の方が異常なのだ。

中国ではこうした都市と地方の差だけでなく、都市は都市、田舎は田舎に住む人の間で大きなレベルの差がある。上海で高価なマンションに住めるのはあくまでも上海市民に限られ、地方の農村からの出稼ぎ労働者にはとても無理だ。だが、そうした人たちが苦しい生活をしているかと思えば、彼らも高度に発達した中国のスマホライフを謳歌しているのだ。

15年ほど前、上海の街中では10円も出せば美味しい中華まんじゅうが食べられたが、今でもほとんど値上がりしていない。一方、かつては1人2000円も出せば豪華な食事ができたが、今ではちょっと洒落た店に入ればすぐに1万円くらいは取られてしまう。

つまり高価なものはどんどんグレードアップして欧米を追い越すほどになったが、今でも安いものが残っているのだ。収入に大きな差がある一方、物価にも大きな幅があるため、ブランド品や外国製品にこだわらなければ相当安価な生活が可能なのである。

こうした傾向は地方都市でも同じだ。泉州でも金持ちは高級車を乗り回していが、収入が低い人々の暮らしもそれほど悪くない。平等と言われる日本では、何かのきっかけで誰もが厳しい貧困に転落しかねない過酷な格差社会になりつつある。一方、中国では様々なレベルの人が共存できる社会構造があり、さらにその底辺は急速に底上げされつつあるのだ。

不都合な真実

大きな危機が間近に迫っていても、人はそれに備えるよりむしろそこから目を背ける傾向がある。

バブルの頃、それが間もなくはじけると警告していた人はいた。株価や地価が永遠に上がり続けるわけがない。だが、多くのマスコミや専門家はさまざまな理由をつけて世間を煽り続け、国の対策も後手に回った。そして人々もまたそうした心地よい説に酔ったのだ。

思えば第2時世界大戦に突入して行った日本にも同じことが言えるのではないか。アメリカと戦争すれば負けるに決まっていたはずだが、日本人は負けた時の悲惨さよりも軍部の威勢のいい不敗神話を信じたのだ。

厄介なのは、そうした危機が現実のものとなっても、その後、誰も責任を取らず何度でも同じことを繰り返すことだ。あれほど甚大な被害をもたらした福島原発の事故を経ても、かつて安全神話を作り上げた政府の考え方は本質的に変わったようには見えない。

そして今、また新たな悲劇の予兆が感じられる。

日本政府と地方の債務残高の合計は2017年度末時点で1000兆円以上に膨れがっている。これは先進国中最悪の状況だが、政府には特に危機感は感じられない。

2006年、政府は将来の財政破綻を回避するために、2011年に基礎的財政収支を黒字化する目標を立てていた。だが、これはリーマンショックを理由に2020年まで先送りされた。それがこの度、さらに5年間、あっさり先送りされたのだ。しかも、この新たな目標も達成はほぼ不可能だと考えられている。

政府は本気で借金を減らす気はないのだろうか。とはいえ、今後、少子高齢化が進み社会保障費は確実に増加し、放っておけば借金が膨らみ続けるのは間違いない。政府は無限に借金を増やしていけると考えているのだろうか。

まさか日銀がお金を刷って国債をどんどん買い上げれば政府はいくらでも借金できると考えているわけではあるまい。そんなことをすれば通貨の信用が保てなくなるからだ。その信用を示す指標の一つが長期金利の動向だ。長期金利は国債の利回りに直結し、政府が支払う利息を決める。利払いが増えると政府の財政は途端に苦しくなるので、現在日銀は金融政策を駆使して必死に長期金利をゼロに押さえ込もうとしている。

だが、そのために日銀が取っている金融政策にはかなり無理があり、次第にさまざまなところで弊害が現れてきている。もし何らかの要因で金利の制御が効かなくなれば、政府は財政破綻を回避するために、それこそ異次元の増税をするしかなくなってしまう。

最大の問題は、政府がそうしたリスクを国民にちゃんと説明しないことだ。借金を減らそうとすれば、社会保障費を減らすか増税するしかない。必ず痛みを伴うのだ。しかし政府は、そうした不都合な真実にはけっして触れようとはしない。

結局、国民は甘い言葉に騙され、歴史はまた繰り返されることになるのだろうか。

シンギュラリティーより怖いもの

AI(人工知能)が発達すると、いつかAI自身がAIを開発し進歩させるようになる。するとAIの進歩は飛躍的に加速し、ついには人間の知能を超え人間が太刀打ちできなくなる日、つまりシンギュラリティーが訪れると警告する専門家がいる。

