先進国化する中国

 8月中旬、国会中継である自民党の議員が安全保障関連法案に絡んだ質疑を行なっていた。彼は中国の領海侵入を取り上げ、法案の必要性を強調していた。ちょうど久しぶりの中国出張から帰ってきたばかりだった僕は、それを聞いて何とも言えない違和感を覚えた。その議員が主張する中国と、自分が感じた中国があまりにもかけ離れていたからだ。

 日本ではことあるごとに中国脅威論が叫ばれ、中国人を常識はずれの問題児として揶揄するような報道が目立つ。もちろんそれらは全く根拠のないことではない。しかし中国を負の側面からばかり見ようとするそうした態度は、日本人に現実の中国とはかけ離れた中国像を植え付けてしまっている。それは間違いなく日本にとって大きなマイナスだ。

 今回、中国に行って最も印象に残ったのは、この国はもはや途上国ではないということだ。上海などの大都市ではすでにインフラの整備は終わり景観には大きな変化はない。街行く人のファッションもしばらく前に比べてすっかりあか抜けた。地方都市ではまだ大規模な開発が続いているが、粗末な建物はお洒落なショーウインドウに変わり、かつて目立った人々の粗野な振る舞いも、今では上品で都会的な物腰に置き換わっている。新幹線に乗れば、地方の中小都市でさえ上海と見まごうばかりの高層ビル群に覆われているのだ。

 市民の表情には、かつてのように豊かさを誇示するような力みは影を潜め、すでに先進国並みの生活が当たり前になったことが見て取れる。豊かになれば自ずとその意識も振る舞いもわれわれの常識に近づいてくるのだ。

 かつて新大陸が発見され、そこに建国されたアメリカは独立から150年あまりで世界一の国家になった。この20年あまりの中国の発展はそれに匹敵する出来事なのだ。われわれは、目と鼻の先にアメリカと肩を並べる大国が出現したことを良く理解する必要がある。

 もちろん、あまりに急速な発展はさまざまな深刻な問題を引き起こしている。今回、上海のレストランにおいて店員の厳しい表情が目についた。いくら働いても物価上昇に給与が追いつかず疲れ切っている様子だ。上海の中心部では築10年の中古マンションが2億円以上し、多くの人にとっては手の届かないものとなっている。格差は広がる一方なのだ。

 さらにここに来て豊かさの代償として人件費が高騰し、これまで驚異的な発展を支えてきた安い労働力が失われつつある。奇跡の成長は大きな転機を迎えているのだ。だが、リーマンショックでアメリカが滅びることがないように、たとえ経済が減速したとしても中国という国が消えてなくなることはもはやない。国内にさまざまな矛盾を抱えつつも、大国としての存在感は今後ますます増していくに違いない。

 そんな隣国に対して敵対ばかりしていては、日本は世界から取り残されてしまうだろう。豊かになれば考え方も変わる。われわれはまず中国の現状をよく知る必要がある。その上で、互いに歩み寄る努力が必要だ。大国には強みもあれば弱みもある。相手の立場を尊重して謙虚に向き合うことが、結局は日本の立場を高めることに繋がるのではないだろうか。

大国の憂鬱

 今年2月、ロシアのソチでは悲願だった冬期オリンピックの開催を宣言するプーチン大統領の満足そうな姿があった。だが、その大会の最中、目と鼻の先のウクライナで親ロシア派のヤヌコービッチ大統領に対する抗議デモが起き、大統領は国外に逃亡した。この事件を機にロシア系住民が多いクリミア自治区ではウクライナからの独立の機運が高まり、国民投票を経て瞬く間にロシアに編入されてしまった。

 一方、東アジアでは、このところ中国の海洋進出が目立ち、日本だけでなくベトナムやフィリピンとも領土問題で緊張状態が続いている。中国は国内でも新疆ウイグル自治区などでしばしば発生している民族問題を力で抑え込もうとしている。先日の天安門事件25周年においても、5年前の20周年のときに比べ政府のはるかに神経質な対応が目についた。

