音符と音符の間にあるもの

永年ピアノを習っているが、モーツァルトが一番好きだという先生にめぐり合ったことがなかった。多くの先生にとって最も人気のあるピアニストはショパンではないだろうか。そしてショパンのピアノ曲はモーツァルトのものより勝っていると思い込んでいる。モーツァルトは物足りないと感じているから、自ずとモーツァルトを教える際の本気度は低くなる。モーツァルト好きの僕にとっては頭の痛い話だ。

確かにモーツァルトの時代にはピアノはまだ発明されたばかりの新しい楽器で、音量的にも鍵盤の戻りの速さなどのメカニカルな面でも現在のピアノに比べて劣っていた。モーツァルトも旅先で性能の高いピアノに巡り合うと有頂天になったようで、それがしばしば名曲を生み出す契機となっているほどだ。その後も作曲家の要求はピアノの進歩を促し、ピアノの表現力の進歩の原動力となった。そしてショパンやリストの時代になると、ようやく現代のピアノと遜色のない機能を備えたピアノが出来上がったのである。

ショパンの時代にはモーツァルトがやりたくてもやれなかった技巧が可能になり、作曲家はそれを前提に作曲することができるようになった。その結果、ショパンの曲はモーツァルトの曲にはないきらびやかさを具え、高度な技巧を駆使した表現が次々と出てくるようになる。ピアニストにとっては弾き栄えがし、テクニックを誇示するには持ってこいの音楽になっているのだ。多くのピアニストがショパンを好む所以である。

では、モーツァルトや更に昔のバッハの鍵盤曲はショパンのものより劣っているのだろうか。僕にはとてもそうは思えなかった。何度練習しても新鮮な感動を与えてくれるモーツァルトの音楽には何か計り知れない魅力を感じるからだ。モーツァルトに最も力を入れる世界的なピアニストが大勢いるのもそれを裏付けている。

そうした僕のピアノ人生にとうとう幸福が訪れた。モーツァルトの凄さを理解しているS先生に教えてもらうことになったのだ。先生はモーツァルトの音楽に対する評価は明快だった。確かに技巧的にはショパンの時代の音楽に比べて限られているかもしれないが、モーツァルトの音楽の質はそれを差し引いて余りある。むしろ技巧に頼る分だけショパンの音楽は表層的になりがちだ。当時のピアノの能力でモーツァルトが表現した世界は、後にショパンが表現したものと比べてもはるかに豊かなのだ。

譜面を見るだけだと、モーツァルトの曲はショパンに比べはるかに簡単に見える。しかし、その少ない音符と音符を繋いでいくためには演奏者の深い理解と高い技術が要求される。子供には簡単だが、一流ピアニストには難しいと言われる所以だ。現在、K322のソタナに取り組んでいるが、改めてモーツァルトの音楽の多様さに驚くと同時にその難しさを肌で実感している。

ショパンは確かにピアノによる多種多様な感情表現を編み出したかもしれないが、モーツァルトが目指したものはさらに高度な精神世界だったのだと感ぜずにはいられない。

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