SFやマンガでは、高度なAIを搭載して意思や感情を持つようになった人間そっくりなロボットが登場するが、今でもすでにAIは人間の問いかけに応えたり相槌を打ったりする。将来、AIが発達すれば本当に人間と話しているのと変わらないレベルで受け答えができるようになるだろう。人間同士の会話よりAIとの会話の方が話がはずむ日が来るのも遠くはないかもしれない。

とはいえ、AIは決して人間の言葉を理解して会話をしているわけではない。人間の言葉の中のキーワードを選択し、そうした言葉が出る場合にはどのような答を相手が望んでいるかを推論して答えているだけなのである。つまり、AIが「意思」を持っているわけではなく、あたかも意思を持っているかのごとく会話してくれるだけなのだ。実はAIは意味を理解することが非常に苦手なのである。

人間には簡単でもAIが苦手とすることは他にもいくらでもある。ディープラーニングの登場で画像認識能力が飛躍的に進歩したと言われているが、まだとても人間にかなうレベルではない。人間の感覚や感情などを理解することは、事実上AIにはまだ無理なのだ。

そもそもAIのベースとなっているニューラルネットワークは脳の神経細胞の働きを簡略化し、脳の働きの一部をコンピューターで計算できるようにモデル化したものに過ぎない。実際の人間の脳の仕組みははるかに複雑で、われわれ自身、そのほんの一部を理解しているに過ぎない。それを完璧にモデル化し人間と同じような「意思」を再現することなどとても不可能だ。従って今のAIの性能がいくら向上したところで人間の脳に近づくことはない。

とはいえ、目的によってはAIの能力は人間よりはるかに優れている。近い将来、車の運転を始め人間のやっている多くのことをAIが代行してくれるようになるだろう。問題は現代のような競争社会を勝ち抜くためにAIは強力な武器になるということだ。金融、マーケティング、軍事など、あらゆる分野でいかに優れたAIを開発するかが勝負の決め手になるだろう。その際、ヒトラーのような人物が最強のAIを手にするようなことも十分あり得るのだ。

AIが出す答を人間が理解できないのも問題である。AIは経験から学習していくので、その答に人間が考えるような理由はないのだ。だが、AIが間違える場合もある。AIに任せておいて気がついたら世界が取り返しのつかない事態に陥っていたということも十分起こり得る。

AIが人間の知能を超えるという意味でのシンギュラリティーは簡単には起きそうもない。だが、AIの性能向上が進めば、人間の欲望はそれを利用して極端な力の格差を生み出しかねない。はたしてそれにどう備えていくのか。われわれはすでにそうしたAI社会に一歩踏み出しているのである。

至福のワイン

 今年の春、高校の同級生6人で、同じく同級生でソムリエのN君が経営するフレンチレストランLMPを訪れた。

 もし知らなければ、看板もなくマンションの地下にひっそり潜むその店に気がつく人はいないだろう。入り口の脇に植えられているのが葡萄の樹で、しかもロマネコンティからの株分けだと気づく人も当然いないだろう。だが、かの小澤征爾氏もお忍びで訪れたというこの店は、本気でワインを楽しみたいと思っている人にとって、まさに自分だけのものにしておきたい隠れ家的な存在なのだ。

 N君はワインの選定や料理との相性、注ぎ方に至るまで細心の注意を払う。グラスを洗う際にも飲むワインを使う徹底ぶりだ。そこからは個々のワインの個性を余すところなく引き出し、その実力を残らず伝えたいという熱い情熱が伝わってくる。

 まずはシャンパンが宴の始まりを告げる。アミューズ、サラダには滋味深いアルザスのリースニング(グラン・クリュ)、魚料理に合わせてはコクと爽やかさを併せ持つセミヨン&ソヴィニヨン・ブランが供される。ハンガリーの国宝豚を使ったメインには最上質のシャルドネ。さらに特別に2種類の赤ワインをその場でブレンドしてサービスしてくれた。いずれも従来の自分の認識をはるかに超えるクオリティーで目が醒める思いだった。