 かつての冷戦時代に東側を代表したこの2大国は、今になってなぜこうした強権的な行動に出ているのだろうか。

 25年前に冷戦が終結すると、ロシアも中国も資本主義経済に舵を切った。90年代のロシアは経済危機に見舞われたが、プーチンが大統領に就任した頃から天然資源の価格が高騰し経済は急速に回復した。一方、中国では改革開放政策による外資の呼び込みに成功し、2000年代に入ると驚異的な経済成長を遂げた。もはやイデオロギーの時代は終わり、いつかはこの両国も資本主義経済の枠組みに取り込まれ、世界は一元化していくのではないかと期待された。だが、両国の発展の裏ではさまざまな矛盾が生じていたのである。

 ロシアでは、欧米的な近代化を推し進めるために製造業を立ち上げようとしたが、産業を牽引する中間層が育たず、結局、国家が管理する天然資源に頼る体質に逆戻りしてしまった。その一方で、グルジアやウクライナなどかつてソ連に属した国々が次第にヨーロッパとの関係を強め、ロシアが描く地域秩序と安全保障を脅かすようになった。

 中国では人件費の高騰による国際競争力の低下により経済が減速し始め、国民はかつてのように明るい未来を描くことができなくなってきた。貧富の格差が広がり環境問題も深刻さを増す中で、下手をすれば不満の矛先は一気に共産党政権に向きかねない状況にある。

 こうした現状を打開するために、かつての冷戦時代の統治手法が復活しつつあるのだ。両国に共通するのは、資本主義経済に移行後も自分たちの価値観を西側に合わせるつもりはないという点である。未だに民主主義は育たないし、育てようとする気も見られない。独裁的な権力の下で国家主導の発展を目指し、国民もそれを支持する体質は、かつての冷戦時代、ひいてはそれ以前の帝政時代と本質的に変わっていない。

 だが、冷戦時代とは決定的に異なる点がある。それは彼らが経済的に世界中と深く結びついていることである。身勝手なやり方は、すぐに我が身に跳ね返ってくるのだ。

 強引な態度はむしろ彼らの弱みの裏返しだろう。日本を含め各国は、挑発に乗らず事態の正確な分析と冷静な対応が望まれる。

巨人の出現

 安倍政権になっても尖閣問題により悪化した中国との関係改善の糸口がつかめず、むしろ対決姿勢が強まっているように見える。安全保障の問題は確かに重要だが、その点ばかりをクローズアップしていたのでは状況を大きく見誤りかねない。

 最近、元外交官の河東哲夫さんの本の中にこんな下りがあった。「ソ連の崩壊は冷戦という観点から見れば高々45年の歴史に終止符を打ったに過ぎないが、中国の復活は300年間に及ぶ西欧支配、つまりは植民地主義が終焉を迎えたことを意味する」。この20年の中国の復活は、世界のパワーバランスを根本的に変えてしまったのである。

 産業革命による西欧帝国主義の隆盛と清王朝の衰退により世界は西欧中心に動き始め、中国は長い低迷の時期に入った。その後、辛亥革命、日中戦争、共産主義革命、文化大革命と大きな転機は何度もあったが、近代化は進まず低迷から脱する事はできなかった。いつしか世界中の人たちは、中国はイデオロギーの壁の向こうにある巨大な後進国家であり続けると信じて疑わなくなったのである。

 毛沢東の死後、改革開放が始まったが、それでも発展の速度はなかなか上がらなかった。だが、転機は突然やってきた。100年は続くと言われた冷戦があっさり終結したのだ。

 中国の人口はヨーロッパとアメリカを足したものに匹敵する。冷戦の終結とともに、その労働力を求めて世界中から投資の波が中国に押し寄せた。中国の労働力をいかに自分たちの利益として取り込むか、そして中国の市場をいかに早く切り開くか、出遅れれば致命的な打撃を受けることになったのだ。

 結果的に、中国をめぐる先進国のそうした競争が中国の近代化の扉を一気に開くことになったのである。冷戦という堰が切られ、近代化という水が一気に中国に流れ込んだのだ。気がつけばそこには、20年前には誰も想像しなかった巨人が立っていたのである。

 この突然の出来事は、さまざまな歪みを世界中に生じさせた。中国国内では急速な経済発展が貧富の格差や環境問題、さらには昨今話題の金融のゆがみなどを引き起こし、海外においては産業の空洞化、資源獲得競争激化、領土問題などで各国を悩ませている。中国発の巨大津波が世界中を駆け巡っているのだ。

