物理学におけるHOWとWHY

 20世紀初頭、物理学の世界では量子力学が出現し、原子レベルのミクロの現象が非常によく説明されるようになった。その結果、光は何なのか、なぜ金属は電気を通すのに水晶は通さないのか、あるいは、なぜ鉄は磁石にくっつくのか、なぜガラスは透明で金属はぴかぴかしているのかなどなど、さまざまな身近な現象も目からうろこが落ちるように理解できるようになった。さらに量子力学は、半導体に代表される人工的な材料の発明を可能にした。それがトランジスターのような素子開発につながり、さらにはテレビやコンピューターなどを次々と生み出して、現代のIT社会を造り上げたのである。

ただ、そうした大成功の裏で、物理学は不確定性原理、つまり粒子の位置と運動量(速度)を同時に正確には予測できないという制約を科せられることになった。今、目の前にあった電子が、次の瞬間には宇宙のどこにあるのかわからない。確率はわかるが、調べてみなければわからない。そんなことになってしまったのである。予測するのが商売である物理学にとっては、看板に偽りありである。それ以来、物理学者は、ずっとこのジレンマに悩まされ続けることになったのである。

不確定性原理は、理論的に導かれるものではなく、実際に電子などの振る舞いから出て来た制約である。そして量子力学は、その実験事実を満たすように作られたのである。しかし、なぜ不確定性原理が存在するのであろうか。実は物理学の世界では、この質問はタブーとなっている。事実がそうなのだから、そんな疑問は持ってはならないと戒める人もいる。ミクロの世界では、日常的な常識が通用しないのは当たり前だと言うわけだ。

確かに量子力学は大成功し、科学技術の飛躍的な進歩を可能にした。それとともに、当初は量子力学に異論をとなえていたアインシュタインのような人々も次第に姿を消し、物理学者はその気持ち悪さから目をそらすようになった。しかしながら、その有効性はともかく、この宇宙の基礎をなす理論が、そんなもどかしさを残したままで良いのだろうか。

物理学はHOWの学問だと言われてきた。これは、物理学の創設者、ニュートンが万有引力の法則を発見した際に、「なぜ、万有引力は存在するのか」という疑問を自ら封印し、物体の運動をいかに記述するかにとどめたことに始まる。なぜそうなっているかは、「神のみぞ知る」と言うわけだ。それ以来、物理学は数学を用いて自然現象をいかに(HOW)記述するかに努めて来た。量子力学の構築も、その典型的な例と言えよう。しかしながら、HOWに答えられれば、WHYは無視してもよいと言うことではない。ニュートンは、HOWの手法、つまり科学的な方法によって、ギリシア哲学以来のWHYのアプローチを超え、より深い自然の理解に到達したが、同時にそれはWHYに対しても大きな説得力を持っていたのである。

量子力学はHOWに対してすばらしい答えを出してきた。しかし、依然としてWHYに対して納得のいく答えを出せないとしたら、自然の根本を記述し、すべての科学の基本となる理論としては、やはり不十分だと言わざるを得ないのではないだろうか。

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