 食事をしながら、昨年の秋、名古屋で開かれた「武将が愛した能と酒の会」の話になった。N君はその席で、織田信長が当時飲んでいたワインがどんなものだったのかを推し量り振る舞ったのだ。大河ドラマなどで信長がワインを飲んでいるシーンはよく見かけるが、一体どのような味だったのかは興味津々だった。だが、N君の答えは予想外のものだった。恐らくそれは半ば腐っていただろうというのだ。確かに、防腐剤も瓶詰め技術もなかった時代に、樽詰めのまま1年も2年もかけ、しかも熱帯を経由してはるばるヨーロッパから運んできたのでは、すっかり味が変わってしまっていても不思議はない。

 そもそもワインというお酒は長期保存するために作られたものではない、と彼は続ける。瓶詰技術と安定した温度管理の元で初めて長期熟成が可能になったのであり、産地の近郊で比較的若いうちに飲むのが古代から続くワインの飲み方だったのである。もちろん寝かせることで若いうちには想像できない味が生まれることは確かだが、それにばかりこだわると本来のワインの味わいを見失いかねないということだ。

 そうした話を聞きながら改めて彼の供してくれたワインのグラスを傾ける。すると太陽が生み出した糖や酸、土壌から吸い上げられたさまざまなミネラル分が絡み合い渾然一体となって喉越しに奔流のように流れ込んで来る。ボトルの中で静かに時を待っていたワインの生命がN君の手によって見事に甦らされたかのようだった。

 塩漬けした桜の花びらを散らしたアイスクリームをデザートワインと共に楽しみつつ、これまでとは全く違うワインの新たな世界が目の前に広がっているのを感じていた。

K331の衝撃

 1年ほど前、家内の実家に友人が集まり、公開練習会と銘打ってピアノやチェロの練習成果を披露する内輪の会を始めた。練習会だから、間違え、弾き直しは御免である。昨年の会が終わった時点で、今年はモーツァルトのK331の第一楽章を弾こうと決めていた。

 30年ほど前にワルター・クリーンの演奏でこのK331を聴いたと、以前、書いたことがある。演奏が始まる直前、このトルコ行進曲付きの有名なソナタを最初の演目に持ってきたのを、何か安直な選択のように感じていたのを覚えている。ところが静かにテーマが始まると、その思いはたちまち消し飛んだ。

 クリーンの繊細なタッチから生まれる音はガラスのように澄んでいた。そのあまりの美しさに思わず身震いしたが、それを味わっている暇はなかった。すぐに快感とも苦痛ともつかない衝撃が次から次へと襲ってきたのだ。まるで何か必死に痛みに耐えつつも、ついに耐えかねて叫び声をあげるように、僕の感性は波状攻撃を受けて次第に限界に近づいた。呼吸はままならず、失禁しそうになるのを必死にこらえなければならなかった。

 実際にはそれは苦痛ではなく、恐らくは強い幸福感だったに違いない。体の中から次から次へと湧きあがるのも喜びだったのだろう。ただ、それは親しみやすいK331の曲想からはとても想像できない激烈なものだったのだ。

 その日の演目はオールモーツァルトだったが、そのあと演奏された他の曲ではそのようなことは起きなかった。また、後日、この曲を他のピアニストで何度か聴いたが、そんな経験をしたことはない。たまたまクリーンの傑出した技術が、K331を通じてモーツァルトの秘密の扉を開けたのだろうか。

 公開練習会に向けて、僕は1年かけてこの曲を練習してきた。譜づらは簡単そうに見える。だが、個々の音は常に他の音との相関の中にありモーツァルトの多義的な要求に応えるのは容易ではない。一見滑らかで平易なメロディーも、実は不協和音が大胆に使われ、破綻と調和が繰り返している。いたるところにインスピレーションが溢れ、遊び心にも満ちているが、同時に凛とした格調に貫かれ、弾くものは天才の確信を思い知らされるのだ。

 練習の参考にネットでいろいろな演奏を聞いてみた。その中でバレンボイムの演奏に何か胸騒ぎのようなものを覚えた。その弾き方はクリーンとは異なり、やや無骨とも言えるものだが、そこにはかつての衝撃を彷彿とさせるものがあった。

 モーツァルトの音楽には、「純粋」「無垢」といった枕詞がつきものだ。だが、それはしばしば誤解されている。無垢さは汚れを知る前の未熟さではない。あらゆる苦悩を受け入れ許すことができる自由で強靭な心だ。

 バレンボイムの演奏から僕はその無垢な心の一端を感じたのだろう。それに気づくと、クリーンの演奏から受けた衝撃の謎が解けたような気がした。それは、K331という傑作を通じて音楽の神様の無垢な心に僕の心が直接触れ共鳴した瞬間だったのである。