 こうした問題はあまりにも急速な中国社会の変化にともなう副作用で、大地震後の復興のように解決には時間がかかる。だが、そうした個別の問題への対処にばかり注意していては事の本質を見誤る事になる。それよりも新たに出現した巨大パワー、現代中国とどのような関係を構築して行くかというグランド

尖閣問題の意味するもの

この10数年の間に中国は急速な経済発展を遂げたが、それを可能としたのは改革開放政策による外資の導入だった。自力の産業の育成には時間がかかる。中国は自国の労働力を提供する代わりに、海外企業を国営企業との合弁という形で取り込み、短時間で先進国の優れた技術やサービスを吸収してきたのである。

その際、人民政府が最も警戒したのが、先進技術は海外企業に握られたまま労働力のみを提供する経済植民地化だ。出来るだけ早く技術を吸収し、外資には早々に出て行ってもらうのが政府の目論見だった。だが、国営の合弁企業は政府の保護下で、海外技術に依存する体質が身に着いてしまった。リスクを犯して自ら技術開発するより、海外から吸収するほうがはるかに楽だからだ。しかし、その結果、世界第2の経済大国に躍り出たにもかかわらず、世界をリードする先進技術やブランドはほとんど無く、先進国の下請けに甘んじる構造から脱却できないでいる。にもかかわらず平均賃金は大幅に上昇し、国際競争力が低下し始めている。人民政府の焦りが伝わってくる。

 さらにここに来て中国経済はもう一つのジレンマに直面している。自らの台頭は相対的に旧来の先進国の競争力を低下させる。今回のヨーロッパの経済危機はその一つの現れだ。だが、その結果、何が起きたか。発展の原動力となってきた輸出が打撃を受け、中国自らの経済成長に急ブレーキがかかったのである。小さな国ならともかく、この巨大国家が世界に及ぼす影響はあまりにも大きい。一人勝ちはありえないのだ。

 成長のかげりは国内の様々な社会問題を顕在化させている。貧富の差の拡大に伴い拝金主義が蔓延し、労働争議が頻発している。高学歴化が進み大学進学率も飛躍的に高まったが、国内企業が育たないため、卒業しても学歴に見合った職がない。豊かさを享受するごく一部の人を除けば、多くの国民が閉塞感に苛まれているのである。

社会保障のための財政負担の急拡大も大きな問題である。一人っ子政策により急速に進む高齢化がそれに追い討ちをかける。国民の間には、生活水準が先進国に追いつく前に社会問題だけが先進国並に悪化してしまうのではないかという不安が広がっている。

こうした国民の不満はインターネットによって増幅され政府を脅かしている。政府高官の汚職問題がさらに政府への不信を増大させる。経済発展とは裏腹に共産党一党独裁による国家の統治は年々困難を増し、今や綱渡り状態なのだ。

国民の不満を逸らすには、反日と領土問題は格好の材料だ。日本企業を中国市場から締め出すと脅せば、日本は領土問題で妥協せざるを得ないという読みがある。しかし、日本を締め出すようなことになれば中国自身も深刻な打撃を受けることは明らかだ。

尖閣問題は共産党政権が体制維持を図るための道具として用いている側面が強い。その背後にはこの巨大国家が抱えるさまざまな問題が横たわっており、日本はそれに巻き込まれているのだ。簡単な解決策はありそうもない。

転機の中国

 先日、会社である製品の製造委託をしている中国福建省の工場を訪れた。半年振りの訪問だったが、まず驚いたのが街中の建設ラッシュだ。大規模開発が進み、地震にでも襲われたかと思うほどいたるところで建物が壊されている。跡地にはマンションや大型ショッピングモールができるようだ。マンションの価格は日本円で一部屋1000万円程度。この数年、地方でも道路などのインフラ整備が急ピッチで進められてきたが、いよいよ街造りの最終段階に入ったようである。

 今回は久しぶりに長い滞在だったので、工場のさまざまな変化に気がついた。大きく変わったのが従業員の表情だ。かつての労働集約型産業の現場では、必死に働く従業員の表情に圧倒されたものだ。しかし、今では彼らの顔は穏やかだ。ちょうど一人の新人が工場の先輩達に仕事を教わっているところに出くわしたが、日本の女子高生並に化粧をしたその少女が微笑みながら説明を聞く様子はなんとものんびりしている。工場からは張り詰めた緊張感が消え、集中力もスピードも以前と比べ明らかに落ちている。

工場の社長によれば、彼らの給料は10年前の5倍に膨れ上がったという。にもかかわらず、誰もが今の給料には満足していない。常により条件の良い勤め先を探していて、厳しいことを言えばすぐに辞めてしまう。一方、会社が従業員を解雇するのは容易ではない。しばらく前に労働者保護の法律ができたからだ。それを盾に従業員は労働条件の向上を求め続ける。こうなると工場の管理は大変だ。経営者も頭を抱えている。

中国は安くて良質の労働力を武器にこの10年ほど急速な経済発展を遂げてきた。その結果、富裕層と呼ばれる人たちの生活レベルはすでに日本人を上回るほどになった。かつて鄧小平が唱えた先富論の第一段階だ。人民政府は次のステップとして、地方の生活水準の向上に向けてインフラ整備を盛んに行ってきた。だが、これまで都市に出稼ぎに出て富裕層出現の原動力となった農民工たちは、同時に都会の豊かな生活も目の当たりにした。その結果、尽きることのない富への渇望が生まれたのである。

しかし、13億人の人口が先進国並の生活レベルに達するためには、まだまだ生産性が低い。中国の発展はここからが踏ん張りどころなのだ。しかしどこかで歯車が狂ってしまった。自分より豊かな人を妬み、現状への不満ばかりが蔓延する世の中になってしまった。まじめに働くのは馬鹿らしく、楽をして金を儲けようとする風潮が急速に社会全体に広まりつつある。ハングリー精神は忘れ去られ、かつて世界一のコストパフォーマンスを誇った中国の労働力は、急速にその競争力を失いつつある。

少ない労力で効率的に儲けようと知恵を絞ること自体は悪いことではない。中国人はもともとそうしたことに長けた国民だ。しかし、あまりにも急速な発展の結果、国家全体が拝金主義に染まり、巨大な欲望の渦に飲み込まれようとしている。果たしてこのピンチを乗り越え、一段と成熟した国家へと脱皮できるのか。中国は今、重要な転機を迎えている。

格差と平等

上海でも日本の焼肉は人気だが、価格は日本並みかそれ以上である。しかし、そこでバイトしている人の時給は10元(130円程度)にも満たない。これでは、いくら頑張っても焼肉を食べられるような身分にはなれそうもない。

だが、こうした人件費の安さは、雇う側にとっては大きな強みとなる。安い労働力は、高い利益率を生む。中国でもし高品質の商品やサービスを扱って成功すれば、短期間に日本では考えられないような巨大な富を築くことができるのだ。安い労働力は、ただ輸出競争力を高めるだけでなく、中国の人々に成功のチャンスと意欲を与えているのである。

一方、日本では何をやっても人件費が重くのしかかる。企業は、この数年、本格的に人件費の削減を進めている。終身雇用をやめ、また、正社員を減らして派遣社員に切り替えた。最近では、かつては当たり前だった社内研修の費用を抑えるために、あえて新卒者を採らず、即戦力となる社員のみを中途採用で採るケースも増えているらしい。その結果、日本でもじわじわと格差が広がり始めている。中国に対抗しようとするうちに、中国の格差が回りまわって日本に輸入されてきているのである。

しかし、果たしてこれで良いのだろうか。目先のことばかり考えて人件費をカットすれば、結局、日本全体の購買力が低下し、自分で自分の首を絞めることになる。確かに、周りが全て非正規雇用者を多用するなかで、自分のところだけ終身雇用を続ければ倒産してしまうかもしれないが、長い目で見れば、非正規雇用者が増えることは企業にとっても日本経済にとっても決してプラスではない。

人経費だけではない。コストダウン、合理化努力と言いながら、やっているのは仕入先への値引き要求ばかりだ。もちろん、無駄が多く合理化余地が十分あった時代はそれで良かったが、限度を超えた値引きの強要は、仕入先の経営を圧迫し、品質の低下を招く。確かにビジネスは厳しい。だが、人件費を削ったり、仕入先いじめをする前にやるべきことはないのだろうか。中国の安い労働力に対して、そうしたコストダウンだけで対抗していては、日本経済は自滅の道を歩むしかない。

ところで、ここ数年、日本の温泉ツアーが人気だ、日本の洗練されたもてなしは決して中国では味わえないものだ。マンガやゲーム、若者のファッションなども中国人を惹きつける日本の文化の一つだ。中国から見れば、日本にはすばらしいものがたくさんあるのである。しかも、彼らが知っているのは日本の魅力のほんの一部に過ぎない。

こうした日本独特の文化が発達したのは、誰もが平等に暮らせる日本社会があったからではないだろうか。格差を利用して発展を続ける現在の中国のような社会では、そうした成熟した文化が大衆から生まれることは当面ありそうもないからだ。

そろそろ安易なコストダウンから脱却し、自分たちの強みを活かした新たな付加価値の創造を、今こそ真剣に考えるべきときではないだろうか。

中国に学ぶべきこと

 年明け早々、日本の景気の悪さを尻目に、中国からはやたらと景気のいい話ばかりが聞こえてくる。昨年の自動車販売台数はアメリカを大幅に上回り、今年はGDPで日本を追い抜きそうだ。上海では街は大賑わいで、レストランの予約を取るのも困難な様子だ。

こうした中国に対して日本の書店で目立つのが中国脅威論とバブル崩壊論だ。確かにいずれも根拠のない話ではないが、その多くが落ち目の日本のひがみと焦りから来た偏った見方で、今の中国の実像は見えてこない。

中国の最大の特長は、この先どういう国を造っていくかという確固としたビジョンがあることである。現在の中国の繁栄は、そのグランドビジョンに基づいて着実に計画を実行してきた結果なのである。しかも、その実績は国民から支持されている。一昨年の北京オリンピックの成功や今回の世界的な経済危機を真っ先に乗り切ったことにより、国民はさらに自信を深めただろう。現在の好況は、国家の将来に対する自信と期待の表れなのである。

 昨年の天安門事件20周年において目だった混乱が起きなかったことも、そうした中国国民の意識を反映している。確かに中国政府のコメントにはかつての事件に対する反省は一切見られなかったが、だからと言って天安門事件を肯定しているわけではない。時代が変わっているのである。この20年間の改革開放路線で中国は飛躍的に豊かになり、同時に国の考え方も大きく変わったのだ。むしろ、アメリカと一緒にイラクに戦争を仕掛けた国々から「民主化」についてとやかく言われる筋合いなどないというのが、多くの国民の思いだろう。

中国はどのような国家を目指しているのだろうか。昨年暮れにコペンハーゲンで開かれたCOP25における中国の身勝手な主張に頭に来た人も多いだろう。しかし、彼らの言動は始めから批判覚悟の外交戦略だ。もちろんそこには、不況脱出のためには中国経済に頼らざるを得ない先進各国の足元を見透かしたしたたかな計算がある。だが、中国が環境を軽視しているわけではない。環境問題の解決なくして彼らの理想国家建設の計画は完結しないだろう。しかし、国内にさまざまな問題を抱える中国にとって、当面、成長を最優先せざるを得ない事情がある。だが、その成長の先には、世界一の環境先進国になる青写真もしっかりと描かれているに違いない。中国とはそういう国なのだ。

何も経済を優先しろとか中国をまねろと言っているのではない。中国にも弱みはあるし、誤算もあるだろう。しかし、国を挙げて理想を着実に実現していく姿勢からは学ぶべき点が多くある。未来に対して道が示されていれば、相当の困難でも耐えられるものだ。日本に一番欠けているのは、将来に向けた明確なビジョンなのだ。偏見にとらわれている場合ではない。この隣国に学びすぐれた点を吸収することにより、われわれが歩むべき道を見出すときが来ているのである。

上海人の隠れ家

 北京をはじめとする中国の有名な都市が1000年を越す歴史を持つのに比べ上海の歴史は全く浅い。アヘン戦争後の1842年、南京条約により開港されたのがその始まりである。その後すぐにイギリスとアメリカ、そしてフランスによって租界が築かれ外国人居留区が形成されると、海外の金融機関が次々と進出し、独特のエキゾティックな文化が開花していった。こうして1920年代には、上海はアジア最大の金融都市に成長していたのである。

しかし、日中戦争に続き、1949年に共産主義革命が起こると、海外資本は一斉に香港に拠点を移し、上海は一旦、国際金融都市の座を失う。再び流れが変わったのは1978年に始まった改革・開放以降だ。香港は当時まだイギリスの植民地であり、政府にとっては香港だけを頼りに近代化を進めるのはリスクが高かった。なんとか香港に対抗できる経済拠点を国内に築く必要があったのである。こうして上海は再び脚光を浴び、鄧小平の掲げる先富論を実現すべく中国の急速な発展を牽引してゆくのである。

 この第2の発展は、かつてのコロニアルな繁栄とは異なり、中国自身の巨大エネルギーが世界に向けて噴出した結果だった。そのあまりに急激な変化は、かつてのエキゾティックな上海を一気に飲み込もうとしているように見える。街の中心を流れる黄浦江沿いにかつての銀行などのレトロな建物が建ち並ぶ「外灘」は、永年、上海の顔だったが、今では対岸の浦東エリアに林立する摩天楼にその座を奪われてしまった観がある。庶民が暮らすエリアも、まるで早回しのビデオでも観ているかのように次々と高層マンション郡に取って代わられて行く。

 もはやかつての上海は消えてしまう運命なのだろうか。そうでもなさそうである。それどころか、上海の人々の心には、古き良き時代の遺産に対する確固たる想いが感じられる。改革・開放以降、かつての古い建築を買い上げ自ら住むなり、改造して店として使う人々が現れた。南京路や淮海路など、かつての租界の中心地で、現在も上海の一等地にあるこうした物件は、高級マンションに比べても桁違いに高価なのだ。

先日、かつての領事館を改装したレストラン、雍福会(ヨンフーホエ)に行ってみた。松や楓が生い茂る庭のあちこちには中国の古い工芸品が置かれ、カフェとしても利用されている。建物に足を踏み入れると、アール・デコ調のほの暗い明かりが落ち着いた気分を誘う。椅子もテーブルも全てがアンティークで隅々まで神経が行き届いている。あちこちに置かれた中国の調度は洋風の建築に溶け込み、みごとな中洋折衷の空間を作り上げている。料理はかつて中国の貴族によって楽しまれたレシピをベースにし、今日では使われなくなった素材も用いられている。その味には時を経て熟成された深みが感じられる。それらが高級フランス料理レストランに劣らぬ洗練されたサービスでもてなされるのだ。レストラン自らが評するように、まさに「都市の喧騒を逃れた内なる安らぎの空間」である。

1000年の歴史はなくとも、われわれには洗練された時間の凝縮がある。上海人の自信とプライドを垣間見たような気がしたのだった。

中国バブルレポート

 中国の株式が値上がりを続けている。上海A株は、この2年間に5倍、今年に入ってからも2倍になった。誰がどう見てもバブルである。これに対して、アメリカのグリーンスパン元FRB議長なども、機会あるごとにバブル崩壊への懸念を表明しているが、株式投資熱は一向に冷める気配がない。

 中国においては、ここ数年の貿易黒字の急激な増加により外貨準備高が膨れ上がり、それとともに国内のマネーサプライが急増した。政府はそれを抑えるために、再三に渡り金利と銀行の預金準備率を引き上げたが、それでも市場の資金は吸収しきれず、極端な金余りの状態となった。そうした資金は、まず国内の不動産に向けられ、この3-4年ほどでマンション価格が高騰した。しかし、北京や上海の中心部に次々と建てられる高層マンションの価格は、すでに一戸当たり日本円で5000万円を越える水準に達している。警戒感が高まった結果、新たな投資先を求めた資金が株式市場に流入し、現在の株価の高騰を招いているのである。

 中国のGDPはすでに世界5位であり、日本の半分程度に達している。人口が日本の10倍もいるのだから、まだまだ貧しいのではないか、と考えるのは間違いである。国内の大半の富は、人口の1割程度の富裕層と呼ばれる人々に集中している。しかも彼らは、常に安い労働力の恩恵を受けられる。飲食店の店員の給与が安ければ、食事代も安くなる道理である。最近の中国の富裕層の人たちの暮らしぶりは、すでに日本人より豊かだというのが実感だ。ただし、それは残りの12億もの貧しい人たちが、安い賃金で働いていて、彼らを支えているからである。彼らが株式に投資する資金も、それによって発生したバブルも、急速な成長とともに拡大した極端な貧富の差によってもたらされたものなのである。

 現在、中国の若者は、1つの会社に定着することなく、より高い給与を求めて転職を重ねている。しかし、田舎から都市部へは、常に新たな安い労働力が供給されるので、思うように給与は上がらない。しかし、都市での豊かな生活を目の当たりにして、自分も豊かになりたいと思わない者はない。今後、中国の平均賃金は間違いなく上昇するだろう。それとともに、これまで富裕層が享受してきた安い労働力の恩恵は失われていく。それを最もよく知っているのは、実は富裕層の人たち自身だろう。激動の歴史を持つ中国で、自分達にだけ良い時代がいつまでも続くと考えるほど、彼らは楽観的ではない。だからこそ、今のうちに自らの資産を出来るだけ増やしておくために、投資に力を入れているのである。

 中国バブルは崩壊するのか?中国経済の特殊な事情を考えると予測は困難だ。そもそも、これまでのあまりに急激な発展自体が、歴史に類を見ない異常な出来事なのだ。豊かさを求める13億人のエネルギーは、さまざまな犠牲や矛盾を次々と飲み込み、ひたすら膨張し続ける。そのダイナミズムは、従来の世界の常識を越えている。現在のバブルも、その巨大なうねりの中で、出来ては消える泡の一つに過ぎないのかも知れないのである。

中国の経済構造・私論

 歩道に面した軒先で、肉まんや野菜まんを蒸かすセイロから美味そうに湯気が立ち上る様は、上海の街中で毎朝見られる光景である。そうした点心の類は、いずれも手抜きのない本場の味だが、一個およそ0.7元(=約10円)。一方、市内のいたるところで見かけるスターバックスコーヒーは、一杯20元(約300円)以上。実に肉まん30個分である。

 上海で働く人たちの平均月収は45万円だといわれている。しかし、外資系の企業に勤める部長クラスのサラリーマンでは、年収4500万円(夫婦合わせればその2倍)の人も珍しくない。彼らは、150㎡以上の高層マンション(34000万円)に住み、大型のプラズマディスプレーでサッカーを楽しみ、大抵は外車を2台は保有している。もちろん家事は家政婦任せである。こうした人々は、店先の肉まんを食べることなどめったにない。

 そうした富裕層は、近年の中国経済の急成長の賜物だが、その急激な成長を支えているのは、低所得層の安い労働力である。上海あたりでも、地方の農村からの出稼ぎの人などは、月に1万円以下で生活していることも珍しくない。上海のような大都会で、なぜそんなに安い賃金で生活が成り立つのだろうか。日本と根本的に異なるのは、中国では田舎に行くほど物価も賃金も急速に安くなるということである。大都市には、そうした田舎から、安い食材や衣料品などがいくらでも入ってくる。だからジューシーな肉まんが、わずか0.7元で食べられるのである。住居に関しては、社会主義の中国では最低限の補償がある。贅沢さえ言わなければ、大都会でも1万円で十分生活していけるのである。

こうした都会の人々の生活を支える田舎の人たちの収入はさらに低い。しかし彼らも、自分達と同等以下の収入の人たちが生産したもので生活している限り、十分豊かに暮らせる。確かにスターバックスコーヒーや海外ブランド品には縁がないかもしれないが、彼らはそもそもそんなものには関心がない。こうして遡っていくと、最後に、自然の恵みによって農耕し、家畜を養って生活する人々に行き着く。果たして彼らは貧しいのであろうか。それは彼ら自身に聞いてみないとわからないが、「中国経済は一部の富裕層を支えるために、多くの貧乏な人が犠牲になっている」と簡単に決め付けることはできないのである。

現在の中国の経済発展は、確かに安い労働力なしでは成り立たない。従って、13億の国民すべてが、アメリカ人並みの生活レベルになることは、当面はあり得ない。しかし、そもそもそれは必要なことだろうか。現在の富裕層と呼ばれる人たちが、その賃金格差と同じだけ幸福な暮らしをしているかどうかは疑問である。豊かさは必ずしも資本主義的な尺度だけで計ることはできない。社会主義を保ちつつ、急速に資本主義を発展させる中国は、本質的な豊かさを目指して、壮大な実験を進めているのであろうか。